浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

事実と信念

富田恭彦「哲学の最前線 ハ-バードより愛をこめて」(3)」

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http://concurringopinions.com/archives/2013/04/the-pervasive-role-of-priors-part-one.html/fact-and-belief

「事実」という言葉は、いろいろな場面で用いられる。客観的事実と主観的事実。事実と真実。事実の報道。事実認定。事実は小説よりも奇なり。普通の理解では、事実とは、誰がどんな信念を持とうと、その信念とは関係のない客観的な事柄を意味しているようだが…。…富田は、「事実と信念」という項で、何を言おうとしているのだろうか。素直に話をきいてみよう。

クワイン先生はボストンのご自宅かエマソン・ホールの研究室かのどちらかにおられることがわかっているとする。その場合、エマソン・ホールの研究室にはおられないことが判明すれば、先生はボストンのご自宅におられるということを、とりあえず事実として受け入れて良さそうだ。

その事実は、直接確認されているわけではなく、推論の結果そうだと信じられている。

つまり、「クワイン先生はボストンのご自宅かエマソン・ホールの研究室かのどちらかにおられる(a)」ということと、「先生は、エマソン・ホールの研究室にはおられない(b)」ということとが前提となって、「先生はボストンのご自宅におられる」ということが結論され、それが事実として信じられている。

その前提となっているものは、われわれが信じていること、つまり信念である。すると、われわれが既に信じていることから、辻褄が合うように考えた結果として、問題の事実内容が信じられている。つまり、信念間の整合的関係に支えられて、われわれはある事実を事実として信じていることになる。

この例では、二つの信念(a,b)が前提となっているが、実はその二つの信念自体もまた様々な信念に支えられている

例えば、前提bをどのような仕方で確かめたか。…先生の研究室のドアをノックする。しかし返事がない。そこで事務室のキャスリンさんに先生が来られたかどうか聞いてみる。彼女の返事は「ノー」である。そこで「クワイン先生はお留守だ」と結論づける。

その結論は、(1) 研究室のドアをノックしても返事がない、(2) キャスリンさんがノーと言った、という二つの信念に支えられていて、それと辻褄が合う、つまり整合的な結論として、信じられている。

ここにはまた、キャスリンさんがエマソン・ホールの先生方のことを非常に正確に把握していて、彼女の発言は信頼するに足るものだとの信念もある。

結局のところ、われわれが信じていることは単独にそれだけで正しいとか正しくないとか言われるようなものではない。すでに信じられている様々な信念との関係において、正しいと考えられたり、正しくないと考えられたりしているようだ。(第2章)

事実は信念に支えられている。信念(a,bや1,2)が前提になっている。しかし、その事実が、信念に支えられていること(前提条件があること)が理解できなかったり、忘れられてしまったりする。「A教授は、Bという事実を証明した」というとき、いったいどれ程の信念(前提)があることだろう。…多くの場合、その信念(前提)が論点である。