気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

世紀末の知的ブルジョワ

北川東子ジンメル-生の形式」(3)

音楽への愛着と懼れ

すでに姉からピアノの最初の手ほどきを受け、さらにバイオリンを弾いていた音楽好きのジンメル。…フリートレンダー(ペータース楽譜出版社の社主)は、ジンメル少年といろんな旅行をし、世紀末の知的ブルジョワの生活スタイルを教えた。そしてジンメルに膨大な遺産を残すことで、哲学という「贅沢なランのような」勉強をすることを可能としてくれたのである。(第1章 ベルリンの哲学者)

私は、「世紀末の知的ブルジョワ」という言葉に、なにか憧れのようなものを感じてしまう。ここでいうブルジョワは、資本家階級のことではない。

世界大百科事典内のbourgeoisの言及

【市民】より…ヨーロッパの中世においては,市民は城塞の中に住む人たちを意味した。市民がブルジョアbourgeoisとも呼ばれるのは,bourg(城)の中に住む人たちであるからにほかならない。農村が封建領主の支配下におかれていたのに対して,中世の諸都市は,領主,司教,国王などの対立関係を巧みに利用しながら,貨幣鋳造権,徴税権,裁判権などの自治権を獲得し,さらに独自の軍隊をもって外敵の侵入に備えた。

【市民社会】より…日本の歴史学や社会科学において,通常,civil society,bürgerliche Gesellschaft(ドイツ語),société civile,société bourgeoise(ともにフランス語)などの訳語として使われている用語。〈市民階級〉〈市民革命〉〈市民法〉〈市民的自由〉などとともに,近代のヨーロッパ社会の特質を認識し指示するために考案され,第2次大戦後,とくに有力になった概念の一つである。

ブルジョアジー】より…一般的には,富裕な商工業者や財産所有者で構成されている社会層をいい,有産者階級などと訳される。ブルジョアジーという語は,ブルジョアbourgeoisの集合名詞であり,ブルジョアというのは,もともと町の人(町人)とか市民とかいう意味であるから,ブルジョアジーは,町人身分とか市民階級とか訳される場合もある。そして,主としてマルクス主義の用語法においては,ブルジョアジーは,近代資本主義社会における資本の所有者という意味で用いられ,したがって資本家階級と訳され,労働者階級としてのプロレタリアートの反対語とされる。(https://kotobank.jp/word/bourgeois-1223568)

城塞の中に住む人たちが財産を所有するに至り、その基礎の上に成り立つ「知的営為」は、ある意味「真に望ましいもの」と言えるかもしれない。「音楽」とは、そういう「知的営為」の一種だ。

 

哲学は贅沢なランのようなもの

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Orchidaceae III by TomazKlemensak

哲学もそのような「知的営為」の一種である。それは贅沢である。ブルジョワの贅沢なのである。政治哲学とか社会哲学とか倫理学とか、そういう何とか哲学というものは、私は「贅沢」としての哲学ではないと思う。それは現実の切実な問題をラディカルに考えるという意味では哲学に違いはないだろうが「贅沢」ではない。では「贅沢」としての哲学とは何か。それは「形而上学」であると思う。私がこのブログのトップにあげたテーマである。「贅沢」であるから、絶対なくてはならないものではない。「形而上学」は「夜に香るラン」のようなものである。(注:私は「形而上学」をそのようにイメージしているだけであって、未だその中に足を踏み入れてはいない。)

 

音楽への愛着と懼れ

音楽は、ジンメル一生の情熱であった。「仕事部屋の真ん中ほどに、大きな黒光りするグランドピアノが置かれていましたが、それは豪華な刺繍のほどこされた中国の織物でおおわれていました(マーガレット・ズスマン)」

音楽はジンメルの生活の一部であったのだが、なぜか哲学者としての彼は音楽に対して用心深い距離を保っていた。…「音楽は島のように孤立せるもの、不毛のものを含んでいて、主観的にも客観的にも、そこから世界や生への道は通じていない。人はまったく音楽の内側にいるか、まったく外側にいる」

どうやらジンメルは、思想において音楽的なものが占めていた位置に本能的に懼れをいだいていたようだ。音は場を占有してしまう。内部世界へと沈潜し、そこにおいて自己展開し、そして充足してしまう音楽に対する懼れは、思想の自己閉塞性への懼れである。「内部とは外部へと出ていき、外部から帰ってくるものとしてのみ存在する」とも書いている。内と外とは、境界的のもののふたつの側面としてしか捉えてはならない。(第1章 ベルリンの哲学者)

音楽は「孤立せるもの、不毛のもの」を含んでいる、「世界や生への道は通じていない」という言葉には考えさせるものがある。北川は「思想の自己閉塞性への懼れ」と解説しているが、果たしてそうか。音楽は思想ではない。思想とは関係なく、音楽は「孤立せるもの、不毛のもの」を含んでいる。思想が自己閉塞しなくても、音楽は自己閉塞する。そういう音の世界があるのではないか。そういう自己閉塞こそが魅力なのかもしれない。