気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

「斬新な問題意識」と「鋭敏な現実観察」

北川東子ジンメル-生の形式」(5)

f:id:shoyo3:20150131145919j:plain

北川の「ジンメル-生の形式」の読書ノートとして、

・「哲学的文化」というプロジェクトのはじまり

・瞬間と全体の合体

・世紀末の知的ブルジョワ

・「死せる精神」と「うさんくさい精神」

と書いてきたが(カテゴリー「読書ノート」を参照)、今回はその続きである。

若いジンメルは、その若々しく清新な知的感性ゆえに、硬直化したドイツ哲学界と真っ向から対立した。しかし、そのたびごとに生き延びていくための妥協を余儀なくされている。それを弱さと見るか、それとも柔軟性であると見るかは意見が分かれるところだろう。実際、ジンメルの思想の中には、驚くほどの斬新な問題意識と鋭敏な現実観察である部分と、陳腐で形式主義的な議論でしかない部分と、ふたつの矛盾した側面がある。…時代は、まだ、感性に思想を語らせるほど知的経験を積んでいなかったのである。

「鋭敏な現実観察」があればこそ「斬新な問題意識」が持てるのだろうし、逆に「斬新な問題意識」をあればこそ「鋭敏な現実観察」が可能になる。

ジンメルが、いつの頃から自覚的に「モデルネの心理学者」として、時代の感性の哲学者であろうとしたのかはよくわからない。しかし、ツェラーとの論争というエピソードは、若い哲学者ジンメルが、早い時期に、哲学的文献学に絶望したことをうかがわせる。

文献学にもそれなりの価値はあるのだろうが、時代の感性の哲学者であろうとする者には、退屈なものであったのかもしれない。

ジンメルは、ドイツが歴史主義とナショナリズムに大きく影響されていた時代に、ユダヤ人として生き、なかんずくドイツのアカデミズムにおける反ユダヤ主義の犠牲者の典型的な事例としてたえず引用される存在であった。だがそれにもかかわらず、彼は反ユダヤ主義という時代の現実を正面から受け止めて、その社会的現実をもとに思想を構築しようとはしなかった。むしろ時代に逆行するようにして、理想主義的な「汎ヨーロッパ主義」を構想し、個人としては、あくまでドイツ人として生きようとしたのである。

彼にとっては、ゲーテ以来のドイツ文化の伝統と遺産こそが思想の源泉であった。しかし、彼はそれは民族の共同性としてではなく、知的文化的なサークルの共同性として信じたのである。そのことは、明らかに、この時代にありながらこの時代の波に抗して生きていこうとすることであった。

「汎ヨーロッパ主義」は、現代で言えば「コスモポリタニズム」になろうか。

ジンメルは、ユダヤ教の伝統とは縁のない家庭環境に育ち、また同化ユダヤ人たちの社会的承認という問題にもあまり関心がなかった。

今や、「純粋に真正ドイツ的な精神」や「澄みきったドイツ民族魂」などと言うことになんの意味があるだろう。「よく考えて受け取る者は、多くを与える」のであって、相互の贈与の関係こそは、ユダヤとドイツとを融合したかたちで、新しい文化と新しい時代を切り開くのだ。

ふたつの異質な存在が出会い、ひとつに融け合い、そして新しい地平が開けてくる事態を、ジンメルは「融合」と名付けている。「同化」とは言わない。

 昨今の「日本礼賛」は、「純粋に真正日本的な精神(日本民族)」や「澄みきった大和魂」などを連想させるものであるが、そんなことになんの意味があるだろう。…コスモポリタニズムの観点にたった「融合」により、新しい地平を開くこと、それがいま求められていることではなかろうか。

ジンメルの意図は、時代に抗して、時代を超えて思考することであった。それに対し、人々がジンメルに見て取ったのは、彼の意図とは裏腹に、まさに「ユダヤ的特徴」であった。…「ユダヤ人であること」が思想的になんの意味も持たない人々にとっては、「ユダヤ人であること」は「典型的にユダヤ的な外見」という形容で表現されることにすぎない。目に見えることそのものであって、それ以下でもなければ、それ以上でもないのだ。

見えることがいかに見えないことであって、見えないことがいかに見て取られてしまうことか。可視性と不可視性との境界はたえず揺らいでいる。人々は、この「揺らぎ」がないかのように振る舞い、「典型的にユダヤ的」などと言う。哲学者ジンメルは「自明に見えること」そのことを問題にする。あるいは「自明と思われることを繰り返し破砕すること」とみずから説明した「ユダヤ的原理」の実践であったかもしれない。(以上引用はすべて、第1章ベルリンの哲学者 より)

「日本人であること」が思想的になんの意味も持たない人々にとっては、「日本人であること」は「典型的に日本的な外見」という形容で表現されることにすぎない。…日本人であることは、「日本民族」という「民族精神」を持っていることにはならない。中国人であることは、「中国民族」という「民族精神」を持っていることにはならない。イスラム人であることは、「イスラム民族」という「民族精神」を持っていることにはならない。

見えていても、実は何も見ていない。何も見えていなくても、実は何かを見ている。ということはあり得ることである。