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「心」は、物理的な存在か? (3) - 機能主義(シリコンチップの脳は、心を持ち得るか?)

金杉武司『心の哲学入門』(3)

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今回は「機能主義」の話であるが、私の関心は、神経細胞を人工物(例えばシリコンチップ)で置き換えた場合、「心」を持てるかというところにある。なぜシリコンチップ脳が興味深いのか。それは人間以外の生命(動物に限らない)が「心」を持てるのかという問いにつながる。銀河太陽系の1惑星である地球という環境に制約された生命体である人間が宇宙で唯一無二の生命体であるはずもなく、ならば条件の異なる環境下での生命体はどのような「心」を持ちうるのかという問いは、宇宙の・生命のリアリティを解明したいと欲求する者にとっては刺激的な問いなのである。但しその際、カルト・新興宗教・神秘思想の狂気に陥らないよう「リベラル・アーツ」を身につけていなければならない。そこでシリコンチップ脳は、格好の思考実験となり得るのではないかと思うのである。

さて、心脳同一説は、次の図によって示された。『心の哲学入門』(2)参照。

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心脳同一説によれば、各タイプの心の状態は特定のタイプの脳状態と同じである。そこで例えば、痛みの感覚は、C繊維という神経細胞が興奮しているというタイプの脳状態と同一だとしよう。ここである人のC繊維を脳から取り除き、その代わりにC繊維とまったく同じように刺激を伝達するシリコンチップでできた人工繊維を移植する手術が行われたとする。人工繊維はC繊維と同じように刺激を伝達するので、…一見する限り、その人は痛みの感覚を持っているように思われる。

しかし、心脳同一説によれば、その人は痛みの感覚を持っているとは言えない。なぜなら、脳状態のタイプはその脳がどのような素材でできているかによっても区別されるので、人工繊維の興奮は、痛みの感覚と同一視されるC繊維の興奮とは別のタイプの脳状態であることになるからである。

前回の心脳同一説の説明では、「脳状態のタイプはその脳がどのような素材でできているかによっても区別される」とは書いてなかったと思うのだが、暗黙の前提だったのかな。そうだとすると、

同じように、その人の脳の神経細胞をすべて、同じ働きをするシリコンチップに置き換えていったとしよう。心脳同一説において各タイプの心の状態と同一視される各タイプの脳状態がすべて細胞でできた脳の状態だとしたら、その人は心の状態を一切持ち得ないことになる。それは、人工素材でできた脳の状態はすべて、細胞でできた脳の状態と、脳状態として同じタイプのものではないからである。

 カレーを食べたいという欲求=細胞でできた脳状態 β が心脳同一説なら、当然カレーを食べたいという欲求=シリコンチップでできた脳状態 β ではないから、カレーを食べたいという欲求(心の状態)を持ち得ない。他の心の状態についても同様である。

しかし、シリコンチップは、通常の神経細胞と同じように刺激を伝達する。それゆえ、人工の脳を持つ人も、さまざまな物理的刺激に対して、普通の人と同じように適切に行動することができる。つまり、一見する限り、普通の人と同じようにさまざまな心の状態を持っているように思われる。それにもかかわらず、脳が人工素材でできているというだけの理由で、その人は心の状態を一切持っていないと考えるのは不適切ではないだろうか。たとえ人工素材でできているとしても、適切な働きをするさまざまな脳状態が成立しているのならば、さまざまな心の状態が成立していると考えるべきではないだろうか。

「シリコンチップは、通常の神経細胞と同じように刺激を伝達する」と仮定するなら、確かにこのように言えるように思われる。そこで、このような心脳同一説の問題点から、つぎのような考え方が浮かび上がってくるという。

各タイプの心の状態にとって本質的なのは、それがどのような因果的役割を果たすか、つまりそれがどのような原因によって引き起こされ、どのような結果を引き起こすかである、という考え方である。因果的役割はしばしば「機能」と言い換えられる。それゆえ、このような考え方は「機能主義」と呼ばれる。

【機能主義:各タイプの心の状態は、特定の機能で定義される状態である】

 ここでアンダーラインを引いたところを読み返そう。「それ」というのは、「各タイプの心の状態」だから、「各タイプの心の状態が、どのような原因によって引き起こされ、どのような結果を引き起こすかが、各タイプの心の状態にとって本質的である」と考えるのが「機能主義」の考え方である。「状態」とか、「因果」という概念もよく考えなければならないのだろうが、それは保留しよう。

機能主義によれば、例えば、カレーの香りの知覚[心の状態]とは、カレーから嗅覚神経への物理的刺激によって引き起こされ[原因]、カレーを好ましく思う感情と、何かを食べたいという欲求とともに、カレーを食べたいという欲求を引き起こす[結果]、というような機能で定義される機能的状態[特定の機能で定義される状態]なのである。

次の説明が、「機能主義」のポイントである。

機能的状態は一般に、さまざまなタイプの物理的状態によって実現可能である。例えば、心臓の状態は、体内に血液を循環させるという機能で定義される機能的状態として理解できるが、それはどのような素材でできていても、その機能を果たすものであれば実現可能である。このように、同一の機能的状態がさまざまなタイプの物理的状態によって実現可能であることを「多型実現可能性」もしくは「多重実現可能性」とよぶ。

特定の機能的状態として定義される各タイプの心の状態も多型実現可能である。たとえ人工素材でできた脳の状態であっても、それが適切な機能を果たす脳状態であれば、その機能で定義される心の状態を実現していると言えるのである。従って、機能主義によれば、シリコンチップでできた脳を持つロボットであっても、その脳状態が適切な機能を果たしさえすれば心を持っていることになる。ある脳が心を実現しているかどうかにとって本質的なのは、その脳が、それぞれの心の状態を定義する機能を果たすような状態にあるかどうかであって、それがどのような素材でできているかではないのである。

 赤字にした部分に注目しよう。「人工素材」を「シリコンチップ」に、「機能」を原因・結果という言葉で置き換えると、「たとえシリコンチップでできた脳の状態であっても、それが特定の原因によって引き起こされ、特定の結果を引き起こす脳状態であれば、その機能(原因・結果)で定義される心の状態を実現していると言える」(A)となる。

冒頭の例でいうとどうなるか。まず次のような既述の因果関係を頭においておく。

<物理的刺激(原因)→(結果)カレーの香りの知覚(原因)→(結果)カレーを食べたいという欲求(原因)→(結果)身体運動>

 

この例で言えば、(A)は「たとえシリコンチップでできた脳の状態であっても、カレーの香りの知覚[心の状態]が、特定の原因(カレーからシリコン素材の嗅覚神経への物理的刺激)によって引き起こされ、カレーを食べたいという欲求(結果)[心の状態]を引き起こす脳状態であればカレーの香りの知覚という心の状態を実現していると言える」(B)となるだろう。

何かおかしな感じがしないだろうか。

この文章には、2つの前提がある。(前提1)心の状態(カレーの香りの知覚)が、物理的存在(カレー)から物理的存在(シリコンチップの脳)への物理的刺激によって引き起こされる。(前提2)心の状態(カレーの香りの知覚)が心の状態(カレーを食べたいという欲求)を引き起こす。この前提が認められれば、シリコンチップの脳の状態が、心の状態を実現しているというのである。前提1は心物因果であり、前提2は心心因果である。これでは二元論に逆戻りではないか。そうではなく物的一元論であろうとするなら、「脳状態の素材を問わない心脳同一説」を採ることになろう。

以上のように、機能主義では、特定のタイプの心の状態と特定のタイプの脳状態の間の同一性は成り立たない。しかし、個々の心の状態はどれも、何らかのタイプの脳状態によって実現されているということはできる。それゆえ、機能主義においても、物理的刺激から身体運動までの因果経路は一つになり、また心物因果は物理的なもの同士の間の因果関係として理解されるので、二元論が直面したような心物因果に関わる問題は生じない。これは、心物因果に基づく心脳同一説の論証が決定的なものではなかったということを物語っている。心脳同一説を選択すれば、心物因果に関わる問題は、解消することができた。これは確かに、心脳同一説を支持する強い理由になるだろう。しかし、心物因果に関わる問題を解消するために、とりわけ心脳同一説を選択する必要はなかったのである。

金杉はこのように述べている。しかし私には、誤読かもしれないが、機能主義とは「脳状態の素材を問わない心脳同一説」であるように思われる。そうだとすると、心脳同一説に関して前回あげた疑問はそのまま残る。

これこれこういうシリコンチップの状態が、「あなたが愛したのは、わたしの幻、心の寂しさを、埋めたそれだけ」というおんな心を示していると実証されるならば、機能主義は信じるに値するかもしれないのだが…。

心は物理的な存在かという問いに対する当面の結論:私にはよくわからない。