浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

世界の眺め

野矢茂樹「哲学・航海日誌」)

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  自由が丘 (http://blog.livedoor.jp/bigokamoto/archives/51635285.html)

野矢は次のように述べている。(アンダーラインは引用者)

ごくふつうにあたりを眺め渡してみよう。

さまざまなものごとが見える。机が見え、左の方に本が重ねてあり、右の方にコーヒーカップが置かれてある。さらに窓の外には家々があり、道路を車が走っている。そしてその向こうには丘陵がゆるやかに続いている。こうした光景は、この視点から見られた光景であるという特徴をもっている。他の視点から見れば、また別の光景が見えるだろう。(8世界の眺め)

ここで、野矢がみている光景(たぶん研究室からみた光景)ではなく、上の写真の光景を念頭において考えてみよう(同じことだが)。私が見ている光景と、あなたが見ている光景は同じだろうか?

知覚的に現れている世界のさまざまな光景を「眺望」ないし「眺め」と呼び、視覚的眺望における「視点」に相当するものを知覚一般に拡張して「眺望点」と呼ぶことにしたい。

「私が時計台を見ている」とは、「私が<私の知覚>として見ている」といったことではなく、むしろ「私が立っているところから時計台が見える」に類することなのである。そしてそれは、「私」という人称を剥奪して「野矢が立っているところから時計台が見える」と言い換えても同じことである。つまり、そこにおいて眺望点と眺望の関係はあくまでも非人称的なものとして理解されているのである。眺望点と眺望の関係の内に、「私」とか「彼」は含まれてこない

「この眺望点に立てば、誰でもこの眺めに出会える」という世界了解の非人称的構造。(8世界の眺め)

野矢は「視点を変えれば、誰でも同じ光景が見える」と言っているにすぎないと思われる。「ここに来てごらん。ほら、○○が見えるでしょう」と。…これでは「の世界」を放逐できるようには思えない。

私は、上の写真のような風景を「さまざまな思い」をもって見る。「私」が「見る」ということは、誰かに(カメラで)取られたような「風景写真」を見るのではない。私が見る光景は、「全生涯の経験」をベースにして見られた光景である。…視点を変えなくても(同じ地点から見ても)、人により違う光景が見える。これが、当たり前の常識的な考えではないか。別に独我論でも何でもない。