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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

STAP細胞 より良き未来のために(3) 

記事下のカテゴリー「STAP細胞問題」をクリックし、最初の「STAP細胞問題 お知らせ」より、お読みください。

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3 報道の中立性を考える

私たちは、テレビや新聞やネットや雑誌等で、STAP細胞「事件」の「はじまり」から「終わり」までを知る。

ここでは、ネットはやや特殊なので除外して、テレビや新聞や雑誌を一括して「マスコミ」と呼ぶ。今回は、このマスコミの「報道」について述べる。

まず考えておかなければならないのは、「報道」と「評論」がどう違うのかということである。評論とは、ある事実を、ある価値基準をもって評価することである、と言って良いだろう。では「報道」は、「価値判断」を伴わない「客観的事実」を、広く一般に知らせることである、と言って良いか。

例えば、A教授が「W研究員は「このリンゴは青い」と言っているが、それは赤色を青色に改竄したものであって、青いリンゴは存在しない」と言ったとする。マスコミは、これをどう報道するか? どう報道すべきか? 私たちは、これをどのように報道してほしいか?

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マスコミ1…A教授は、「W研究員は「このリンゴは青い」と言っているが、それは赤色を青色に改竄したものであって、青いリンゴは存在しない」と言った。

マスコミ2…A教授は、~と言っているが、B教授は「W研究員は「このリンゴは青い」と言っているが、それは青色に近い赤色を、見やすくするために青色に編集したものであって、青いリンゴは存在する可能性が高い」と言っている。

マスコミ3…A教授は、~と言っているが、C教授は「W研究員は「このリンゴは青い」と言っているが、この論文の主旨は「赤いリンゴでなくても、おいしいリンゴがあるといっても良いだろう」というものであり、赤い・青いが主要な論点ではない」と言っている。

マスコミ4…A教授は、~と言っているが、D教授は「A教授は改竄と言っているが、E研究員がなぜ改竄する必要があるのかを説明しておらず、改竄というのは一方的な決めつけである」と言っている。

マスコミ5…A教授は、~と言っているが、E教授は「この研究はW研究員だけのものではない。この研究に関与した主要な研究員が他に3人(X,Y,Z)いる。仮に改竄が事実だとしても、X,Y,Z研究員は共著者として責任を免れない。その責任度合いの判定が説得的ではない」と言っている。

マスコミ6…A教授は、~と言っているが、F教授は「A教授は、大学当局から調査を依頼され、W研究員の改竄を認定したのであるが、大学当局のそのような行為に「法的根拠」があるのかどうか疑わしい」と言っている。

他にもあるだろうが、これ位にしておく。

さて、このマスコミの6つの報道に、ウソ偽りはない。A~F教授の発言を、正しく伝えている。マスコミ自身の価値判断が加えられていない。A~F教授の発言が正しいとも誤っているとも言ってない。

 

マスコミ1は、A教授以外の意見を報道していない。何故か? A教授以外の意見があることを知らない、A教授以外の意見はマイナーな意見なので取り上げなくても良い(紙面の字数・放送時間の制限がある)、A教授以外の意見は煩雑で論旨が不明瞭である、A教授以外の意見はW研究員を擁護するためのものである、等々。理由はいろいろあるかもしれない。それでどうなるか。視聴者/読者は、A教授の意見が正しいと思い込むのである。そう思い込むのは「赤色を青色に改竄した」を、電磁波やら周波数やら網膜の受容体やら視神経等々の専門用語を駆使して論証するからである。「権威あるA教授」がそのように話されている。記者はA教授の論証を一所懸命理解しようとし、理解することによって、A教授の論証が全く正しいと思ってしまう。理解できなければ「権威」に依拠して、A教授の論証が正しいと思ってしまう。そしてその「正しい論証」を報道する。一旦正しいと思ってしまうと、他の意見は間違いに思え、報道する必要がない(報道すべきではない)と思ってしまう。また、A教授だけの意見では弱いと思えば、A教授の意見に同調する学者の意見を報道する。…このようにマスコミ1のなかでもバラエティがあるが、総じてこれを「垂れ流し」報道という。最後のほうは「垂れ流し」というよりは、「自説」のみを報道すると言ってもよいかもしれない。

今回のSTAP細胞問題の報道は、私には「垂れ流し」報道のように思えた。そして大多数の視聴者/読者は、恐らくこれをそのまま無批判に受け入れた。なぜか? それは「第三者を入れた公平な調査委員会」の「専門家(先生)」がそう結論されたのだから間違いない、というものだろう。一旦このように思い込むと、それは動かしがたい「固い信念」に変質してしまう。自分が「客観的な証拠 evidence」を収集しそれに基づき判断したものではないにも関わらずである。そうなると、A教授と異なる意見を言う者に対しては、「W研究員を擁護する者」と決めつけ、他人の意見を真面目に聞こうとしなくなる。これを「レッテルを貼る」と言うのだが、本当に呆れるほど、このような人が多い。私がみるところ、「無知な者」と「自信家(自分は頭が良いと思っている人)」に、このような人が多い。意外と「自信家」にこのような人がいるのである。自分が「権威者」と認めた者に盲従するのである。かってのオーム信者のように。…このような「自信家」を説得するのは非常に難しい。意外にも理性的な話(例えば「権威者」の誤りの可能性)を拒否するからである。「科学者」らしき人にもこのような傾向の人がいるのは、困ったことだ。…これは話が逸れた。

 

マスコミ2~6は、両論併記というか少数意見も取り上げ「公平性」「中立性」を確保している、ようにも見える。しかし、本当にそう言えるのだろうか。

各教授の意見の「配分量」に、そのマスコミの「価値判断」が現れていると思う。A教授の意見に賛成していれば、A教授の意見に多くの時間、多くの紙面を提供する。B~F教授の意見には少しの時間、少しの紙面しか提供しない。紙面であれば、A教授の意見が見出しになる。放送であれば、A教授の意見が要約として最初/最後に放送される。A教授以外の意見の報道のしかたも問題である。「肯定的な紹介」をすれば、A教授の意見は「否定的な紹介」になる。「否定的な紹介」をすれば、A教授の意見は「肯定的な紹介」になる。

A教授以外の意見を何人報道するかも問題である。多数の反対意見があるということになれば、A教授の意見の信憑性が落ちる。こうなると「論評」に近くなる。B~F教授に意見を語らせるという客観的な形をとって、そのマスコミの意見を表明するわけである。「価値判断」が入り込むのである。

これは放送時間や紙面に制約があるので、避けられないように思われる。つまり、「公平性」「中立性」というのは、確保しがたいように思われる。

従って、「公平性」「中立性」を確保しようとするならば、意識的に、順序に意味がないことを強調して、A~F教授の意見を並べて紹介するしかないように思われる。それでもなお、誰の意見を取り上げるかによって、対応が異なってくる。ここにマスコミの見識が問われる。

視聴者/読者は、A教授以外の意見があることを知ることによって、問題をよりよく知ることができる

STAP細胞問題で言えば、ネットをみれば、B~F教授のような意見を知ることができる。しかし残念ながら、マスコミの報道をみている限りでは、A教授とその信奉者の意見しかなかったように思う(勿論すべてを見ているわけではないが)。

 

最後にあえて言うならば、STAP細胞問題に関しては、マスコミはマスコミ1の態度をとることによって(例えば、小保方弁護団の不服申立書を、内容の是非は別として、どれだけ真面目に報道しただろうか?)、小保方、笹井を抹殺したように思われる。

(なお、報道には「実名報道」の問題等、種々の問題があるが、いずれSTAP細胞問題とは別の文脈で取り上げる)。

 

(続く)