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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

「幸福」の中身は何も明らかになっていない

児玉聡『功利主義入門』(7)

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https://www.youtube.com/watch?v=R6UW-8KTufE

 

児玉は、幸福について、暫定的な見解を述べている。

政治のレベルでは、政府は人々が不幸になる原因を取り除くことを重視すべきである。一般に政府は、個々人がどのような幸福感を抱いているのかを正確に知ることはできない。そのため、人々を幸福にするために不幸の原因を取り除く以上のことをするのは難しい。そこで、人々に共通する最小公約数[最大公約数だろう]といえる利益のリストないし不利益のリストを作って、幸福になるための基盤を提供することが重要である。

功利主義はすべての人々の幸福を等しく考慮に入れるが、政府の主要な役割は、不幸を減らすことだと考えるなら、社会的弱者と呼ばれる人々、即ち貧しい人や病気の人などを重点的に助けるような政策を支持することになるだろう。あとはベンサムやミルが考えていたように、諸個人の自由な活動に任せることが、最大多数の最大幸福につながると考えられる。

児玉のこの見解には違和感がある。

不幸になる原因を取り除くことは重要なことだが、それが「政府の主要な役割だ」というのは果たしてどうか。菅直人の「最小不幸社会の実現をめざす」という言い方が「後ろ向きでジメッとした政策目標」である、「最大幸福社会を目指すべきだ」といった批判が多かったことは記憶に新しい。そういった批判はあたっていると思う。表現の仕方がいかにもまずい。「最大幸福社会を実現するための基盤を整備する」とでも言っておけば良かった。…「貧しい人や病気の人などを助ける」ことに誰も反対はしない。それらの諸施策にどれだけのウェイトをおくかが問題であるが、ここでは詳論しない。いずれロールズを取り上げたときにふれてみたいと思う。

「幸福」といい「不幸」というが、その内容がはっきりしない。「利益のリスト」は千差万別、「不利益のリスト」は共通部分が多い、というイメージを児玉は持っているようだが、その具体的内容を明確にして論じないと議論が先に進まないだろう。

「あとはベンサムやミルが考えていたように、諸個人の自由な活動に任せることが、最大多数の最大幸福につながると考えられる」…そうだろうか。「諸個人の自由な活動に任せれば、うまくいく」というのは、あまりにも楽観的な見方ではないか。「諸個人の自由な活動が、不幸になる原因を作りだす」ことは考えられないのか。

次に個人のレベルで考えた場合、通常は自分が現に持っている欲求を満たすことが幸福につながるだろう。自分が持っている欲求がことごとく満たされない人生は、あまり幸福とは言えそうにない。特に衣食住のような人間が生きるために不可欠なニーズに対する欲求は、ある程度満たされていなければ幸福になることは難しい。そこで、こうしたニーズに関しては、必要な場合には政府が援助することが幸福にとって重要となるだろう。

ただ現に持っている欲求を満たすことが常に幸福につながるとは限らない。我々は、不適切な環境に置かれているか、不正確あるいは不十分な情報しか持っていないために、本来は持つべきではない欲求を持つことがある。逆に持ってしかるべき欲求を持っていないこともある。

我々は、落ち着いて考えられるときに、自分の生き方を見つめて、現に持っている欲求を吟味する必要があるだろう。自分が持っている欲求のセットの中には、事実を直視したならば放棄したほうが良い欲求もあるだろうし、またより重要な欲求を満たす手段として持ってしかるべき欲求もあるだろう。こうした作業を通じて、

欲求をふるいにかけ、全体として合理的な欲求のセットを持つことが幸福への近道だと思われる。

 「本来は持つべきではない欲求」「持ってしかるべき欲求」は決まっているわけではない。誰かが教育や情報提供で押しつけるべきものでもない。話し合い(議論)で決めるべきものだろうが、これが難しい。これをどうするかが問題である。

 

幸福再考のすすめ

幸福とは何かという問いにきちんと答えることは難しい。幸福は単純に快楽とは言えないし、選好充足ともいえない。そして、本人の利益を満たすという考えも、幸福とは何かという問いには答えられていないように見える。どの立場を取るにしても、「快楽を満足させることは本当に幸福か?」「選好を充足させることは本当に幸福か?」「利益を満たすことは本当に幸福か?」という問いが繰返し起きてしまう。

倫理学はしばらくの間、幸福について正面きって考えてはこなかった。しかし、幸福論にたいする人々の欲求が絶えたわけでは決してない。…現在では、哲学・倫理学以外の人々が書く「自己啓発」や「スピリチュアリティ」といったテーマの本が溢れている。「幸福とは何か」という古くからある問いは、今日でも切実な問いなのだ。…答えがなかなか出ないからといって、問題にしなくてよいわけでもない。

 「幸福」について、「幸福とは何か?」というかたちの問いにして直接答えようとしても無理な話だろう。森村進は、「法とは何か?」という問題は、単一の問題というよりは、「法と呼ばれるものは何か、またその顕著な性質は何か?」、「いかなるものを法と呼ぶべきか?」、「法はいかなるものであるべきか?」、「法は作られるものか、そこにあるものか、成るものか?」といった、法に対する複数の問題の複合体と考えた方が実態に即している、と述べている(森村進法哲学講義』…この本は、近いうちに取り上げる予定)。ここで「法」という言葉を「幸福」に置き換えれば、そのまま当てはまるように思われる。「幸福とは何か?」という問いは、単純な問いではない。性急に「幸福とは、○○である」といっても、説得力がない。

 

前回(2015/5/19 「愚かな選好」と「選好のソムリエ」)の最後に、「次回は、現代の「選好のソムリエ」が選ぶワイン(政策)について少し考えてみることにしたい」と書いた。具体的な政策の一例を取り上げて、「幸福」、「不幸」、「合理的な選好」、「パターナリズム」等について考えてみようと思ったのだが、どんな政策についても一筋縄ではいきそうにないので、当面保留する。

私が考えていたのは、以下のようなことである。

首相官邸のホ-ムページ(http://www.kantei.go.jp/)の「国の政策」→「各府省から探す」を見ると、各府省の任務、政策、組織等がまとめられている。そこから政策の一つを選び、リンクをたどっていくと政策の具体的な内容がわかる。それを読み、「幸福」、「不幸」、「合理的な選好」、「パターナリズム」等について考えてみようという寸法であった。興味のある方は、試してみられたい。