今回は、スーラージュとアルトゥングについて。(なお、大岡はこの前に、デ・クーニングを取り上げているが、これは省略)
ピエール・スーラージュ(Pierre Soulages,1919-)は、フランスの画家、彫刻家、版画家。
スーラージュは、「黒の画家」としても知られている。それは、「…色彩と非色彩との両方に興味がある」という、彼の色彩への興味のあり方からきている。「光が黒に反射する時に、光の反射によって黒はその様相を変化させられ、変質させられるのである。光の反射は、全く作品の持つ精神の広がりへと通じているのである。」スーラージュは、光を「取り組むべき対象」だと考えたのである。彼の作品の表面の黒の縞は、彼に「光を反射させる」のを可能にし、黒色が暗闇から明るい世界の中へ出てくることを可能にした。それらはすべて黒を光輝く色だとすることにより、可能となったのである。(Wikipedia)
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「光が黒に反射する時に、光の反射によって黒はその様相を変化させられ、変質させられる」…この文章、おかしい? 黒は光を反射しないはず。「黒はすべての波長の光を吸収する色である」と習ったはず。でも、上の写真を見れば、黒が光っている。光っているところは黒ではない?
コトバンクによれば、「黒とは…色名の一つ。英名はブラック(black)。JISの色彩規格では、そのまま「黒」としている。一般に「炭のように黒い」「墨のように黒い」という表現をするが、いずれも黒に近い色であって純粋な「黒」ではない。すべての光を完全に吸収できるような黒い物質は存在しないとされている。」
「光が黒に反射する」というとき、その黒は純粋な(理念的な)黒ではない。現実の黒である。現実の黒は、光の反射によってその様相を変化させられ、変質させられる。…彼の作品の表面の黒の縞は、彼に「光を反射させる」のを可能にし、黒色が暗闇から明るい世界の中へ出てくることを可能にした。それらはすべて黒を光輝く色だとすることにより、可能となったのである。…私には、その縞は「心のヒダ」のように思えるが、ちょっと違うかな。
大岡は、次のように書いている。
「絵画は、何よりもまず詩的経験なのだ。それは暗喩であって、説明によって解明されるようなものではない。絵の上では、人がそれに付与するさまざまの意味が形づくられ、また消滅する。だからこそ、芸術は人を挑発し、不安にさせ、昂揚させるのだ、生そのもののように」とスーラージュは言う。…彼が、絵画を「詩的経験」といい「暗喩」というとき。そこには何らかの度合いで、「観照」の働きが作用するはずである。デ・クーニングが「俗悪さのメロドラマ」にどっぷり閉じ込められている自分について語るときと比べると、スーラージュの言葉はいやおうなしにある種の洗練されたヨーロッパ的な美意識の優位を感じさせる。
スーラージュは「生そのもののように」と言う。「生は、何よりもまず詩的経験である。さまざまの意味が形づくられ、また消滅する」…絵画は、そのような詩的経験の暗喩である。光輝く黒は、生そのものである。
ハンス・アルトゥング(Hans Hartung,1904―1989)は、第二次大戦後の抒情的抽象を開拓した画家の一人。黒の線の運動による画風で知られる。(http://www.ddart.co.jp/hartungpro.html)
大岡は、次のように書いている。
アルトゥングは「私の考えでは、いわゆる抽象という絵画は、最近多くあらわれたようなイズムでもなく、また一つの様式でも、一つの時代でもない。それはまったく新しい表現手段、以前の絵画よりもはるかに直接的な、人間の別の言語なのだ」と言っている。アルトゥングの芸術も、とりわけ線による表現の探求である。波形模様、アラベスク、激しく交錯する線、円、透明にうちふるえるカゲローの翅のような繊細な線から、鋭いぎざぎざの渦巻や描きなぐりのような激しい線に至るまで、アルトゥングは線のもつ表現力をひたすら追求する。それらの表現は、この画家特有の内省的沈潜力を感じさせると同時に、ドイツ人らしい理論的探求の一貫性をも示している。彼の線は無限なるものに向かって憧れる浪漫的な精神が産み出したものであることを強く感じさせる。それは造形上の産物にはちがいないが、いわば造形手段を通じて「もう一つの言語」をあたかも歌おうとするかのような印象を与えるのである。
詩人大岡信の面目躍如たる評論のように思われる。
アルトゥングが「人間の別の言語」というとき、スーラージュと同様に「絵画は、生そのもの」であったようだ。
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スーラージュにせよ、アルトゥングにせよ、抽象絵画を単なる絵画の一様式とのみ見なす考え方をはっきり拒絶し、抽象絵画とは、つまるところ、世界に対する詩的直観を造形行為によって語る「別の言語」なのだ、とする信念では共通している。そこにヨーロッパが培ってきた美の伝統をふまえつつ、その先端部で新たな気圏に身をさらして進もうとする画家たちの抱負があった。そこでは、絵はいわば最も簡潔な手段によって歌われた、原初の自然への賛歌、画家自身の絶えざる自己革新へのうながしとその成果の確認という様相を呈する。
日本の画家では、難波田龍起(1905-97)がいる。
難波田の作品においても、精神の詩的昂揚の直観像を、造形手段を通じて表現しようという考えが、その制作行為の中心にあったことは疑いないと思われる。それは自然界の脈動する本質へのリリックな直観としてあらわれるのである。
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