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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

大都会-近代の視覚性

北川東子ジンメル-生の形式」(6)

北川は、ジンメル(1858-1918)の「都市の哲学」について、次のように書いている。

今世紀初頭のベルリンは、先駆的なかたちで「都市の哲学」を語ったジンメルには、「都市化」の現象そのものであった。大都会は、近代化に伴い生まれた機能的な生活空間であり、匿名の大衆にとっての場所、誰のものでもなく、誰もが住めるような場所を意味する。ベルリンという固有名詞は、故郷を失って、根無し草となった人々の生活の場を指している。ジンメルは「ベルリン」ということばで、モダニティの空間を象徴的に名指したのであった。

ジンメルは、印象派の絵画やロダンの彫刻といった美術作品から、そしてゲオルゲリルケの詩などの屹立することばの束から、思想のためのありあまるほどのイメージを受け取っている。彼自身が「哲学的文化」と名づけたように、彼の思想は、哲学と文化とが遭遇する場において築かれた。ジンメルの思想の源泉となったさまざまな文化的形象のひとつに、都市の景観がある。とりわけ「大都会」は、20世紀という時代の決定的なイメージである。…ジンメルは、「大都会」において20世紀という時代を見る。産業化にともなう家族や村落共同体の解体、巨大都市の出現という社会現象が背景にある。都市のスラム化や、売春や犯罪の増加など社会的モラルの問題ももちろん背景となっている。しかし、ジンメルが見ているのは、「都市化」がもたらす社会的変化の方ではない。むしろ、20世紀的な「都市」の出現という事実そのものである。彼は言う。都市とは、「社会的な影響を与える空間的事実ではなく、空間的に自己形成する社会的事実そのものなのだ」。

「大都会」は、体験の一類型として、ある種の普遍的な構造を持っている。都会の匿名性、都会のテンポ、都会の機能性、都会の猥雑さ、無機的な空間などだ。…秩序を欠いた雑居の感覚。都会をうろつきまわる浮浪者や根無し草と化した人々。価値観と行動規範を欠いた無秩序な生活。すべてがあふれ、すべてが同じ場所に雑居している。

エッセー「大都会と精神生活」は、もちろん大衆社会論であるとか、都市化の社会心理的影響についての先駆的分析であるとか、穏当な形で読むこともできる。ただ、このエッセーが圧倒的な印象を与えるのは、無機的・合理的なかわいた都市空間に、同じように合理的で無表情な人間が、つまり「大都市型人間」が出現した事実の恐ろしさがまざまざと伝わってくるからである。

大都会は、絶え間のない変化に満ちている。「めくるめくイメージの急激なひしめきあい」「瞬間に見て取れるのに、著しい距離があるという事態」「押し寄せてくる印象の突発性」-ジンメルは、都会生活のテンポを描き出すのにこのようなことばを用いている。いずれも変転する外部が、それに対応する反応装置を持たない内部に押し迫ってくる印象を描き出すことばである。あまりに急激な変化のテンポと、あまりに多すぎる印象。もともと人間が持っている距離感や知覚のテンポに合わないのだ。当然、反応装置の方が狂ってくる。したがって、大都会においては、「神経生活の上昇」が生じるとジンメルは言う。

内部と外部との溶解状態として「大都会」を描き出すことで、ジンメルは同時に、外界、つまり合理的な社会の制度としての耐性に疑問を投げかけている。この社会がどこまで保持されるかは、極限値を超えてまで刺激に反応する人間の心理・内面がどこまで耐えられるかにかかっている、と。(第2章 都市の哲学)

これは20世紀初頭のベルリンだけの話だろうか。「都市」が近代の産物であるならば、私はいまなお「都市」は解体していないと思う。ジンメルとは離れるかもしれないが、ここで私の「都会のイメージ」を書いておこう(後に書くかもしれないエッセイのためのメモ程度のもの。「読書ノート」全体が、そのようなメモなのだが)。

私の「都会のイメージ」も、「都会の匿名性、都会のテンポ、都会の機能性、無機的な空間など」である。(「都会の猥雑さ」は、ちょっと違うような気がする)。そのような都市空間から「合理的で無表情な人間」が出現するのは必至だろう。このような都会のイメージは、次の写真によって象徴される。

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 http://photozou.jp/photo/photo_only/263575/83819793?size=1024

これは、新宿副都心の夕景である。東京都の統計によれば、「西新宿(1~8丁目)」の昼間人口は 235,063人、夜間人口は 21,279人(H22)である。西新宿だけで、毎日20万人程の出入りがある。

西新宿の特にオフィス街は、「無機的な空間」と呼ぶにふさわしいように思われる。ここで働く人たちは、「ビジネスの論理」あるいは「合理主義の論理」によって動いている。これを「無機的な空間」と呼んでいるわけである。そこに現出する人間像は「合理的で無表情な人間」である。「感覚」が入り込むことはない。「感覚」らしきものは、「ビジネスの論理によってコントロールされた感覚」にすぎないと思われる。ここで「感覚」とは、「小鳥のさえずりに耳をすませる」ような感覚である。

1日の大半をそのようなオフィス街で過ごすならば、精神に異常をきたすのではないかと思う。もっとも正常か異常かは相対的なものであるから、多数派を形成するならもはや「異常」とは言えない。異常と思うほうが異常なのである。近代化とは、そのような精神異常者→精神正常者を、生み出すプロセスであった。それに抗うことは、意外と困難なことである。それに抗う人たちの末路は、例えば次の写真のようなものであるかもしれないのである。新宿副都心の夕景が「都市の景観」として外せないものであるなら、その内的論理の必然として、「新宿駅のホームレス」を「都市の景観」として外すことはできない。

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http://photobra.exblog.jp/i20/

西新宿のオフィス街で働く人たちは、どこに住んでいるのだろうか。もちろん、様々な住宅地に住んでいるわけだが、例えば、「八王子みなみ野シティ」等のようなベッドタウンに一戸建ての住居を構えて住みたいと願う人は多いと思う。実際にビジネス・エリートの一部は、そのようなベッドタウンで一戸建ての住居に住んでいるだろう。(但し、転勤族にとっては、悩ましいところかもしれない)

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http://www.ryokuiku.com/panorama/chiffon/virtualtour.html

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http://www.ryokuiku.com/about/about04.html

これらのベッドタウンは都心から離れているかもしれないが、「都市の景観」の一部とみなされなければならない。村落共同体の一部ではないことは明らかである。そこでは「小鳥のさえずりに耳をすませる」余裕が生まれるかもしれない。「合理的で無表情な人間」の精神が回復されるかもしれない。しかし、そのような贅沢は、一部のビジネス・エリートの特権になりつつある(なっている)のではなかろうか。

以上の所感は「表層」のものである。「都市」に住む人たち、一人ひとりがそれぞれの歴史を背負っている(例えば、介護を要する親を抱えていた場合、どのように生活していくのか)。…都市に移住してきた人、都市に生まれ育った人、都市から出ていく人、都市にとどまらざるを得ない人、そのような人たちの感性を含めた分析をしなければ都市論は完結しない。

 

(補足)

もちろん、東京はビル街のみではない。古くから東京に住む人たちの生活の場でもある。例えば、次の写真は、西武池袋線椎名町サンロード商店街である。このような商店街は、東京の至るところにある。

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この記事では「近代の都市」について考えているのであり、「商店街」については考えていない。「商店街」については「地方都市」の「シャッター通り」について考えることが必須であり、別の機会に譲ろう。