(「荘子」森三樹三郎訳)
いつか荘周(わたし)は夢の中で胡蝶(こちょう)になっていた。そのとき私は喜々として胡蝶そのものであった。ただ楽しいばかりで、心ゆくままに飛びまわっていた。そして自分が荘周であることに気づかなかった。ところが目がさめてみると、まぎれもなく荘周そのものであった。いったい荘周が胡蝶の夢をみていたのか、それとも胡蝶が荘周の夢を見ていたのか、私にはわからない。けれども荘周と胡蝶とでは、確かに区別があるはずである。それにもかかわらず、その区別がつかないのはなぜだろうか。ほかでもない、これが物の変化というものだからである。(斉物論篇)
「胡蝶が私の夢を見る」というのは、ちょっと実感しにくい。しかし、非日常的な場面に遭遇したとき「これは現実なのだろうか?」と思った瞬間はある。もしそれが誰かの夢だとしたら?…その誰かが、胡蝶とか神とかではなく、自分だと思えばよい。「これは夢だ。私はいま夢をみているのだ」と。
そして、時の経過とともに、過ぎ去った日常が非日常に流れ込み、「人の一生は歩き回る影法師、哀れな役者にすぎぬ」(シェイクスピア)と感得するに至る。すべては夢となり、後は消えてなくなる。