浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

内界と外界

木下清一郎『心の起源』(7)

内界と外界

生物体には、必ず内界と外界がある。…生物に心が生じてくるのは、この平凡なことが遠因になっている。…心の働きは内界と外界との関係として始まり、また常にそういうものであり続ける。

生物学的に見る限りでは、漠然とあたりに漂う生命というものはありえない。原初の生命を担った細胞がそうであったように、すべて生命を持つものは、自ら囲い込んだ領域を自己に属する内界とし、それ以外の領域を自己に属さない外界として区別している境界によって内界と外界が区切られてあることは、生命の誕生以来ずっと変わることなく、つねに生命にとって必須の条件であり続けた。

 内界と外界というのは、興味深い概念である ※。それは、境界(膜)によって区切られる。溶液の一部分がある種のによって区切られ囲い込まれることを細胞と呼ぶ(生命はいかにして誕生したのか? 参照)ならば、細胞生成の条件たる膜がいかにして形成されたのかが、生命の起源の最重要ポイントのような気がする。…木下は「自ら囲い込んだ」、「自己に属する」という言い方をしているが、「意識/意思のある自己」は未だ存在しないはずである。しかし、それは保留にして先に進もう。

※ 自己と他者、やくざの縄張り、所有権、国際紛争、コミュニティ…。とはいえ、「これらは必然的であり、それは生命に基礎づけられる」というのには賛成できない。境界(膜)の形成について考えるべきだろう。

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http://www.biology-questions-and-answers.com/images/Cell-Membrane.jpg

 

多細胞生物

生物は単細胞から多細胞へと進化していった。しかし、そうなっても内界と外界との関係は依然として変わらず、ただ多細胞の個体の全体が内界となって、外界に向かい合っただけのことである。ただし、内界の次元は一つ上がっている。そこでは外界からのエネルギーや情報をいったん個体として取り込み、ついで個体という内界でこれらを処理している。これはちょうど細胞の生命の他に、個体の生命があらわれたことに対応する。細胞の生命と個体の生命とでは、同じ生命という言葉を使っていても、生命の次元が上がっていることは前にふれたことがある。生命の次元が高まったのに対応して、内界の次元にも変化が起きているということになる。

木下はここで「次元」という言葉を使っているが、「階層」という言葉が適切かもしれない。

一つの生物を構成するものをヒエラルキー化すると、最も下層に来るのは原子である。酸素原子は二つで酸素分子を作り、さらに集まることで高分子(この図ではリン脂質)となる。高分子は分化した細胞(クララ細胞)を形成し、組織(上皮組織)、器官(肺)、器官系(呼吸器系)、そして様々な器官系の集大成として一つの生物体(ライオン)ができる。ライオンは複数集まることで個体群(プライド)を形成する。プライドはシマウマの群れと相互作用することで共同体となり、このような現象がなんらかの物理的環境の下、様々な種類の動物でみられる状態が生態系となる。連続する生態系は生物群系と総称でき、更に地球上すべての生物群系を総称して生物圏と呼ぶ。(Wikipedia、生命の階層)

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E9%9A%8E%E5%B1%A4#/media/File:Levels_of_Organization.svg

 

ところで、多細胞生物はなぜ現れたのであろう。実は多細胞生物が現れたことと、心が生まれたこととの間には、これまた深いかかわりがあるので、少しそのいきさつをみておかねばならない。

多細胞生物が現れるまでには長い歴史があった。細胞がただ集まってくれば、多細胞生物がつくられるというような簡単なことではなく細胞の間で機能を分担させる仕組みを持てるようになって、初めて多細胞生物になれるという関係になっている。これを「細胞の分化」と呼ぶことは前にふれた。当たり前のことだが、単細胞ではできなかったことといえば、仕事を分担すること、つまり細胞が分化することであった。単独の細胞でこなせる機能はどう踏ん張ってみてもその種類は限られている。単細胞の生物はある限られた機能ならば効率よくこなせるが、一時に多方面の仕事をやり遂げるには不向きである。ところが多細胞の個体には分化した細胞が備わっているので、それらが仕事を分担すれば、多方面の仕事でも同時に捌くことができる。

 なぜ「仕事を分担する」必要があるのか? なぜ「機能を分担させる」必要があるのか? 誰が、何が、どんな力が、なぜ「機能を分担させる」ようにしたのか? 「神」(妄想?)を前提しなければ、このような説明の仕方は、説得力がないように思われる。…しかし、あまり先走りしないで、木下の話を聞こう。

 

多細胞生物はこういう利点を持ったがために、それまで単細胞生物のみが繁栄していた世界に割り込めたし、そこで大きな地歩を占められたとみられる。しかし、多細胞生物はその代償として、一生の始まりにはいつも個体発生という複雑な過程をおいて、一個の細胞から出発し直すことをしなければならなくなった。これは個体の生命を細胞の生命からやり直すことに相当する。双六で言う「振り出しに戻る」という局面が待ち受けているわけである。しかし、それはまた別のところで論じよう。

「利点」かどうかは分からない。「大きな地歩を占め」れば、「利点」になるというのだろうか。また「一個の細胞から出発し直すことをしなければならなくなった」というが、なぜかは分からない。後で説明があるのだろう。

 

神経系

生物体にとって不可欠の条件となっていたエネルギーや情報の取り込みについても、多細胞では分業の体制がしかれるようになった。単細胞生物ではエネルギーも情報も、単一の細胞としての能力の範囲内で処理されるほかなかったが、多細胞生物では分化した細胞によってそれぞれ分担され、効率よく処理されるようになった。この体制は個体の中にある組織と器官としてあらわれている。

例えば、エネルギーの摂取にかかわる系としては、消化・吸収・排出などの各器官系を持ったし、また情報の受容にかかわる系としては、神経・内分泌・免疫などの各器官系を持った。

いまは心の起源を探ろうとしているのであるから、エネルギーの変換についてはしばらく措いて、情報の処理にまず目を向けたい。なかでも神経系における情報の処理は、後になって心の発生と深く結びついていくことになるので、次の節では神経系について考えたい。

ここで立てた仮定は次の2つである。

  1. 生物体はある領域を自己の領域として限定し、その他の領域を外界として区別する。
  2. 生物体は自らの必然的要請として、外界の情報を受容し、これを処理するための系を持つことになった。多細胞の生物体がつくられると、そこにはこういう系の一つとしての神経系があらわれる。

「必然的要請」かどうかは分からないが、この仮定(仮説)は、概ね受けいれられるように思う。