浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「心」は、物理的な存在か? (1)

金杉武司『心の哲学入門』(1)

Wikipediaによると、英語圏心の哲学者たちによく知られている次のような一句があるという。

What is mind?(心とは何か?) - No matter(物質ではない/どうでもいい)

What is matter?(物質とは何か?) - Never mind.(決して心ではない/気にするな)

 世界がワンダーランドであり、人間もまたワンダーランドだと感得するものには、この問いはどうでもよくはなく、「気になる」。

金杉は、心の哲学には、代表的な立場が2つあるという。

二元論

心は非物理的な存在であり、世界はこの非物理的な存在と物理的な存在の二種類の存在によって構成されている。

物的一元論

世界は物理的な存在のみによって構成されている。

物理的な存在とは、机や椅子、身体のように、その性質や構造、構成要素などを究極的には物理学で十分に理解できるような存在である。客観的存在であり、空間的存在である。…心は、それがどのようなものであるかが所有者本人にしか認識できないような主観的存在であり、また非空間的存在である。

物的一元論(物理主義とも言う)は、(心を含め)世界に存在するものはすべて、その性質や構造、構成要素などを究極的には物理学で十分に理解できるような存在であり、それゆえ客観的で空間的な存在であると主張する。

心的一元論(観念論とも言う)は、世界は非物理的な心的存在のみによって構成されているとする。中立一元論というのもある。しかし、これらの立場は、現代の哲学者にはあまり人気がない。

心的一元論(観念論)も興味深いが、これは別の機会に検討することにして、金森の論述をおっていこう。

 

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http://theartof12.blogspot.jp/2013/11/digital-holocaust-warring-mass.html

1 心心因果と心物因果

ボールがガラスに当たったので、ガラスが割れた。…われわれは、このように原因に言及することによって、ある現象がなぜ生じたのかを説明したり理解したりする。…「因果関係」(原因と結果の関係)という概念は、われわれにとって、世界のさまざまな現象を理解するための基本概念なのである。

われわれは通常、以上のような因果関係が、心の状態同士の間や心の状態と物理的な状態の間にも成り立つと考える。

<物理的刺激(原因)→(結果)カレーの香りの知覚(原因)→(結果)カレーを食べたいという欲求(原因)→(結果)身体運動>

カレーを食べたいと思ったから(原因)、ある人がカレー屋に入った(結果としての身体運動)。…これは、心の状態が原因で、物理的状態が結果であるような因果関係の一例である。[心→物]

カレー屋の前を通った時に、おいしそうなカレーの香りがしたから(原因)、カレーを食べたいという欲求が生じた(結果)。…これは、心の状態同士の間の因果関係の一例である。[心→心]

同様に、カレー屋からカレーの香りが漂ってきて、その人の嗅覚神経に物理的刺激が与えられたから(原因)、カレーの香りの知覚が生じた(結果)。…これは、物理的状態が原因で心の状態が結果であるような因果関係の一例である[物→心]

このように、心の状態は一般に、他の心の状態や物理的状態と因果関係を形成する。以下では、心の状態同士の因果関係を「心心因果」、心の状態と物理的状態の間の因果関係を「心物因果」と呼ぶ。心心因果や心物因果が成り立つということが「心の因果性」の意味するものにほかならない。心の因果性は、心が物理的な存在であるかどうかについて特に考えることなしに認めうるような心の基本的特徴である

金森は「心とは何か? それはどのような存在なのか?」と問うている。そして、「心とは~である」と一気に答えるのではなく、「心が持っているさまざまな基本的特徴に着目することによって、この問題について考える足掛かりを得」ようとしている。因果性は、そのような基本的特徴の一つである。

2 二元論と心の因果性

二元論によれば、心は非物理的な存在である。それゆえ、心物因果は、非物理的なもの[心]と物理的なもの[物]の間の因果関係ということになる。

ここが重要なところ。非物理的なものが、どうして物理的なものを動かせるのか? この疑問をいだくこと。「カレーを食べたいと思ったから、(身体を動かして)カレー屋に入った。」という説明に納得せずに、「なぜ、そんなことが可能なのか?」と疑問に思うこと。金森は、こんな例をあげている。

目の前にあるコップを手で動かすのならば、それは物理的なもの同士の間の因果関係であり、そこに何ら不可解な点は無い。それを念力のような非物理的なもので動かすのは、神秘的で不可解である。念力における因果関係が不可解であるとしたら、心物関係もまた不可解である。どちらの因果関係も、非物理的なものと物理的なものの因果関係であるという点では同じだからである。

「カレーを食べたい」という念力が、体を動かすというのはどういうことであるか。神秘的で不可解なことではないか。

二元論の下では、われわれは四六時中、念力を使っているのと同じことになってしまう。二元論においては、心物関係をどのように理解すれば、それを不可解でないものにすることができるのだろうか。二元論者は、これに答えることができるか。

【心の状態→身体運動】という因果関係は、正確には、【心の状態→脳状態→身体運動】という因果関係であると言っても、今度は、「心の状態が直接の原因で、ある脳状態が生じる」という部分が問題になる。非物理的な心の状態は、いかにして物理的な脳状態に変化を及ぼしうるのだろうか

 

二元論が仮に心物因果を理解可能なものにすることができたとしても、心物因果に関わる別の問題に直面すると金森は言う。先のカレー屋の例は次のようなものであった。

<物理的刺激(原因)→(結果)カレーの香りの知覚(原因)→(結果)カレーを食べたいという欲求(原因)→(結果)身体運動>

これを、次のように言い換える(神経生理学的因果)。

<物理的刺激(原因)→(結果)脳状態α(原因)→(結果)脳状態β(原因)→(結果)身体運動>

身体運動は筋肉の収縮運動であり、筋肉の収縮運動は、脳が特定の刺激を筋肉に伝えることによって生じる、と説明できる。脳状態が成立した最終原因としては、嗅覚神経への物理的刺激を挙げることができる。つまり、心が一切関与しない物理的状態の間だけの因果関係が成立すると考えられる。

これは何を意味するか。

二元論によると、カレーを食べたいという欲求や、カレーの香りの知覚は、脳状態αや脳状態βとは別の状態である。それゆえ、二元論の下では、嗅覚神経への物理的刺激から身体運動までの間に、二つの独立した因果経路があるということになる。

しかし、二つの独立した因果経路は認めがたい。心物因果の成立は、心の基本的特徴であり、容易に否定することはできない。他方、神経生理学的因果も容易には否定できない。いずれを否定するにしても、二元論は大きな困難に直面すると言わざるを得ない。

 次回は「物的一元論」の話であり、その後、なにかコメントできることがあればコメントしたいと思う。

 

(追記)カテゴリー「はじめに」の「読書ノート」で取り上げた本とその評価で、本書の評価をしています。