浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

基本原理としての抽象

木下清一郎『心の起源』(24)

木下は、世界が開かれるための4条件(世界の始まりを考えるための4つの要請)として、特異点、②基本要素、③基本原理、④自己展開を考えていた。今回は、第5章 心の世界を覗きみる 第4節「基本原理としての抽象」である。(基本原理とは、基本要素を統一し、一つの系として存続させるための原理)

AIは心を持てるのか。表象(基本要素)と記憶は、どのような関係でなければならないのか。

自己回帰と記憶

心の体系が作られるには、何よりも情報(表象)が流れ去ることなく、系のなかにとどまることが必要である。これが情報の自己回帰の運動であり、それは記憶の働きとして現れる。記憶が情報の単なる記銘ではなく、それに先立って照合のための想起があり、その結果を再び新しい記憶として記銘するという一連の循環の過程から成り立っていることは既にふれた。これは情報の自己回帰とみることもできる。こういうふうに回路が一巡して閉じ、情報が循環できるようになったことをきっかけとして、いままでは単なる情報の流通機構でしかなかった神経系を、情報の統合機構へと大きく転換させたといってよいであろう。つまり、自己回帰という閉じた回路を持つことは、情報が循環して自分自身に言及することを可能にし、それによって本来なら流れ去るはずの情報を一つの場に閉じ込めて、そこで統合を果たすきっかけを作ったと言える。しかしまた同時に、統合に際して自己言及から生ずる自己矛盾を持ち込む危険性をも孕んでいることにもなっている。このような意味で、自己回帰の原理は心の世界においては根本の位置を占めている。

記憶-表象-記憶-表象-記憶……。古い記憶と新しい記憶。情報の流通から統合へ。

「情報が循環して自分自身に言及する」というのは、「新しい情報(表象)が、古い記憶に影響を与える」ということを擬人的に言い換えたものだろう。記憶神経回路、記憶のメカニズムがどういうものか知らないが、そこに「心の起源」を見ようとすることは、重要な視点であると思われる。但し、自分自身とか、自己回帰とか、自己言及とかいう言葉遣いは、論点先取りの感じがして適切ではないような気がするがどうだろうか。

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https://www.artistsnetwork.com/art-mediums/watercolor/elements-of-design-abstract-gallery/

 

自己回帰と抽象

それでは心の世界の基本原理として自己回帰のみで十分であるかというと、どうもそうとばかりは言い切れない。というのは、自己回帰だけが空転しただけでは、単に均一な表象が無数に複製されるだけで、ほかには何も生まれてこないからである。自己回帰は単なるきっかけであって、自己回帰と共軛(きょうやく)する何ものか、つまりこの循環を発展の契機に変える何ものかが、どうしてもここに付け加わらねばならないと思われる。

共軛とは難しい言葉だが、ここでは「自己回帰と共に働く何か」の意味だろう。

それは何であるかを探っていくと、結局、自己回帰に伴って行われる表象の相互干渉に行き当たる。相互干渉の内容については、前にも言った通り未だよく分かっていないので、今後の更なる検討の課題としたいが、それはある表象の存在様式(表象の個性)が、別の存在様式によって肯定されたり否定されたりすることであるようにみえる。照合の際に起こっている抽象作用と捨象作用とは、おそらく相互干渉の結果として現れているのだろう。抽象とは表象の中から当面の目的に適うものだけを抜き出すことであり、捨象とは当面の目的に不必要なものを度外視することである。この二つの働きが、先に統覚として姿を現していたと思われる。心の世界におけるこの場面は、ちょうど生物世界における自己触媒作用の出現の場面に対応しているようにみえる。それでは、自己回帰と抽象作用(捨象作用をも含めて)とはどういう関係になっているのであろうか。

表象の個性とは何か。木下は前節で、「表象は、論理[生きる目的に合致しているか]と感情[快であるか不快であるか]についての値を与えられて、表象の場の中にある定まった位置を占める。この尺度の座標値は表象の個性を表すものともなっている」と述べていた。表象には、論理や感情に関わる性質が備わっており、その座標値が個性を表していると言うのである(この意味では、個性と言っても人間を前提する必要はない)。

表象の自己回帰(記憶-表象-記憶-表象-記憶……)は、古い記憶との照合により、抽象と捨象が行われ、新しい記憶になると言うのであろう。

木下は、次のような言い方もしている。

心の世界で表象の自己回帰という運動が、抽象作用を生みだす機縁[きっかけ]になっているというのは、この自己回帰が表象の「個性についての自己言及」という要素を含んでいることからきているであろう。

古い記憶(論理と感情の座標値)と新しい表象が照合されることによって、論理値と感情値の修正(抽象作用)が行われ、新しい記憶になる、ということだろうか。

表象の場を手掛かりとして、このことを考え直してみるならば、原初の表象として与えられた個々の感覚表象が、同じ場に入ってきた類似の感覚表象と干渉をおこしたとき、そこで抽象の度合いが一段進んで、「概念」としての感覚へ変貌を遂げることができるのは、場の中での座標値を巡ってのせめぎ合いの結果であるとみられなくもない。生物世界での遺伝子の個性についての自己言及が、自然淘汰則を導き出していった成り行きと、この点が良く似ている。

直観的には(雰囲気としては)、「場の中での座標値を巡ってのせめぎ合い」というのは分かる気がするが、何故そういう動きが生じるのであろうか。これは答えられない問いかもしれない。人は何故生きているのか、という問いと同質の問いであるようだ。

表象同士の相互作用が「概念」を生み、続いて概念同士の相互作用が「命題」を生み、更に命題同士の相互作用が「理念」を生むというように、変貌が繰り返されていくのであろうが、前にも述べた通り、こういう干渉の性格や変貌の実態については、まだ議論を始めるだけの準備ができていないので、別の機会を待つほかなく、いまは単なる想像を巡らすにとどめておくしかない。

概念、命題、理念などの話は、まだまだ先の話だろう。

心の働きに連続や無限の概念が入ってこられるのは、抽象作用によっているのであり、それらを表すのに言語が用いられるのも、また抽象作用あってのことと思われる。離散的な経験の単なる堆積からは、連続や無限は決して生まれてこない。このように見てくると、心の世界では表象の自己回帰を基本原理であるとみなければならないが、それと不可分の関係で抽象作用があるという言い方をしておこう。

連続や無限の概念、言語の話は、まだまだ先の話だろう。

「離散的な経験の単なる堆積からは、連続や無限は決して生まれてこない」は、わかる気がするが、離散から連続がどのようにして生まれるのかはわからない。

ここで立てた仮定は次のようであった。

(13) 心の世界の基本原理は「自己回帰」と、それに由来する「抽象作用」である。

結局のところ、「基本原理としての抽象」が何を意味しているのか、私にはほとんど理解できなかった。

 記憶-表象-記憶-表象-記憶……。古い記憶と新しい記憶。情報の流通から統合へ。

これ以上の何を言っているのだろうか。