浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

音楽作品の客観的存立とその解釈

岡田暁生『音楽の聴き方』(19) 

岡田は「音楽作品」について話しているのだが、これは「芸術作品」全般にあてはまるように思われる。

次の作品は、「芸術作品」であるや否や?

 

ピンクノイズ

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4分33秒 (John Cage)

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音楽の解釈とは何か

演奏と同じように批評もまた、音楽についての一つの解釈である。そして音楽を生み出した共同体/歴史/文化が遠く彼方に過ぎ去っていくにつれ、…「意味の解釈」もまた困難になっていく。

岡田は先に、「その音楽が生まれた特定の時代/地域/文化から遠ざかれば遠ざかるほど、その「意味」は次第に不明瞭になっていく」と述べていた。共同体は地域と、歴史は時代とほぼ同義だろう。特定の時代(歴史)、特定の地域(共同体)、特定の文化が遠くなれば、「意味」は不明瞭になっていき、「解釈」が困難になっていく。それは当然だろうが、ここで重要なことは、音楽の「意味」が「特定の時代(歴史)、特定の地域(共同体)、特定の文化」に関連付けられていることである。音楽は、「特定の時代(歴史)、特定の地域(共同体)、特定の文化」とともにある。

 

個々の作品に生きた意味を与えてくれる文化規範を知らずして、人は何を口にすればいいのだろう。背景について何の予備知識も持たない音楽をいきなり聴かされ、「これについて何か述べよ」と命じられたとする。言えるのはせいぜい、「……だった」と「……と感じた」だけではないか。前者は例えば「音が大きかった」といった、それ自体ではまだ何の意味もない即物的な事実報告、アドルノフルトヴェングラー論の冒頭で言う「解釈者はその硬い輪郭を再現することしかできない」というケースである。そして後者は、音楽についての言説でしょっちゅうお目にかかる、「音が大きくて圧倒された(ような気がする)」式の感覚批評だ。

「文化規範」が、個々の作品に生きた意味を与える。音楽を「語る」ことが、「意味」を語る(解釈する)ことだとすれば、「文化規範」を知らねばならない。その予備知識がなければ、「即物的な事実報告」か、「感覚批評」となる。これは音楽だけでなく、絵画などでも同じだろう。

 

音楽作品の客観的存立、その本質は、[作曲家が]意図したものではなく、それが関係するところの、個人を超えた共同体と結びついた実在である」(アドルノ)。

アドルノのこの主張は興味深い。これについてコメントする前に、岡田による説明を聞いておこう。

おそらくアドルノがここで考えている「音楽作品」とは、簡単に言えば、人々の共有イメージのようなものだと思う。特定の社会の中で時間をかけて合意されてきたところの、「これってこういうものだよね」という作品像。もちろん個々人の思いは少しずつズレているはずだが、それでも確かに同心円を描いて重なり合うイメージの中核部分が存在する。現象学で言う「間主観的」という意味での、客観的な実質である。こうした社会の共有財産としての作品の記憶の集合のようなものを、アドルノは「作品」と思っているのではないか。アドルノの言う「音楽作品の客観的存立」を言い換えるならそれは、一つの音楽が社会の中である程度客観的な対象として了承されている――「これってこういうものだよね」の共通合意がある――ということだ。この客観的合意の部分無くしては、言葉の真の意味での「解釈」は成立するはずがない。演奏も批評も単なる主観の吐露か、さもなくば無味乾燥な事実再現に陥るのが関の山だ。

人々の共有イメージがある。だから音楽作品として存立する。通常、ノイズや無音は音楽作品とはみなされないだろう。それは「イメージの中核部分」とはなり得ない。だから、音楽作品が「個人を超えた共同体と結びついた実在」というのは、それほど奇異なことではない。音楽作品は、作曲家個人の創造物ではあっても、共同体の共有イメージがあるからこそ音楽作品たり得る。

 

それ[=作品の客観的成立]は、音楽的主観を支配しそれを自らのうちに迎え入れてくれる諸々の形式の力によって保証される。もし形式が真の意味で主観に[自由な]スペースを許容してくれ、同時に[それによって]保証されるとすれば、それは解釈が要求することのできる最高度の自由である」(アドルノ)。

随分と難しい言い回しで、これは理解できない。岡田は次のように説明する。

「音楽的主観」とは作曲家や演奏家、場合によっては批評家や聴衆といった、「個人」のことだろう。そして「こういうものだ」の拘束=「形式の力」があればこそ、それを踏まえたうえで「私はこう考える」という解釈の真の自由も存在するのである。

岡田の説明を参考に、アドルノの言葉を、(誤解を恐れずに)私なりに言い換えてみよう。…音楽作品が客観的に成立するためには、人々の「共有イメージ」(音楽とはこういうものだ)が必要だが、それはある枠組み(形式)の中で自由な創造を認めるものでなければならない。(ケーキ=音楽作品と考えれば、分かりやすいかもしれない。いろんなケーキが創作可能だが、それでもケーキというカテゴリーに属する。)

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ここまでの論考の一つの結論として、アドルノは次のように言う。

作曲家が徹頭徹尾自らの内側から語る場合であっても、彼は一人で語っているのではなく、聴きつけてもらうことが出来るのだ。聴きつけてもらうということが作品自体に形式要素として内在しているのであって、音楽のありようについて多くのことが主観に任されており、例えばバッハのように[作品が]完全に開いている場合ですら、形式に対するその緊張は十分にフレキシブルであって、戯れを許容し、形象を原像へと結びつける糸は決して切れることなく、原像の姿がはっきり感得されることが出来るのである」。

 岡田の解説はこうだ。

注目すべきは、アドルノが使っている「聴きつけてもらう(vernehmen)」という表現である。つまり一つの作品や作品解釈の背後に何らかの共同体があり、創造者が型を知ったうえで自由を行使する限り、彼はすべてを一人でしょいこむ必要はない。これまで何度も引用した、モーツァルト交響曲のパリ初演の様子など、この典型だろう。「あ、こうやりたいんだな」と意図を察知してもらえることを当てにできる。逆に言えば音楽についての解釈は、それが演奏であれ批評であれ、型についての共同体規範(コード)を知ったうえで、個々の作品や演奏の意味を解読(デコード)しなければならないわけだ。

アドルノの言わんとすることは何だろうか。岡田の説明にはちょっと違和感がある。

音楽作品には「聴き手」がいる。「聴き手」がいなければ作品は成立しない。それが「聴きつけてもらう[身をいれて聴いてもらう]ということが作品自体に形式要素として内在している」の意味だろう。作曲家は自由に(主観的に)創作する。それを他者(自分の中の他者を含めて)が、身を入れて聴く。

アドルノのいう「例えばバッハのように……原像の姿がはっきり感得されることが出来るのである」の部分がどういう意味か、どうにもよく分からない。戯れを許容するのは誰か(形式?)。形象とは、楽譜で表された(解釈の余地のある)音楽のことか。原像とは、楽譜に表される以前の(作曲家の頭にある)サウンドだろうか。誰が原像の姿をはっきりと感得するのか。

岡田は、「創造者が型を知ったうえで自由を行使する限り、彼はすべてを一人でしょいこむ必要はない」と言う。この「すべてを一人でしょいこむ」という言い方が気になる。「創造者が型を知ったうえで自由を行使する」とだけ言っておけば良いのではないか。作品は、1個人の作品の場合もあるし、共同作品の場合もある。アドルノの言わんとすることは、1個人の主観的な作品であっても、「共同体」を前提とするので、「客観的に存立」しうるということのように思われる。岡田のように、演奏家や批評家の「解釈」は念頭にないようだ。(違うかな?)

岡田は「音楽についての解釈は…型についての共同体規範(コード)を知ったうえで、個々の作品や演奏の意味を解読(デコード)しなければならない」というが、恐らくそうなんだろう。(コード、デコードの言葉の使い方が間違っていると思うが。コード、デコードを省けば意味が通じる。)

 

音楽をめぐる言説が自分の主観印象を綴るのではなく、しかし単に無味乾燥な事実確認に終始するのでもなく、個人を超えた客観的な価値観に依拠しつつも、有意味な――つまり「私にとって何であったか」を決して放棄しない――議論を展開しようと思う限り、それは何らかの共同体の存在を前提とせざるを得ない。「これって私たちの中ではこんな風に位置づけるのが普通だよね。でもここはちょっと変わっているけれど、これもこんな風に考えればありかもしれないと私は思うよ」――とても平たく公式化するなら、私が考える音楽解釈の基本図式とはこのようなものだ。あくまで事実に基づき、かつ共同体規範を参照しつつ、その中に対象をしかるべく位置づけ、しかしそこから「私にとっての/私だけの」意味を取り出し、そして他者の判断と共鳴を仰ぐ。これこそが音楽解釈の真骨頂である。

音楽をめぐる言説として、私は「主観印象」があっても良いと思う。「批評家」は、それを幼稚な言説と言うかもしれないが、音感覚を言葉に変換することは、本来不可能なことを要求するものであって、「音楽をめぐる言説」なるものは、そのような言説を公表する「場」と、彼の「経験」に依存するものである。彼は幼稚な言葉しか発していないかもしれないが、「音感覚」を鋭く捉えているかもしれないのである。それに、「私にとっての/私だけの意味」は「主観印象」とどれだけ違うだろうか。言葉を巧みに操る「批評」(語り)には感心するが、それは音楽を素直に(言葉なしに)「楽しむ」のとは別次元の「楽しみ」だろう。