浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

見ることの不思議、見えることの不思議

ラマチャンドラン,ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(4)

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http://www.theguardian.com/science/2008/dec/23/neuroscience

視覚の二つの経路

次項の「盲視」以降(今回と次回)に話が面白くなりますので、その予備知識として読んでみてください。

眼球から出たメッセージは、視神経を通って、脳の後方にある視覚皮質に到達し、そこで視覚が生じる。脳のこの部位には網膜と点対点の対応をする地図がある。つまり眼が見た空間の各点に対応する点がこの地図上にあるマッピング)。

しかしこの地図の存在だけで視覚を説明することはできない。一次視覚皮質に表示されものを内部で目撃する小人がいないからだ。

この最初の地図は、分類・編集の作業所としての役割を果たしている。ここで余分な情報や不要な情報が大量に処分され、視像の輪郭をはっきりさせる属性が強調される。こうして編集された情報は、人間の脳に30ほどあるとされている別々の視覚野に中継され、これらの視覚野のそれぞれが、視覚的世界の地図のすべて、あるいは部分を受け取る。

なぜ30もの領域が必要なのか? 答えはよく分かっていないが、それぞれが高度に特殊化して、視覚風景のさまざまな属性-色彩、奥行き、動きなど-を抽出しているらしい。

眼球から出たメッセージは、視神経を通りすぐに2つの経路に分かれる。一つは系統発生的に古い経路で、もう一つはそれよりも新しく、人類を含む霊長類でもっともよく発達している経路である。…「古いほう」の経路は眼からまっすぐ脳幹の上丘と呼ばれる部位に行き、そこから頭頂葉を中心とする皮質野にいたる。一方「新しいほう」の経路は、眼から外側膝状体と呼ばれるニューロン集団に行く。ここは一次視覚皮質に行く途中にある中継地である。視覚情報はここから30ほどの視覚野に送られ、更に処理される。

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http://www.nips.ac.jp/~myoshi/blindsight.html

古い経路は一種の早期警報システムとして保存され、ときに「方位」と呼ばれるものに関与しているのではないかと考えられる。たとえば私の左側から大きな物体が迫ってきたら、この古い経路がその物体の位置を教え、眼球をまわし、頭と体をひねってそれが目に入るようにする。…この時点で私は、系統発生的に新しいシステムに態勢をとらせ、物体の正体を判断する。どう反応するかを決定できるのはそれからだ、つかむべきか、身をかわすべきか、逃げるべきか、食べるべきか、闘うべきか、それとも愛し合うべきか。

 盲視

オックスフォード大学のワイスクランツ博士は、1973年、視覚の専門家たちを驚愕させた実験を行った。

イスクランツの患者ドゥルーは、脳に異常な血管の塊があり、それを周囲の正常な脳組織を少し含めて手術で摘出した。奇形の血管の塊は右側一次視覚皮質にあったので、手術の後ドゥルーは視野の左半分が全く見えなくなった。左眼を使うか右眼を使うかは関係がなかった。まっすぐ前を見ると、左側には何も見えなかった。言い換えると、両眼とも見えるが、どちらの眼も左側が見えなかった

イスクランツとサンダーズは、ドゥルーにまっすぐ前を見ているように頼んで、壁に付けた移動式のマーカーを彼が見ている場所の左側においた。彼は、マーカーを指さすことができた。しかし本当に「見えない」と断言した。二人は棒を取り出して、それを視野の見えない範囲で縦にしたり横にしたりして、向きを推測してほしいと頼んだ。ドゥルーは何に支障もなく、この課題をこなした。しかし今度も、棒は見えないという。ワイスクランツたちは、この現象に「盲視」という矛盾した名前をつけた。

見えるはずのないものを指さしたり、向きを推測できる。ドゥルーは、超感覚的知覚(超能力:テレパシー、予知、透視、千里眼)の持ち主なのだろうか。

超感覚的知覚を引き合いに出さずに、盲視(即ち、意識的に知覚できない対象物を、指差したり推測したりできること)を説明づけることができるだろうか?

ドゥルーの場合は、一次視覚皮質を失って盲目になったにもかかわらず、系統発生的に古い「方位」の視覚路は無傷で、恐らくこれが盲視を成立させていると考えられる。言い換えれば、見えない範囲にあたったスポットライトの情報は、上丘を通って頭頂葉などの高次の中枢に送られ、ドゥルーの手を「見えない」スポットに導く。

このパラドックス(盲視)の解は、予備知識で「2つの経路」を知っていれば、予想されるところである。

この斬新な解釈は、尋常ではない意味を含んでいる。つまり「見ている」と意識されるのは新しい経路だけで、一方の古い経路は、何が起こっているかをその人がまったく意識していなくても、あらゆる行動に視覚入力を用いることができるという意味だ。すると意識は、進化的により新しい視覚路に特有の性質だということになるのだろうか? もしそうなら、なぜこの経路は心にアクセスする特権をもっているのか? この疑問については、最終章で検討する。(以上、第4章 脳のなかのゾンビ)

 意識とか心とは、哲学のテーマである。脳科学がこれをどこまで解明できるかは非常に興味深い。私がこの本をとりあげたのも、この理由による。ラマチャンドランは、最終章でこれを検討するという。ならば、最後まで読み進めなければなるまい。