気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

富裕層はリベラル・アーツを学ぶ (2) 羊の群れに混じったわがままなヤギ

前回、「富裕層はリベラル・アーツを学ぶ」を書いた後、日経ビジネスONLINEの以下の記事を見つけました。リベラルアーツを巡り、3教授が話し合っておられ、非常に面白いです。第1部:「日本の大学に、『教養』を取り戻そう」 第2部:「頭がいいけど『世間』に弱い」理系の大学生 第3部:「教養を学ぶにはどうすればいい? 3教授が答えます」。以下におよそ三分の一を引用しますが、ぜひ全文読んでみてください。今回は、コメントを一切書きません。(但し、いつもの通りアンダーラインを引いたり、赤字にしたりはします。)

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20120605/232963/?rt=nocnt

 

2012年5月10日木曜、関東地方を突風と豪雨が襲う中、東京・目黒にある東京工業大学で、同学のリベラルアーツセンター設置記念講演「現代における“教養”とは」が開催されました。リベラルアーツ、すなわち教養をテーマに語るのは、センター長の桑子敏雄教授、上田紀行教授、そして、池上彰教授です。

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教養とは、羊の群れに混じったわがままなヤギである

伊賀学長:数年前にヨルダンを訪れました。山を見ると、山沿いにまっすぐな線が入っているように見えます。これは羊が草を食べた跡です。羊はまっすぐに前の羊に従って歩くので、だんだんと草がなくなって、後から来る羊は草がなくなり痩せてしまいます。この羊の集団に山羊を少し入れるのだそうです。山羊というのはいい加減で、ふらふらとランダムに草を食べて歩きますから、羊まで一緒になって、草をいろんなところに食べに行くようになります。すると一直線に食べ尽くしてしまうということがない、つまり、異質な山羊という存在を加えることは、羊という集団にとっていいことなんですね。…ヨルダンという国は、中東にあります。石油が出るわけではありません。有名なのはモーゼの遺跡、南端にあるペトラ遺跡死海でしょうか。1900年代の初めに、オスマン帝国の統治からアラブ諸国が独立したのですが、同時にイスラエルも作られました。それから百年が経過したわけで、歴史、地理、宗教をよく知らないと、今起きていることの本質が見えてこないものです。

池上:伊賀学長、ありがとうございます。理工系大学の学長がヨルダンの羊について語る。これがまさに「教養」です。そして、東工大における我々リベラルアーツの教官は、羊の群れにまざった異質な山羊である、ということがわかりました(笑)。

 

文部省が「大学に教養教育は不要」と言い出した

桑子:私は以前、南山大学の文学部で哲学を教えていました。東工大に来たのは1989年。工学部の助教授として赴任しました。工学部の中に人文社会群があったのです。…ところが赴任して2年が経た頃に、当時の文部省の大学審議会が、「大学に教養教育は要らないのではないか? むしろ専門教育や大学院を重点化すべきではないか」という方針を打ち出したのです。実際にどうするかは各大学に一任されていました。東工大では、学部の教養教育を解体することになり、そのかわりに、新しい大学院を設置しました。…このように90年代初頭、日本の大学では、教養教育、とりわけ文系学問の教養教育がものすごく軽んじられていたのです。その状況が一変したのは、1995年です。1995年には阪神淡路大震災がありましたが、そのあとに、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こりました。

 

オウム事件でわかった。日本の理系には教養が足りない!

池上:ああ、そうか! オウム真理教は、幹部に理科系出身者が数多くいたことが問題視されましたね。日本の大学の理系教育は専門課程の純粋培養が過ぎて、教養や世間知を学生に教えていないのではないか、と。だから、オウムのようなカルトに、よりにもよって科学の徒が妄信してしまうのではないか、と。

桑子東工大では伝統的に学部の1年生から大学院生まで、ずっと教養教育を受ける機会を設けています。これを「くさび形教育」と呼んでいます。…改めて東工大の伝統である教養教育の存在を示すためにも、制度面、組織面でも新しい拠点を作ろうじゃないか、という機運が巻き起こりました。それが、このリベラルアーツセンターです。

上田:96年に東工大で教えないか、と声をかけていただいたときには驚きました。…当時の私が専門に研究していたのは「スリランカの悪魔祓い」と「癒やし」です。東工大には悪魔でもいるのか、そんなに癒やされていないのか、と思ったものです(笑)。…「教養がない」と言うのは、相手に対する人格否定、全否定です。つまり、「教養」というのはその人自身の人格にかかわってくる。そのひとの全人格的なものを背負った上での「かしこい」「おバカ」にかかわるもの、それが「教養」なんです。

 

大正・昭和の教養主義は、大学庶民化で消え去った

上田:教養が日本で重視されるようになったのは、かつて「大正教養主義」と言われていた時代、大正時代に入ってからでしょうね。東京帝大などの旧帝国大学では、「おりこう」になるための専門能力を身につけることが重視されていましたが、帝大に入る前の旧制高校ではゲーテを読んだりカントを読んだりして、学生は、理系文系にかかわらず、徹底的に教養武装をしていたのです。…私が考えるに、1970年代にこうした教養のあり方が崩壊します。説はいろいろありますが、私は、大学の庶民化があるだろう、と考えています。

そして80年代以降は、教養よりもはるかに重視されるものさしが現れます。「お金」です。端的に言ってしまうと、教養があって貧乏なのと、教養はなくてもお金持ちなのとどちらがいいか、どちらと結婚したいかと女性に問うと、やっぱりお金を選ぶ、という時代になっちゃったんですね。教養がなくてもお金持ち、というキャラクターのほうが圧倒的に人気をかちとる。社会を動かす要因が政治から経済になり、社会そのものが経済市場化していくようになり、以前からの古色蒼然とした「教養」は役に立たないものという烙印を押されてしまいました。

池上:時代でいうと、まさにバブル景気の前後ですね。さきほどの桑子先生、上田先生がおっしゃった、大学の脱・教養、専門重視もちょうど同じ時期から起き始めます。

上田:そうです。かつて教養を学生に施した大学も変わりました。教養主義は廃れ、専門化が進み、結果として「できる人間」「できて儲けられる人間」を育てる場になりました。この10年くらいは特にそうですね。ところが、今、こうした大学の「専門」重視のカリキュラムが、実は根本的にダメなんじゃないか、と、いま問題となっているんです。

 

新しい時代は、「教養」こそがビジネスにつながる

上田:一見役に立たない「教養」を学ぶ時間をどんどん削って、専門科目だけを徹底的に習得させると、たしかに学生たちは「できる人間」になります。でも、この「できる人間」とは、あくまで「決められた枠組み」で「できる人間」のことなんですね。価値観が多様化して、「枠組み」そのものをどう決めるかという時代には、実はこうした「決められた枠組み」の中だけで「できる人間」や「専門家」は、新しい時代には対応できない、新しいアイデアが出せない「使えないやつ」となってしまうのです。…日本では、大学どころか中学高校から「決められた枠組み」の中だけで勉強させるようになっています。現在の高校生は入試科目しか勉強しません。…これは、いまの受験そのものが抱えている本質的な問題でもあります。誰かが出した問いをエレガントに解くには、コストパフォーマンスを追究する勉強法で「解法」を勉強するだけでいいでしょう。けれども、「決められた枠組みで、決められた問題を、いかにエレガントに素早く解くか」という力だけでは、「いまの社会では何が問題か?」というように、問題そのものを自分で設定しその答えを自ら探していく、という状況には対応できないんですね。…そんな「解なき時代」に必要なものはなにか。それが「教養」です。既存の枠組みでは、役に立たないかもしれない。けれども、未来に必須の新しい思考体系をもたらしてくれるかもしれない。それが「教養」です。

 

理系にコミュニケーションを、文系に専門情報を

池上:私の役割は、「理系」と「文系」の垣根を取り去ることだと思っています。理系の人には、理系的な知識のない文系の人にも専門情報をわかってもらえるような説明やコミュニケーションの能力が必要ですし、一方の文系のひとにも確率などの数字や科学に関するリテラシーが必要です。理系と文系がそれぞれの専門分野に閉じこもってしまう専門バカでは機能しない。まさに文理融合が個々人に求められる。

 

理系の大学に女子が少ない、が日本をダメにする

桑子東工大では女子学生の割合が約10%です。とにかく女子学生が極端に少ない。このため、そもそも男女間のコミュニケーション方法がわからないという悩みを多くの男子学生たちが抱えています(会場笑)

上田:実は男子だけの空間で女子とコミュニケーションをとらないでいると、「発想」の貧困化も招きます。つまり、女性の気持ち、フェミニンな発想が理解できなくなってしまう。世の中の半分は女性ですし、市場も教育もむしろ女性が主導権を握っている。

上田:僕は、これからの教養には4つのCが必要だと思っています。第1のCは、コミュニケーションです。情報は発していかないと、他をインスパイア[感化、啓発、鼓舞]できません。つまり、コミュニケーションからすべてのアクションは起こるのです。何かを作る理系の人間にこそ、コミュニケーション力は必要となり得ます。第2のCはコミットメントです。状況に関わっていくことですね。「僕は状況の分析はできるけど、その現状にはかかわりません」といった批評家的なスタンスはもはやダメでしょう。いかにすばらしい分析ができてもコミットメントできなければその分析能力を教養とは呼べません。

 

何かを生み出すことが現代の「教養」

上田:第3のCは、クリエイション。なにかを生み出していく能力です。「デカンショ」的な大正昭和の教養主義は、ただ知識を吸収するだけの教養でした。すべてのことは古典の中にあった、というスタンスだったからなんですね。でも、今は情報をため込むだけでは教養ではないのです。あくまで次に何を生み出せるかが問われます。それから第4のCが、先ほどから触れている「女性」性とも大きく関わる、ケアです。

ハインツのジレンマ…「ハインツという男がいます。ハインツの奥さんはガンで死にかかっています。お医者さんは最近売り出された特効薬を使うしかないと言っています。その薬の開発者は、開発費の10倍の値段を付けているため、薬はとても高価です。ハインツは募金を集めましたが、値段の半分しか集められませんでした。ハインツは開発者に交渉しましたが、色よい返事をもらえませんでした。ある日ハインツは、愛する妻のため、薬のある倉庫に忍び込み、盗み出しました」。この行為をどう考えるか。

11歳の女の子は答えがだせませんでした。「製薬会社をちゃんと説得する方法はないものだろうか、もっとお金を集めることはできないのか。奥さんのためにと盗みを働いた夫が捕まったら、自責の念にさいなまれた奥さんは病気が重くなってしまうのではないか……」…ここで11歳の女の子が思いを巡らせているのは、ガンで死にかかっている奥さんを救おうとしているハインツのとった方法が正しかったか間違っていたか、についてではありません。ハインツの奥さんが助かるにはどうしたらいいだろうか、という具体的な状況に対するコミットメントのあり方であり、結果としてなるべく誰もが傷つかないで、最良の結果=奥さんが助かる道筋を円滑に見つけていこうとすること、つまりケアの仕方なのです。

 

「正しい答え」にこだわるか、「現実的な解」を探すのか

池上現実は、たとえば、ガンの特効薬の所有権かガンに罹った奥さんの生存権かの二択問題ではない

桑子:リベラルアーツのリベラル=自由、とはまさにそういうことです。与えられた問題の解を出すのではなく、自ら自由に問題を設定し、新しい解を探していく

 

東工大生の「サラリーマン根性」ぶりにびっくり

上田:僕が東工大に来てショックだったこと、それは、東工大の学生たちが「頭がいいけど『世間』に弱い」ということでした。まあ、東工大生に限った話ではないのでしょうが。…まず日本の企業の閉塞的な状況を描いたビデオを見せた後で、こんな質問をします。

「あなたはメーカーに勤務し、東南アジアの工場で働くことになりました。そこでは有害物質を排出し、公害を引き起こしています。赴任早々、それに気づいたあなたは、上司に報告しましたが、効率重視の上司は『そうはいっても』と、改善しようとしません。さて、あなたはどうしますか?」

 次にこの問いに対する答えを3つ用意します。(1)実名で告発する。(2)匿名で告発する。(3)何もしない。

で、学生に選ばせる。するとどうなるか。…最悪の結果だったのが2006年です。200人の学生のうち、(1)が数人、(2)が十数人、残り180人が(3)でした。なんと9割が知らぬふりをするんです。答えたのはまだ会社に入っているわけでもない、会社に忠誠を誓っているわけでもない、学生たちなのです。これがはたして自由な社会で出てくる比率でしょうか? いまの学生たちはインターネットなどを通じて実にいろいろなことを知っています。しかし、真実を自由に話せない社会は豊かな社会とは言えないでしょうなぜ、9割もの学生が「何もしない」を選ぶのか。愕然としました。…一昨年でも(1)と(2)を合わせても全体の2割にはいきませんでした。ところが、昨年の震災と原発の事故の後に聞いてみたら、何と、(1)が30人、(2)が100人、(3)が70人と、告発派が過半数の130人になったのです。悪いことを隠蔽してはならない、正しい、ということを表に出していかなくてはならない。教養がもたらす「自由」が体現される社会とはそういうことが当たり前の社会だと思います日本がその意味で教養のある社会、自由な社会足り得るかどうか。もしかすると、今が潮目ではないかと思います。新しい教養教育を考えるとき、自分の意見を自由に発信していく「ある種の力」も同時に学生たちには与えていかないといけないでしょう。知ってはいるけど発言しない、という「悪しき教養主義」に陥ってしまっては絶対ダメだと思うのです。

 

教養とは「知識」じゃない。現実にコミットメントすること

桑子:リベラルアーツセンターの理念は、まさに人の「生き方」とも深く関わります。人間性と社会性これが人間を構成する2つの柱です。このリベラルアーツセンターでは、そういった人文科学系、社会科学系という学問上の区別を超えて、人間性と社会性をどう高め、養うかに取り組んでいきたいと思っているのです。

かつて日本の行政は、一般市民の政治参加について「巻き込む」という表現をしました。英語でいうとインヴォルヴメント。主体はあくまで行政サイドです。ところが、この言い回しが変わってきました。インヴォルヴメントからパーティシペーション、つまり参加を求めるようになってきて、最近は、エンゲージメントを求めています。つまり、市民が自らの責任で積極的に行政に関わることを意味しています。…巻き込まれるのではなく、市民が現実の社会、現実の政治に自らの意志で関わっていくことが求められている。それが今です。

池上:なるほど、教養を得るとは究極的な自由を獲得することであり、それはすなわち自らの意志で社会に関わっていく、ということにつながるわけですね。従来の「教養」のイメージとは違います。大正や昭和の時代に「教養がある」というのは、たくさん本を読んでものをよく知っている人のことを指しましたが、今の時代は、コミットメントしたり、エンゲージメントしたり、さまざまな実践能力も兼ね備えていないと、教養がある、とは言えないわけですね。

上田:その通りです。さきほどちょっと触れましたが、僕は、こんなに豊かな社会なのに、われわれ日本人の発想も行動も置かれている立場も全然自由でないことが大きな問題だと思うのです。

 

教養課程は、専門課程より難しいのだ

上田:過去20年、日本の大学は、これまで述べてきたように、授業内容の専門化を進めて「できる人」ばかりを作ってきました。これはつまり、人間を「道具」や「手段」としよう、ということです。逆にいえば、「いい道具として生きなければ評価されない」ようになってしまったのです。でも、時代はむしろ枠外の自由な「教養」を求め始めています。いくら「できる人=よい道具」となっても、枠が崩れたら、その道具自体が役立たずになってしまうかもしれないのですから。そんな時代に求められる「教養」とは、昭和や大正の時代のようにトリビアルな知識をたくさん持っていること、ではありません。課題を探し出し、考えていくプロセス。そのプロセスを血肉化していることが、現代の「教養」なのです

池上:まさに、そんなプロセスを今、この会場でやっているわけですよね。教養ならぬ強要はしていないつもりですが。(会場笑)

上田:もうひとつ、永井さんは非常に鋭い指摘をしています。教師にとって、教養課程を教えることは専門課程を教えることよりも難しいのだと。残念ながら、現在の日本の大学においては、専門課程のほうが教養課程よりも重視されていますから、教養課程を教える先生も、僕の経験でもなんとなく専門課程の先生よりも下に見られている傾向があるような気がします。でも、永井さんはずいぶん昔に指摘しているんですね、実は専門課程よりも教養課程のほうが教えるのが難しいのだ、と。

 

前進すること、それこそが教養なのだ

上田:永井さんは、専門を掘り下げることも、体系的に学ぶことも、どちらも「教養」なんだと言っています。結局、教養とは「前進していく」ことなんですね。それから、「場が大切だ」とも言っています。教養は、枠にはまったカリキュラムを作り、誰が教えてもいいようにマニュアル化したとたんに死んでしまいます。そうではなくて、社会との関わりの中で、問題意識が鮮鋭な人たちが集まり、熱く考え、議論する場があれば、そこで現代的な教養が育めるのだと思います。

 

枠組みから自由になり、積極的に社会に関わる

池上:教養=リベラルアーツの、リベラルとは、さまざまな枠組みから自由になることである。ではどんな枠組みからどう自由になることなのか。まず、それを考えること自体が教養の第一歩である。…教養を身につけたからには、傍観していてはだめで、社会に対して、積極的にコミットメントする、参加する、関わっていかなければ、真の教養人とはいえない。…桑子先生はよく「教養とは人間の根っこの部分である」とおっしゃいます。まさに人間としての根っこの部分をどうつくっていくのか。そのための場を、リベラルアーツセンターは提供していきたい、と思っております。

 

<Q&A>

Q:大学の教養の講義はつまらなくて何も学べないのでは

上田:この方は大学の教養の授業が「つまらない」と指摘している。でも、僕は、どんなにつまらないことにも相当の意味があると思っています。なぜならば、「つまらない」ものを経験しないと、人間、何が面白いかもわからないからです。例えば映画を10本観て、そのうち8本がつまらないから、2本が自分の好みに合うということがわかる。つまらない、に出会う経験を惜しんではなりませんそれは、面白い、に出会うために必須の道なのです。…世の中そんなに面白いことばかりではないですよ。で、何が言いたいかというと、つまらない講義にも意味があるということです。

桑子つまらないことを言う人、それから文句ばかりを言う人、ネガティブなことを言う人には、それなりの理由があるんです。この先生の講義はつまらないなと思ったら、なぜつまらないのか自体を考えてみる――というのは面白いですよ。

 

Q:教養には、社会を形成する一員となるために必要なことを学ぶ面と、自由で豊かな人間性を学ぶ面と、二面があると思います。今の時代は、そのどちらの方が大事でしょうか?

上田:多くの学生は恐ろしいほど知識がありません。自分がいま地図の中のどのあたりを歩いているかがわからない感じ、なんですね。地図を与えてあげると、それを見て歩いていけるんだけれど、そもそも自分の頭の中に地図がない。頭の中にある種の地図をおけるようになるには、ある程度の知識が必要ですし、社会的修練も大切です。両方あってはじめて頭の中に地図ができる。結果、どこに自由があるのか見つけられる。だから、その二つはどちらも大切、表と裏なんじゃないかなと思います。

 

Q:漁師として、生活を安定させ、休日には家族と過ごすためには、いまどんな教養を身につけたらいいでしょうか?(水産大学に通う女子学生。将来漁師になるのだそう)

桑子:海岸の浸食対策事業で、漁師の人と仕事をしていますが、漁師の世界は独特ですね。地域社会も、農協とも全く違う漁協という組織も、それから漁師の方々の人生観も。常に危険と隣り合わせの職業ですから、リスクへの考え方も普通の人たちとはだいぶ違います。だからこそ、漁師の世界に入る前に、漁師以外の世界も知り、理解しておくことが大切です。そうすれば、単に魚を穫って生活を成り立たせるというだけでなく、漁業と地域、漁業と流通、漁業と日本の将来などを考えられるようになります。

 

Q:大学で教養を学び、社会に出ることに、人間としてどんな意味があるのか?

上田:なかなか答えるのが難しい質問ですね。でも、なんやかんや言っても、社会にはプラグマティックに出て行かないといけないわけです。それまでに、自分にとってのツボというか、自分はどういうときに輝いて幸せだと思えるかを考えておかないと、バネのないまま、他者による評価の枠組みの中に入っていくことになって、それではただの労働ロボットになってしまう。

池上客観的になれるかどうか視野が広げられるかどうか枠の外側から眺められるかどうか。そういう力をつけることが、大学で教養を学ぶということではないかと思います。

 

Q:東工大の先生方の『教養』はどの程度ですか?

池上:いい質問ですねえ(場内爆笑)。桑子先生か上田先生か、どちらか……お互いに譲り合っていますね(笑)。率直に、リベラルにお答えください(笑)。

桑子:たとえば昨年のように大震災が発生し、道路が寸断されたり橋が落ちたりします。でも、そのあとでどうするか、というときの思考体系が、工学部と文学部哲学科では全く違います。工学部は、どうやって迅速にそれを復旧させるかを考えます。そういう使命を持っているんですね。しかし、哲学科は、そもそもなぜインフラが破壊されたか、どういう考え方でそれらを復旧させるかを、長々と議論します。だからこそ、工学部の先生方のやり方に触れられたのはよかった。いま私はほかの先生方と『医に展開する工学と生命倫理』という講義を行っていますが、科学者や工学者が倫理を学ぶ必要があるという視点で生まれたものです。これも工学部の先生方と議論ができたから成り立ったものです。

池上:答えるのが難しい質問には、長々と過去の経緯を説明することで、直接的な答えを避けるという手法がありますが、いやいや桑子先生、お見事です(笑)。

 

Q:閉塞した日本において、自由への障害となっているものは何?

上田:私は、同調圧力の強さが、日本人をがんじがらめにしているとずっと主張し続けてきました。同じでなきゃいけない、違ってはいけない。職場も学校も地域社会もそうです。だからちょっと違ったことをするとすぐにいじめが起きる、とても苦しい社会になってしまった。しかし、そういう社会の中でも、自由に輝いている人もいます。リベラルに光っている人がいる。…全体に閉塞感があると嘆く前に、まずは面白いことをしてみようと動けばいいのではないでしょうか。あ、最初に学長が言った、大勢の羊の中にいる山羊の役割ですね。東工大にこのリベラルアーツセンターができたのも、小さな組織ではあるけど、リベラルな魂を持った人たちが面白いことをやってくれという、時代の要請であるように思います。

 

上田:本日はありがとうございました。インターネットの向こうで、2万2000人の人が見てくれました[ニコニコ動画]。このホールにいる私たちは二百数十人ですが、私たちの向こうには2万人の人たちが見つめている。その感覚は、まさに現代の「教養」に求められている感覚であると思います。大学という限定された場の中で行われていることが、その場を超えて、はるか向こう側での大きな動きとも連動している。

 

日経ビジネスオンラインの読者へ一言>

桑子敏雄教授より既存の枠組みやフレームワークをずらすことができるかどうか、既存のシステムを変えることができるかどうか、は、そのひとの教養にかかっています。アメリカでは、既存のシステムを組み替える発想のトレーニングを大学の教養課程、リベラルアーツの過程で教えています。このため、社会に出たあとも、大卒のエリートたちはシステムやフレームワークを変えることができる。…日本も教養をベースとした、フレームワークやシステムの組み替え作業をチームで行うような訓練を大学の教養課程で実践していくべきでしょう。

上田紀行教授より… いまの30代40代の方々は、「教養」に触れる機会が少なかったかもしれないですね。日本の大学教育が最も教養から離れた80年代後半から90年代にかけて、学生生活をおくっていますし社会に出てからは、専門性がすぐに求められ、仕事のパフォーマンスを要求されるカギカッコつきの「実力主義」にさらされました。ただ、これから人生を折り返す年齢にさしかかって、手持ちの教養のストックがないまま、まだまだ長い人生の後半を、仕事で、プライベートでサバイバルすることは、けっこう厳しいのではないでしょうか?ところが、そこであせって飛びつくのが残念ながらすぐに答えが見つかりそうなビジネス書や実用書、というケースが多いんですね。短期的なパフォーマンスを出すには適切な場合もありますが、教養なき実用情報をいくらあさっても、5年先10年先20年先、といった長いタイムスパンでものを考えることはできません。

池上彰教授より社会に出て、いかに自分が学んでいなかったか、はじめて気がつくそれが「教養」の問題です。大学でそれなりに勉強しているつもりでも、です。特に海外で向こうの人々とお付き合いするようになり、たとえばパーティなどで接待をしないといけなくなったとき、いかに自分に話題がないか、いかに自分に教養がないか、愕然とするんですね。…桑子先生、上田先生がおっしゃるように、時代に求められているのは型破りの発想。なのに日本人の多くは、鋳型にはめられて大学を過ごし、会社でさらに鋳型にはめられる。これでは、型破りは不可能です。型を破る、枠を超える。そのためにも社会人こそ教養が必要です