浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

両性具有者の女性論 street girl と call girl

北川東子ジンメル-生の形式」(7)

本書の第3章は、「両性具有者の女性論」である。その第1節ジンメルと女性たち、あるいは女性たちとジンメル、第2節ジンメルの女性論は、よく分からない部分が多いので、断片的にピックアップするにとどめる。第3節フェミニズム哲学のもうひとつの側面-権力批判では、売春が論じられている。今回の記事は、こちらに焦点をあてよう。

 

性の超越者

ジンメルは、生活においては、女性たちを魅惑する「男」であり続けた。しかし、思想においては「女性文化」を称揚し、「女性的なもの」との親和力を持つ「両性具有」であろうとする。女と対立する男ではなく、女性たちの良き助言者であるために、性の超越者であろうとした。

 

受け身の思想

受け身の思想を発動させることにおいて、ジンメルほど巧みな人はいなかったと思う。彼自身が社会において周辺的な存在であったがために、ナショナリズムや学問制度を代表することはなかった。むしろジンメルは、「近代」を流し目で見る。そのために彼は、意図的に「当時の学派哲学を故郷としえない対象」について思想を語り、「暫定的なもの、漂うもの、揺れ動くもの」に関心を抱いたのである。

 

「被認識性」から二分法の彼方へ

反近代が、男性的な近代的精神のかたわらに、女性的なものとして、いわば手つかずのかたちで存在している事実は、ジンメルにとっては、思索に与えられたもっとも大きな衝撃であった。従って彼は、…生涯にわたって、この主題について思索し続けることとなる。ジンメルの思索の展開のなかで、「女性的なもの」は、いずれ超克され消失する「未分化状態」という位置づけを次第に離れていく。彼は、「女性」について「女性」において語ることにおいて、近代を裏側から批判し、近代的な二分法の世界を超えて語るようになる。

 

女性文化と普遍性

「男-女」対立関係は、「客観的=男性的」という等式によって規定されている。この等式は何を意味するか。「普遍的人間的ありかた」を決定するのは男性的価値だということである。「男-女」関係は、男性という極によって支配されているということである。

 

「女性文化

ジンメルは、単純明快に、これまでの「文化」は、徹頭徹尾「男性文化」であったと言い切るのであり、そのことで少なくとも、女性たちが直面する苦い沈黙の事実を裏切るまいとする。…既存のあらゆる文化的装置を「男性文化」と名づけることによって、ジンメルは少なくとも女性たちの苦い沈黙にひとつの名前を与えることができた。つまり「女性文化」と言う名前を。それがどのようなものであるかについては、彼はあまり語るすべを知らない。

ジンメルは言う…「無時間的なものにおける生、純粋な即物性、実質的な仕事の不可避的な一面性、そして超人格的な連関に組み込まれてしまうこと-こうしたことは、おそらく女性的な心のもっとも内面的なありかたに矛盾するのであろう。」

この希望の声は、近代に深く矛盾するもの、女性の本質、つまり「流れ去るもの。時間的であり、点的であるもの」をなんとか捉えようとする哲学を準備していくこととなる。

 「反近代」や「漂うもの」に着目するのは良いが、それを「女性」に割り当て、「女性文化」というのは、どうなんだろうか。「女性」という言葉に、単なる比喩以上の意味があるのだろうか。

フェミニズム哲学のもうひとつの側面-権力批判

抑圧の全面化

「抑圧」は、そして今日においてもいくつかの社会にあってはそうであろうが、ジンメルの時代には具体的な生活の中でまだ目に見える「悲惨」であったと思われる。経済的貧困、むき出しの差別と低い教育水準などであった。現代の日本社会のような制度化が高度に進んだ社会では、個人の「悲惨」として社会の抑圧構造をみることは、もはや容易ではない。抑圧そのものが不可視になっており、暴力があからさまな物理形態を逃れて見えない暴力となっているからである。

不可視の抑圧(隠された悲惨、隠された暴力)が社会の構造に組み込まれていないかの視点は、社会分析の重要な視点だろう。

他者の悲惨は哲学の対象となるか

ジンメルが「言い表しようもないほどの悲惨」を感じとり、そして彼の構想するフェミニズム哲学が向かい合うべき事実としたのは「売春」であった。

ヨーロッパ現代史が知るもっとも大きな悲惨がユダヤ人虐殺というかたちで起こっているさなかでも、哲学者たちは存在し、彼らのことばで語っていた。だが、彼らは何を語っていたのか。ハイデガーはこの頃、ナチズムを「偉大な運動」と呼び、歴史の必然的な運命について語ったのだ。しかも、確信をもって。

それにもかかわらず、他者の「悲惨」を思索として引き受けること-それは何を意味するか。

悲惨な状況とは、みずからの存在様態が、一連の外的な力関係によってからめ取られてしまっており、そのためあらかじめ特定の解釈を押しつけられているという事態である。

 この「悲惨な状況」とは、自由に生きられない、生きていくためにはそうせざるを得ない、意味がない、目的がない、そのようにしか生きられない、…という状況であるように思われる。もちろん、「悲惨」というのは外部の視点からであるが。

 

売春について

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http://leplus.nouvelobs.com/contribution/939419-penalisation-des-clients-de-prostituees-la-repression-une-posture-demagogique-vaine.html

 

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http://blog.goo.ne.jp/geeen70/e/c621ed929c38198226482656c76eeaac

 

おそらくジンメルがベルリンの街角で夕闇せまるころ日々目のあたりにしたのは、うら若い女性たちが肩をあらわにして、どぎつい化粧の下で口をゆがめて笑う姿であったろう。…たしかに、あるとき教養あるヨーロッパの女性が言ったように、それは「大都会にはつきものの光景」なのだ。

世紀末の大都会ベルリンの街角がそのようなものであったかわからないが、現代なら上の写真のような情景であろうか。どこにでもいそうな女性たちである。(上の写真は、street girl、下の写真は call girl。上流階級の男性は、健全なcall girlを利用する。street girlには眉をひそめるであろう)

ジンメルは言う。…「上品な」社会が売春に対して示す道徳的な憤慨については、いくつかの点で、どうも呆れてしまう。「上品な」社会こそが国民全体にある種の状態を強要しているのであり、まるで売春がそうした状態の必然的な結果であるのを知らないように言うからである。売春をするのが、まるでまったく女の子たちの自由意思であるかのように、それが快楽であるかのように言うからである。

ある人はこう言いたいのだろうか。毎晩毎晩、うだるように暑かろうと、雨が降ろうと、寒さにかじかもうとも、不特定の男に、それもへどのでそうな男に、射精メカニズムの餌食として身を捧げるために、通りを客を求めてうろつきまわるのが、楽しいとでも。この生活、もっともおぞましい病気に、困窮と飢えとに、そして警察にたえず脅かされたこんな生活が、売春に対しての道徳的憤慨を唯一正当化できるには意志の自由が前提となるとして、そんな意志の自由で選び取られた生活であるなどと、本当に人は思っているのだろうか。

 ここでは、「上品な社会」と「自由意思」という言葉を覚えておこう。

 

社会的不均衡の現れとしての不幸

北川はこう書いている。

ジンメルにとって、売春婦たちがそうであるような「不幸な者たち」が、おしなべて、社会的現象であることは疑いがない。不幸な者たちが帯びる烙印は、社会病理の徴候である。不幸な者たちが、社会で特権を享受する者たちの「道徳的な憤激」のまととなるのは、そのためである。彼らは、恵まれた者たちの「良心のやましさ」を引き起こし、そのことで、「正義」のいかがわしさを露呈する。「正義」とは、社会的な不均衡な配分の別名にすぎない。社会が「娼婦」に対して取る態度。もっとも寄る辺ない存在にたいしてこそ向けられるもっとも声高な非難の声。これこそ社会正義のなんであるかを、その不合理を示す現象である。

不幸な者たちは、(1) 恵まれた者たちの「良心のやましさ」を引き起こす。(2) 特権を享受する者たちの「道徳的な憤激」の的となる。

(1)「良心のやましさ」を感ずる「良識ある人々」は、まじめにその対策を考える(後述)。

(2) 特権を享受する者たちの「道徳的な憤激」…これは先ほどの「上品な社会が売春に対して示す道徳的な憤慨」であり、「不幸な者」たちへどういう眼差しを向けるかの問題である。自分が不幸でないと思うなら、「不幸な者」たちにどう向き合うべきなのか。難しいテーマである。

 

個人の内面のなかの権力関係

「売春」は、貨幣によって売買される性であり、結婚内における性行為とは異なって不当な性行為である。そして社会的に許容されない欲望を充足させるために「買われる」性である。…「売買される性」の問題は、貨幣の哲学者であったジンメルにとっては、近代社会の本質的な問題であった。経済行為としての「売春」は、本来「売ってはならないもの」を売ること、個人が本来もっとも個人的で私的な領域として持っているものを交換の対象とすることを意味する。…貨幣によって購入されるのは、本来ならば交換対象ではないなにかを所有すること、つまり「もっとも個人的で内面的なこと」を侵犯する権利なのである。しかし貨幣経済は、このようなもっとも不均衡な交換関係を可能にすることによって、つまり自然な交換関係では不可能な交換を可能にすることによって、同時にひとつの決定的な道徳的機能を果たすこととなる。つまり、道徳的な領域としての「売ってはならないもの」を成立させるのである。

ジンメル的な意味で他者の「悲惨」を思索として引き受けるというのは、…ひとつの社会が個人の内面性のなかにはりめぐらした権力関係を暴き出すことによって、その社会の道徳的な質そのものを、思索のなかで飽くことなく問い詰めていく透徹した作業を意味する。

 

北川は「個人が本来もっとも個人的で私的な領域として持っているものを交換の対象とすべきではない」と言っている(ジンメルがそう言っているのかどうかはよくわからない)。果たしてそうだろうか。第1に、「もっとも個人的で私的な領域」と言うが、なぜそう言えるのか。…「何かおいしいものを食べたい」と思い、食事をとることが、「もっとも個人的で私的な領域」に属するがゆえに、レストランで食事をすべきではない(売買の対象にすべきではない)ということになるのだろうか(食欲と性欲という生理的欲求の充足にどれほどの違いがあるか)。「道徳」というものは、決して明々白々な規準であるとは思われない。第2に、「交換(売買)してはならない道徳的な領域がある」と言っているようだが、安易に一般化すべきではない。生命保険はかけるべきではないのか。臓器移植に必要な臓器は、無償の提供を待てば良いのか。傭兵制度にどういう態度をとるのか。…「道徳」に関連する事柄は無数にあると思われるが、単純な抽象化・一般化(決めつけ)で済む話ではないように思う。

 

Wikipediaは、世界的に売春は合法化の流れがあるとして、次のように書いている。

合法化の理由…合法化の理由としては、性病対策、性犯罪対策などがあげられる。

ドイツ…2002年に売春が合法化された。売春合意年齢は21歳とされている。ベルリンだけでも700もの売春宿があり、売春婦の数はドイツ全土で40万人といわれる。

フランス…売春は合法である。ただ、斡旋や公道での勧誘は違法で、売春合意年齢は18歳。2008年、フランス在住のジャーナリストの鎌田聡江によると、近年女子学生が生活費を稼ぐために売春するケースが増えているとされ、その数は4万人に上るといわれる。彼女達の多くは貧しい家庭の出身であり、社会的な成功を夢見て勉学に励んでいるが、労働法令により労働者の解雇が困難なフランスでは、労務者の数を少なく抑えようとする傾向があり、バイトを探すことが困難となっているため、彼女達が勉学を続けながら収入を得ることは難しい上、パリでの生活費は一般的に高いといわれ、それがインターネットを利用した売春が女子学生の間で流行している原因であるとされる。

「良識ある人々」は、このように性病対策、性犯罪対策のために合法化にふみきっているようである。これが徹底されていけば、「もっともおぞましい病気に、困窮と飢えとに、そして警察にたえず脅かされた生活」が、他の「接客サービス」や「危険で、汚い職種」と同様に、(少なくとも建前上は)労働安全衛生法規等により保護された生活となり、「悲惨な状況」に生きているとは言えなくなるのではないか。後は、「道徳」の問題がのこるが、それを検討するには、(1) 恵まれた者たちの「良心のやましさ」を引き起こす、(2) 特権を享受する者たちの「道徳的な憤激」の的となる、「不幸な者たち」の文脈に位置づけることが必要だろう。(例えば、私は毎日ビルのトイレの掃除にきている若い女性を知っているが、もしあなたが親なら「私の娘は毎日トイレ掃除をしています」と誇りをもって言えるか、という話である)

 

(付録)

2枚目の写真は、映画「コールガール」(1971)の主演女優ジェーン・フォンダ(Jane Fonda,1937-)。アカデミー主演女優賞受賞、ゴールデングローブ賞主演女優賞 (ドラマ部門) 受賞。

ジェーン・フォンダは、1970年頃から1975年頃までベトナム戦争に対する反戦運動に傾倒し、「ハノイ・ジェーン(Hanoi Jane)」と呼ばれた。

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