気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

市民社会と公共性 (2)  市民的公共性

齊藤純一『公共性』(3)

前回(2015/5/9 公共性の再定義→(タイトル変更)市民社会と公共性 (1) 啓蒙=公共性のプロジェクト)は、次のようなことが述べられていた。

ハーバーマスが同時代(20世紀前半)にみてとったのは、操作的な公開性であった。

文化の領域で批評の空間が失われるのと同様、政治の領域においても議論と批判は空洞化する。経済的影響力は地下の水路を通じて政治の場に流れ込み、人びとは多彩に演出される政治的シンボルの前で、ただ「大衆的忠誠」(国民的コンセンサスなるもの)を出力するだけの受動的な立場に甘んじている。

ハーバーマスは、この「操作的公開性」に、次の理念・原理を対置する。それは、18世紀の市民社会が育んだ公共性の潜勢力を再び甦らせるというものであった。

(1) コミュニケーション的自由…自らの理性をあらゆる点で公共的に使用する自由。人びとが互いに自らの思考を公然と他者に伝える自由。自らの属する集団の利害や自らの置かれている社会的立場に拘束されず、公衆一般に向けて自らの意見を表明すること。自らの共同体(国家を含む)の利害とされているものに反した意見を表明する自由。

(2) 批判的公開性…公開性は正義を推定すべき根拠を直接私たちに与えてくれるわけではないが、公開性の拒絶は、その意思が不正義であることを推定すべき根拠を私たちに与える。公衆の批判的吟味に対する十分な開放を拒むような立法(政治的意思決定)は、何らかの不正の要素を隠していると判断されてしかるべきなのである。政治的な意志決定過程が公衆の批判的な吟味に開かれていること。

ここでの「コミュニケーション的自由」は、「表現の自由」と言ってもよいかと思う。…自らの属する集団の利害や自らの置かれている社会的立場に拘束されず、公衆一般に向けて自らの意見を表明することは、21世紀初頭の現代でも極めて困難である。ましてや、個人が自律して理性的に「議論」することなど、ほとんどありえない状況ではないかと思う。

「批判的公開性」にとって重要なことは、公的な事柄に関しての意思決定過程がオープンであることである。公衆の批判的な吟味を可能にしようというのであろうが、そのような「公衆」とはいったい誰であり、「批判的な吟味」が果たして望みうるものなのかについては、具体的で詳細な検討が必要だろう。

さて、今回は「市民的公共性」についてである。

2 市民的公共性 

ハーバーマス『公共性の構造転換』(1962)が提起した「市民的公共性」の概念は、「公権力に対する批判的領域」として位置付けられている。…市民的公共性のアクターは市場の財産主たちであり、彼らの目的は国家の活動に限界を画し、その恣意性を制御することである。…市民的公共性は、政治権力の外部に位置し、それを外側からチェックする審級であり、その主要な関心は「私的自律」つまり政治権力からの自由にある。

市民的公共性は、1870年代以降、後期資本主義が進展するにつれ崩壊の途を進んでいく。市民社会の国家からの分離という前提が国家の介入によって失われるからである。…そうした公共性の歪曲に対して、『公共性の構造転換』が示した処方箋は、まだ枯渇しきってはいない「批判的公開性」の潜勢力を掘り起し、それを「操作的公開性」の趨勢に対抗させるというものであった。

ここで「市民的公共性」という言葉が出てきた。それは国家(政治)が「公共的」な事柄・施策を推進するというものではなく、国家(政治)の外部に位置して、それをチェックし、政治権力からの自由を確保しようというものであった。市民と国家が対立している図式(民主主義社会ではない)である。そこで、

「批判的公開性」の原理を、国家の市民社会に対する権力行使に適用するだけでなく、今度は経済的権力が政治的権力に翻訳されていく過程に対しても及ぼそうというものである。ハーバーマスがこの時点で構想したのは、有力な組織(マスメディアを含む)の成員が組織内のデモクラシーを確立することを通じて、組織と組織との間、組織と国家機構の間における権力の交換過程を制御していくというプログラムだった。公共的空間の再生の希望は、組織に組み込まれた諸個人が自らの組織を内部から民主化していく努力に託されたわけである。

 ハーバーマスの著作を読んでいないのではっきりしたことは言えないが、斉藤のこの要約によれば、ハーバーマスは「組織内のデモクラシー」に対して随分と甘い期待を抱いていたように思われる。有力な組織として何を想定していたのか。組織内のデモクラシーによって、組織と国家機構の間における権力の交換過程が制御できると本当に思っていたのだろうか。

この「市民的公共性」の概念には、いくつかの批判があった。

(1) 市民的公共性の実質は、市民層(ブルジョワジー)の公共圏であり、それは絶対主義公権力と宮廷・教会等の文化的権威に対抗する一方で、より劣位の公共圏-地方や都市下層の「人民的公共圏」など-を抑圧する関係に初めからあった。

(2) この市民層の公共圏には、近代家父長制のイデオロギーが深く刻印されており、女性の排除(女性の「主婦化」)はこの公共圏の存立に取って本質的な意味をもっていた。

(3) このように「公共性の他者」を排除する市民的公共性は、対内的には等質一次元的な空間であった。

ハーバーマスは、どういう社会を想定しているのか。

『公共性の構造転換』の描く市民社会=市場社会はアダム・スミスの言う「自然的自由の体系」に限りなく近い。それは公権力の恣意的な介入から守られているだけでなく、内部における経済的権力の不均衡をも免れている。…政治的抗争はもっぱら市民社会と国家との間にあり、市民社会の内部には存在しない。「市民的公共性」概念の最大の難点と思われるのは、それが公共的空間から権力の非対称性と価値対立の契機を取り除いてしまっているということである。公共性は、抗争の契機をはらむ異質な公共圏からなる多義的な空間としては捉えられていない。人びとの間に形成される公共性の空間を脱政治化する傾向は、ハーバーマスの思想の一つの特徴である。

ハーバーマスが市民社会の公共性をこのように捉えているのだとすれば、上記の批判は当然であろう。

 

公共性の概念の変化

f:id:shoyo3:20150603140532j:plain

http://www.dr-sakurai.jp/blog150413111851.html

 

その後に著された『事実性と妥当』(1992)においては、ハーバーマスの市民社会・公共性の概念が変化していると齊藤はいう。

市民社会とは、非国家的であるだけでなく、同時に非市場的な領域である。…市民社会を形成するのは「自由な意思に基づく非国家的・非経済的な結合」である。市民社会のさまざまな結社が、政治的意思決定のための言説の空間としての機能を果たすとき、それは「公共圏」と呼ばれる。その中には、行政システムや経済システムとの距離が近いもの(政党や業界団体など)も含まれるが、ハーバーマスが重視するのは両システムからの(相対的な)自律性を維持する「自律的公共圏」である(例えば、市民フォーラム、市民運動非営利団体、ボランティア団体など)。

政治的公共性の担い手が変化している。もはや「組織化された集団の成員」ではなく、「自発的に結社に集う諸個人」である。組織に拠るデモクラシーから結社に拠るデモクラシーへの構想の転換の背景には、一方で、理性を公共的に使用するにはあまりにも分厚い組織利害の壁に対する再認識、他方で、60年代末以降に形成され定着した対抗文化と「新しい社会運動」(富の分配ではなく、「生活形式の文法」を争点とするフェミニズムエコロジー反核反原発などの運動)への評価がある。

 「理性を公共的に使用するにはあまりにも分厚い組織利害の壁」…この現実認識から、他の勢力に期待をかけざるを得ない。それが、市民フォーラム、市民運動非営利団体、ボランティア団体などである。では、これら「自律的公共圏」の活動理念と現実の展開はどのようなものであるか。

ハーバーマスは「自律的公共圏」、「自発的に結社に集う諸個人」を重視するようになったので、公共性にとっての課題が変化していると齊藤は言う。

公共性にとっての課題は、国家や有力な組織の活動に対する批判的な監視から、討議を通じた積極的な政治的意思決定、政治的アジェンダの設定へと移る。リベラリズムから共和主義(リパブリカニズム、非国家的な次元での政治的自治の実践を重視する思想)への重心移動が見られる、といってもよい。「私的自律」(政治的権力の制約による個人的自由の確保)から「公共的自律」(政治的自由の実践による政治的権力の創出)への力点の変化である。

ここでいう「リパブリカニズム」や「公共的自律」がどういうものであるか詳しい説明がないとよくわからない。「政治的自由の実践による政治的権力の創出」とは、具体的に何を言っているのだろうか。

政治的公共性は「社会全体に関わる諸問題を感知し主題化する」という役割を果たす。察知された問題は、自律的公共圏における討議を経て、公共性の空間に向けて広く提起されていく。そこで公共的な争点として一般に認められるようになれば、それは「政治システム」(議会等、意思決定が行われる「制度化された公共圏」)におけるアジェンダとされていくことになる。つまり政治的公共性は、さまざまな公共圏が「コミュニケーション権力」(反省に媒介された議論の力)を形成し、それを政治システムに向けて出力する空間として位置付けられるわけである。

これは具体的にはどういうことか。…市民フォーラム、市民運動非営利団体、ボランティア団体など(自律的公共圏)が、その内部で議論をかわし、その意見を公表し、議員等政治に関わるもの(制度化された公共圏)に、影響を及ぼす、ということだろうか。

この議論のポイントは二つある。(1)「行政権力」は経済的権力等の他の権力から生み出されてはならず、「コミュニケーション権力」のみをその発生源としなければならない。(2)「コミュニケーション権力」それ自体が意思決定の権力となるべきではない。

意思決定は政治システムの次元でなされなければならず、政治的公共性は意思形成=公論の形成の枠のなかにとどめられなければならない。

これは興味深い主張である。(1)は、経団連等の財界は政界と癒着して「行政権力」を行使すべきではなく、市民フォーラム等の提言に基づき「行政権力」を行使すべきである。(2)しかし市民フォーラム等は、あくまで意見を述べるにとどめるべきである。

「自律的公共圏」(市民フォーラム等)が「政治的公共性」を僭称して良いものかどうか。

公論…万機公論に決すべし(五箇条のご誓文。天下の政治は世論に従って決定すべきである)。経済の公論に酔て仁恵の私徳を忘るる勿れ(福沢諭吉

ハーバーマスが危惧するのは、直接デモクラシーがポピュリズム-十分な議論のプロセスを経ることなく支配的なシンボルやムードへの順応によって急速な意思形成・決定が行われる政治-に陥る可能性である。

この恐れは決して不当ではないが、それと同時に、政治的公共性と政治システムとの間の連携が弱まり、後者が前者から自らを切り離し、自己展開を始めるという事態も考慮に入れられるべきだろう。

直接デモクラシーが誤りうるのと同様に、間接デモクラシーも誤りうる。重要なのは、どちらか一方をとることではなく、いずれも陥りうる誤りを有効にチェックし、修正することのできる制度をデザインしていくことである。

政治文化の質にもよるが、これまで代議制デモクラシーの優位を支持してきた知識と情報の格差という前提は、既に自明のものではなくなっている。

 政治的公共性と政治システムとの間の連携がどれほどのものであるか。制度的な連携の保証がなければ、自己展開を始めるのは必然ではないか。

「直接デモクラシーが誤りうるのと同様に、間接デモクラシーも誤りうる。重要なのは、どちらか一方をとることではなく、いずれも陥りうる誤りを有効にチェックし、修正することのできる制度をデザインしていくことである。」…それはそうだろう。そのような制度が具体的にどのようなものであるか。恐らくそのような提言が数多くなされているのであろう。私が知らないだけ。でも、そのような提言は、求めなければ見えてこない。