浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

キリコ 謎以外の何を愛せようか

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http://d.hatena.ne.jp/caesar-blanca/20100905/p1より)

先日 (2014/11/23) のNHK日曜美術館で、キリコの特集をしていた。上の絵は、代表作とされる「通りの神秘と憂愁」と題するものである。

ダリが憧れ、その存在なくしてダリはいなかったとまで言われる画家がいる。20世紀のイタリアを代表するジョルジョ・デ・キリコ (1888~1978)。その代表作「通りの神秘と憂愁」は、強い日ざしが照りつける午後の街角に、輪を転がす少女のシルエットが描かれている。交錯する光と影。異様な静寂に包まれる通り。キリコは影や構図を自在に操り、何気ない日常の一場面を、見るものの不安をかきたてる舞台に変えた。キリコは心の奥底にある孤独や不安。記憶を描き出した。それまでにない、まったく新しい絵画を生み出したのだ。しかし、その後革新的な表現から一転、古典絵画へ傾倒。晩年は自身の初期作品を模倣するなど、謎に満ちた生涯を送った。愛した言葉は「謎以外の何を愛せようか」。(http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2014/1123/)

キリコは、恐らく住居に人々が住み、通りを多くの人々が行き交い、紺碧の空で、太陽が輝き、というようなきらきらとした光景を見て、この絵を描いたのであろう。だから私も同様に、そのような光景をみて、同時にこの絵のような光景を見る。ある風景を見るということはそういうことである。夏の海水浴場を見て、冬の海水浴場も同時にみるのである。それはまた、逆に冬の海水浴場をみて、同時に夏の海水浴場を見るということでもある。視点を転換するとか、表と裏でもない。同時に見るのである。…夏の海水浴場は、冬の海水浴場を含み、冬の海水浴場は、夏の海水浴場を含んでいる。