浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

星がきらめき、妖精の魔法の粉が舞い散る、輝く世界

ラマチャンドラン,ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(6)

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http://tsukumogami.net/rasen/event/ev35/ev35_novel.html

視覚障害者の世界は、どういうものなのだろうか。

作家で風刺漫画家のJ.サーバーは、6歳のとき事故で右眼がみえなくなり、事故から何年かたち左眼も次第に衰えはじめ、35歳の時に完全に失明した。ところは皮肉なことに、失明は障害になるどころか、サーバーのイマジネーションを何らかのかたちで刺激したようで、彼の視野は暗く陰気になるどころか、幻覚で満たされ、シュールなイメージがいっぱいの幻想的な世界をつくりだした。…サーバーにとっての盲目は、星がきらめき、妖精の魔法の粉が舞い散る、輝く世界だった。…青いフーバー大統領、金色の火花、紫色の融けた小麦、ぐるぐる巻きになった鉄串、踊り茶色の斑点、雪片、サフラン色と明るい青色の波、ビリヤードの黒玉が二つ、それにもちろんコロナ。…コロナはふつう三重で、何千枚もの花びらが放射線状に並んでいる菊のようです。人はまだ、どんな意味でも、この高貴な色の配列あるいは神の降臨に似た光のスペクタクルを創りだしていません。

ラマチャンドランは、サーバーがシャルル・ボネ・シンドロームと呼ばれる神経系の異常な状態にあると考えた。

この奇妙な障害のある患者は、ふつう眼あるいは脳の視覚路のどこかに損傷があり、視力がまったく無いか、ある程度損なわれている。ところが彼らは、まるで失った現実の「代わり」のように、生き生きとした幻覚を見るようになる。…シャルル・ボネの幻覚は鮮明で、患者はそれを意識的にコントロールすることができない。全く勝手に出てくる。但し、目を閉じると、本物の対象物のように消える。…幻覚は患者にとって異様なほど現実味を帯びている。イメージが「現実よりも真に迫っている」、あるいは色彩が「極度に鮮明」だという。

したがって、このシンドロームを研究すれば、見ることと知ることとの間にある謎めいた中間領域を探査して、イマジネーションの灯りがこの世界の平凡なイメージを輝かせる仕組みを発見できるかもしれない。あるいは、私たちは脳のどこで実際に物を「見る」のか-私の皮質にある30あまりの視覚野の複雑な連続現象が、どのようにして私が世界を認識し理解することを可能にしているのか-という、もっと基本的な疑問を追求する助けにもなるかもしれない。

 

 

ところで、眼や視神経に異常がなくても、私たちには誰でも眼に生まれつき盲点がある。…ラマチャンドランは盲点を取り上げ、「書き込み」(充填)について詳しく説明しているが、ここでは、下記サイトの説明で代えることにしよう。

盲点における充填知覚とは…我々がものを見るときは、眼球の奥にある網膜に投影された像を見ていることになるが、実は網膜には1か所、光を感じない領域がある。それが盲点で、左右の眼球の網膜それぞれに1か所ずつ盲点が存在する。カメラで例えれば、フィルムの1か所にいつでも穴があいている状態だ。

盲点に入った光は、感知されないので、本来はそこに黒い穴があいたように見えるはずだが、実際には脳が欠損している情報をうまく補って、見えるようにしている。この現象は充填知覚と呼ばれ、マクロな現象として以前から知られていた。http://www.uec.ac.jp/research/information/column/05.html

 

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さて、もし病気や事故で視覚皮質の大きな部分を失ったらどうなるのだろうか。

私はジョシュに出会った。ジョシュは30代前半で、何年か前に工場で、鉄の棒が後頭部を突き抜けるという事故にあい、一次視覚皮質の後頭極に穴があいてしまった。そのためにまっすぐ前を見たときに、見ているところの左側に掌ほどの大きさの暗点がある。脳のほかの部位はどこも損傷を受けなかった。…ジョシュは、大きな暗点があることに気づいているという。「問題の一つは、よく女性用のトイレに入ってしまうことなんです。WOMENという表示の左側のWとOが見えなくて、MENに見えてしまうんです」。しかしジョシュは、時々こういうおかしなことが起こるほかは、自分の視覚は驚くほど正常だと強調した。

 

ラマチャンドランは、視野の大きな部分が欠けている彼の暗点に、直線を通らせたらどうなるかを調べた。暗点の両側に直線が半分ずつある図を示して、何が見えるかと尋ねる。連続した直線が見えるか、それとも半分の直線が2本見えるか。

「直線が2本、上に1本と下に1本あって、まんなかが大きく空いています。…ちょっと待って。どうしたんだろう。線がのびて近づいていく。どんどん、どんどん、のびています。いまくっついて1本の直線になりました」…明らかにジョシュのどこかの神経回路が、暗点の両側に半分ずつある2つの直線を、完全な直線がそこにある証拠だとみなし、そのメッセージを高次の中枢に送ったのだ。

次に、2本の直線をわざとずらしてみたら、「完成しません。空隙が見えます」。…2,3秒してジョシュが叫んだ。「わっ、これはどうなってるんだ。いま完全に一直線になって、すきまが埋まっていきます。よし、いま完成しました」。

 次に、単純な線の代わりに、Xが並んだもの(中央の3個のXが暗点に入る)を縦棒に使ったらどうなるかの実験が行われた。(左図)

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「上に大きなXが並んで、下にもXが並んで、真ん中に大きな隙間があります」

次に細かいXが縦に長く並んだものが試された。(右図)

「Xがずっとつながった縦棒に見えます」

小さいXは書き込まれ[充填され]、大きいXは書き込まれなかった[充填されなかった]。…なぜ、完成は小さいXのときだけ起こり、大きいXでは起こらなかったのか?

ラマチャンドランは次のように考えた。

おそらく脳は、小さいXを連続したテクスチャー(地模様)をなすものとして扱い、従って完成を行うが、大きいXに直面したときは別の操作モードに切り替わって、Xがいくつか欠けているのを「見る」のだろう。

私は、小さな文字は視覚路のある部位-テクスチャーや表面の連続性を扱う部位-を活性化し、大きな文字は、物体を扱う側頭葉の経路で処理されるのだろうと直感している。脳は連続した表面のテクスチャーや色に対しては、空隙を埋めて完成することに熟達しているが、物体に対してはそうではない。

 空隙を埋める完成は、物体や文字よりも「素材」やテクスチャーのほうがはるかに容易に起こるという、この考えを検証するために、ラマチャンドランは次のような実験を行った。

暗点をはさんで上部に数字の1,2,3を、下部に7,8,9を置いた。ジョシュは知覚的にこの連続を完成させるだろうか? 真ん中には何が見えるだろうか。もちろん数字は、脳がテクスチャーとして扱うように、小さなものを使った。

「数字がならんだ縦棒が見えます」 「真ん中に空隙がありますか」 「いいえ」 「数字を読み上げてください」 「えー、1、2、3、えー、7、8、9。あれ、おかしいな。真ん中のところは、数字は見えるのに読めません。数字のように見えるのに、何だかわからないんです。象形文字か何かみたいで、読めないんです」

 これは次のように解釈される。

表面や縁を扱う脳のシステムは「ここには数字に似た素材がある。真ん中にもそれが見えるはずだ」というが、実際の数字は存在しないので、物体を認知する経路は沈黙したままだ。そして最終結果が判読できない「象形文字」になった。…私たちが視覚系と呼んでいるものが、実際は数種のシステムからなっていることが知られるようになって20年になる。複数の特殊化した皮質領域が、動きや色彩など、それぞれ別の視覚特性に関与している。…書き込み(充填)は、色彩や動きやテクスチャーといった知覚特性について、それぞれ別の速さで起こるらしい。

 脳はなぜこのような知覚の完成(充填)をするのか。

その答えは視覚システムの進化に関するダーウィン流の説明のなかにある。視覚の重要な原理の一つは、できるだけ少ない処理で仕事を済ませようとすることだ。脳は視覚の処理を節減するために、周囲の世界の統計的な規則性-輪郭線は一般に連続しているとか、テーブルの表面は均質であるといった規則性-を利用する。こうした規則性は、視覚処理の初期段階で捕捉され、視覚路の機構に送り込まれる。

 

さて冒頭で、J.サーバーやシャルル・ボネ・シンドロームの幻覚の話があった。盲点や暗点への書き込み(充填)の話とどう関係してくるのか。

幻覚は、意思によるコントロールはまったくできず、一般に前触れなく出現する。イメージが現実の物体さながら、まったく自発的に出現する。…ラリーは27歳の農業経済学者で、恐ろしい自動車事故にあった。頭がフロントガラスに激突し、眼のすぐ上の前頭骨と、視神経を保護している眼窩板という薄い骨が折れた。こん睡状態が2週間続いた後、ようやく意識を取り戻した彼は、歩くことも話すこともできなかった。…それから次第に、脳がなんとか損傷を修復していくにつれて、状況が改善していった。

ラリーは、5年後ラマチャンドラン博士を訪れた。

彼の幻視は、以前は視野のあらゆるところに起こり、色鮮やかにくるくると動いていたのだが、そのころには、まったく視力のない下半分に限られていた。つまり、鼻の高さから下の部分は、架空のものしか見えなかったのである。鼻から上はまったく正常で、つねに実際に存在するものが見えたが、鼻から下には、幻覚が繰返し断続的にあらわれた。

「ラリー。ふだん、幻覚が見えるときは、部屋のなかにある物の上にかぶさることが多いと言ってましたね。でも今あなたは、私を見ています。今、私に何かがかぶさって見えているのではないのでしょう?」 「先生を見ているときは、先生の膝の上に猿が座っています」 「猿ですって?」 「ええ、膝の上に」 「どうして幻覚だとわかるのか教えてください」 「それはわかりません。でも、猿を膝の上にのせている教授というのは、あまり考えられませんから。だから本当じゃないだろうと思ったんです。…でも、とてもいきいきして本物に見えますよ。…まあ一つには、何秒か何分かたてば消えていくので、本物じゃないとわかるんです。その猿のように、幻覚がまわりの風景にひどくよくなじんでいることも時々あるんですが、それでも到底ありそうにないので、ふつうは人には言いません。…それから幻覚にはおかしなことがあって、本物より良く見えることが多いんです。色が明るくて強くて、異常に鮮明だし、実際に本物よりも本物らしく見えるんです。」

 ラマチャンドランは、こうした奇怪な症状をどう理解しようとしているか。

私たちが猫を見る、猫の形や色やテクスチャーやその他の視覚特性が網膜に飛び込んできて、そこから視床(脳の真ん中にある中継所)に送られ、一次視覚皮質に到達して処理され、二つの経路に入る。経路の一つは奥行と運動に関与する領域(あなたが対象物をよけたりつかんだり、あるいはあたりを動き回ったりすることを可能にしている領域)に行き、もう一つは形や色や物体認知に関与する領域に行く。そして最後にすべての情報が結びついて、それは猫だと(例えば、雄猫フェリクスだと)私たちに告げ、私たちが猫一般やフェリクスという特定の猫について知っていることや感じたことを思い起こせるようにする。少なくとも教科書にはそう書いてある

では次に、あなたが猫を思い浮かべたときに脳のなかでどんなことが起こるかを考えてみよう。なんと視覚機構を逆向きに動かしていることを示す信頼できる証拠があるのだ。すべての猫と特定のその猫に関する記憶が上から下に(高次領域から一次視覚皮質に)向かって流れ、それらすべての領域の活動が結びついて、想像の猫が心の眼に知覚される。しかも一次視覚皮質の活動性は、現実に猫を見ているときに匹敵するのではないかと思われるくらい大きい。しかし実際は、猫はいない。つまりこれは、一次視覚皮質が網膜から入ってくる情報を単に区分けするだけの場所ではなく、むしろ情報が高次領域の偵察者から絶えず送り込まれ、ありとあらゆるシナリオが上演され、ふたたび同じ高次領域に送り出される、作戦本部に似た場所であることを示している。脳のいわゆる初期段階の視覚野と高次の視覚中枢との間に動的な相互作用があり、その結果が、猫のいわば仮想現実シミュレーションとなる。(以上は、動物実験と人間の脳の画像解析によって発見された)

以下のラマチャンドランの論述が興味深い。視覚障害者が見る「幻覚」の説明である。

この「相互作用」がどのようにして起こるのか、どんな機能をもっているのかは、はっきりとはわからない。しかし、ラリーのようなシャルル・ボネ・シンドロームの患者や、あるいは老人ホームで暗い部屋に座っている高齢者に起こっていることの説明にはなるかもしれない。私の意見では、彼らは欠けた情報をジョシュ[縦棒の空隙を充填する]とよく似たやりかたで書き込んでいる(充填している)。ジョシュと違っているのは書き込み(充填)に高次の貯蔵記憶を使っているという点だけだ。

従って、シャルル・ボネ・シンドロームでは、像は「知覚の完成」というよりも、むしろ一種の「概念の完成」に基づいている。書き込まれた(充填された)像は、記憶から来たもの(即ちトップダウン)で、外界から来たもの(即ちボトムアップ)ではない

仮にこの理論(人が何かを思い浮かべるたびに、初期視覚野が活動している)が正しいとしたら、なぜあなたや私はいつも、最低でもときどき、内部で生まれたイメージと現実の物体がごっちゃになった幻覚を見ないのだろうか。…猿のことを考えても、椅子に猿が見えないのはどうしてなのか。

ラマチャンドランの答えはこうだ。

それはたとえあなたが眼を閉じていても、網膜の細胞や初期視覚路がつねに活動して、基準となる平坦な信号を出しているからだ。この基準信号は、網膜に対象物(猿)が何も飛び込んできていないことを高次の視覚中枢に知らせ、従ってトップダウンの想像で喚起された活動性を否定するトップダウンの想像とボトムアップの感覚信号の相互作用]。しかし初期視覚路が損傷されていると、この基準信号がなくなるので、幻覚が生じる。

もし私の考えが正しければ、奇怪な視覚の幻はすべて、あなたや私が自由に想像をするときにいつも脳の中で起こっているプロセスの、誇張されたバージョンに過ぎない。進む経路と戻る経路が相互に連結して、ごちゃごちゃとかたまったどこかの場所に、視覚と想像の接点があるのだ。その接点がどこにあって、どんな働きをしているのか、まだはっきりした考えはないが、患者たちはどんなことが起こっているのかについて、興味をかきたてる手がかりを提供してくれる。

 患者から得られた事実は、知覚と呼ばれるものが、実際は感覚信号と過去に貯蔵された視覚イメージに関する高次記憶との動的な相互作用の最終結果であることを示している。だれかが何か対象物に出会うたびに、視覚系は不断の探求のプロセスを開始する。断片的な事実が高次中枢に届き、「うーん、たぶんこれは動物だ」と告げる。そこで私たちの脳は、一連の視覚的な質問を提示する。それは動物ですか? 猫ですか? どんな種類の猫ですか? 飼い猫? 野良猫? 大きい? 小さい? 黒かな、白かな、それともぶち? 次に高次の視覚中枢は、一次視覚野を含む低次の視覚野に、ある程度「ぴったり」の答えを投射する。このようにして、貧弱な像が段階的に調整され、改良される。私はこれらの大規模なフィードフォワードやフィードバックの投射が、連続的な相互作用を主導する役割を果たし、それが真実のもっとも近くに接近することを可能にしていると考えている。あえて大げさな表現をすれば、おそらく私たちはいつも幻覚を見ているのであり、私たちが知覚と呼んでいるものは、どの幻覚が現在の感覚入力にもっともよく適合するかを判断した結果なのである。しかしシャルル・ボネ・シンドロームがそうであるように、もし脳に確認の視覚刺激がとどかなければ、脳は自由に独自の現実をつくりだす。そしてJ.サーバーがよく承知していたように、どうやら脳の創造性には限度がないようだ。(以上、第5章 ジェームズ・サーバーの秘密の生活)

 

ラマチャンドランは「大げさな表現」といっているが、「私たちはいつも幻覚を見ているのであり、私たちが知覚と呼んでいるものは、どの幻覚が現在の感覚入力にもっともよく適合するかを判断した結果なのである」というのは、実に面白い。…おそらく「芸術」とは、この「幻覚」の表現なのだろう。「光」や「色」や「形」や「音」や「ことば」で表現される「幻覚」、それは「人」が何ものであるかを明らかにするキーワードたりうるかもしれない。