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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

市民社会と公共性 (3) 合意形成の空間

齊藤純一『公共性』(4)

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http://bi.gazeta.pl/im/3/8619/z8619543Q,Jurgen-Habermas.jpg

 

ハーバーマスは、公共圏のあるべき姿を、合意を形成していくための討議(ディスクルス)の空間としてとらえている。討議は、「よりよい論拠(理由づけ)」の持つ力以外のあらゆる権力の作用が無効にされているコミュニケーションの反省形態である。…討議に参加する者は、より合理的と思われる論拠のみを受け入れ、それを自らの意思形成の動機づけとするのでなければならない。参加者がそうした「合理的動機づけ」を持つかぎり、不合理な論拠はしだいに退けられ、やがては参加者の間に一定の合意が形成されていくはずである。道徳規範の妥当性や政治権力の正統性はそうした合意によって根拠づけられねばならない、というのである。

「討議(ディスクルス)の空間」というと難しそうに聞こえるが、「議論する」「話し合う」と理解しておけばよい。話し合って、合理的な論拠を受け入れることによって、合意を形成しようというのである。しかし、議論/話し合いによって、「不合理な論拠はしだいに退けられ、やがては参加者の間に一定の合意が形成されていく」のは、「やさしい問題」の場合であろう。「むずかしい問題」の場合は、決して合意が形成されるとは期待できない。相手の主張が理解できず、議論が成り立たない。論理よりも感情が先立つ。社会的立場から正論を主張できない。それよりも、そもそもそのような場をつくることができない等々。とはいえ、曲がりなりにも話し合いが可能であるならば、「より合理的と思われる論拠のみを受け入れ、それを自らの意思形成の動機づけとする」態度が肝要である。

齊藤は、ハーバーマスの討議概念を正当に評価するためには、合意形成の裏面、即ち、既存の合意の批判的解体という側面にも眼を向ける必要があるという。

討議においては、これまで通用してきた規範の自明性は括弧に入れられ、それが承認に値する妥当性を持つかどうかあらためて主題化される。それは、現状の規範が批判的に吟味され、「予め用意された同意」が解体されるチャンスにも開かれている。討議はその限り、既存の権力関係を反省するという「共同の学習過程」としての側面を持つ。この学習過程は、参加者のパースペクティヴから見れば、自らがこれまで抱いてきた道徳的確信、政治的判断、価値基準が他者の批判にさらされる過程である。自ら自身に対する批判的距離の獲得は、モノローグのうちで独力でなされうるものではなく、他者との現実のダイアローグを必要とする。

 「既存の合意」あるいは「これまで通用してきた規範」は、どういう時に問題となるか。一つは状況の変化。これは分かりやすい。状況が変化すれば、当然見直しが要請される。しかし、状況の変化を理解せず、既存の合意・規範(法律・規則)を遵守さえすれば良いとするようでは、法律・規則の制定趣旨を理解していないと言わなければならない。もう一つは議論の過程で、前提が問題であるとわかったとき。こちらのほうは、話し合いが難航するのではないか。それは「道徳的確信、政治的判断、価値基準」に関わってくるだろうから、合意を得るのが難しい。前提を問題にすること自体に合意が得られるかどうかも疑わしい。「時間切れ」で、話し合いが打ち切られることが多いであろう。それでも、法律・規則の制定趣旨に遡及し、問題提起することは、議論の参加者に何らかのインパクトを与えるだろう。

ハーバーマスの議論を詰めていけば、批判・反省の過程と合意形成の過程とが並行するという保証は失われるだろう。既存の「合意」の批判的解体が新たな合意の形成としては進行せず「よりよい論拠」かどうかを判断する尺度、すなわち何をもって合理的とするかの規準そのものが問題化されるだろう。討議は、透明な合意に収斂する代わりにアポリア(行き詰まり)を産出するはずである。そうしたアポリアは、当面の集合的な意思決定が避けられないコンテクストにおいては、暫定的な妥協の形成によって乗り越えられるほかないだろう(「妥協」といっても、力の均衡を図る戦略的交渉の産物ではなく、「合理性」をめぐる価値解釈の複数性を一義的なものに強引に解消することを避け、議論が未完のものであることを了解しあうという意味でのそれである。討議にとって、合意を産出すること以上に重要なのは議論の継続(再審の可能性)を保証する手続きを維持することである。

「よりよい論拠かどうかを判断する尺度、即ち何をもって合理的とするかの規準」に合意が得られない場合には、話し合いは行き詰まる。でも、どうしても決めなければならないときは、強制か妥協しかない。齊藤は「妥協」について、非常に大事なことを述べている。妥協とは、議論が未完のものであることを了解しあうこと、再審の可能性(後日また議論すること)を認めることである。さもなければ、力による強制と言わざるを得ない。…この再審の可能性(後日また議論すること)を担保するものに、法律における「見直し条項」があると言えよう。

見直し条項…法律には、その附則において、「見直し条項」とか、「検討条項」というように呼ばれる条項が置かれることがあります。これは「政府は、~について検討を加え、その結果に基づいて所要の措置を講ずるものとする」といった形で規定され、その法律の制定時に積み残した課題やあるいは将来の状況の変化に対し、立法措置も含め適切な対応をとることを確保するために設けられる規定です。(http://houseikyoku.sangiin.go.jp/column/column014.htm

「正常化」について

討議は、それに参加する者を「正常化する」効果を持つという批判は正しい。そこでは「より良い論拠」が何を意味するかについての支配的な想定をすでに自らのものとしている言説がヘゲモニーを持ち、それとは異質な「合理性」を持つ言説は、その場にとどまる限り、合理性についての「正常な」想定を受け入れることを求められるからである。皮肉なことに、現状の規範の妥当性を批判的に吟味すべき「学習過程」は、自らを「正常化する」という意味での「学習過程」にもなる。

合理的な論拠の確認による正常化には、改革の場合と現状維持の場合がある、ということか。

齊藤は、ハーバーマスの描くコミュニケーションは差異(化)を抑圧するという批判(リオタールなど)の詳細には立ち入らない。一方が合意の形成を、他方が合意の解体を強調するかぎり、両者の議論はすれ違わざるを得ないとして、

こうした議論のすれ違いを避けるためには、コミュニケーションには単数のモードしかないわけではなく、コンテクストに応じた複数のモード(討議、レトリック、物語り、挨拶等々)があるという認識が必要である。ハーバーマスがそこに焦点をあてるように、暫定的な合意の形成、可謬的な意志決定が避けられないコンテクストは確かにある。そこでは、目下の主題についてより妥当な論拠を識別するための規範的・批判的規準は確かに不可欠である。問題は、ハーバーマスがそうした政治的な意思決定を巡るコミュニケーションにおいても、意見の複数性を乗り越えられるべき与件とみなしていることにある。討議は合意が形成される過程であると同時に不合意が新たに創出されていく過程でもある。合意を形成していくことと不合意が新たに創出されていく過程でもある。合意を形成していくことと不合意の在り処を顕在化していくことは矛盾しない。討議が開かれたものであることの意義は、不合意に公共的な光があてられることにある。意思決定の「可謬性」を重視するということは、意思形成過程そのものにおける不合意に意図的にアテンションを向けるということでもあり、形成された合意に対する外部からの批判を待つということだけに尽きるわけではない。

コンテクストに応じた複数のモードのうちレトリックとは、「比喩的な表現」といった程度の意味か。モードとしての「物語」「挨拶」は、おもしろい観点だ。現在では「メール」というツールが重要だ。言語以外のコミュニケーションについても(例えば一緒に食事するとか)考えなければならない。しかし、ここでは深入りしないでおこう。

「討議は合意が形成される過程であると同時に、不合意が新たに創出されていく過程でもある」という点については、議論をしたことのある人なら了解されるだろう。

討議が開かれたものであることの意義は、不合意に公共的な光があてられることにある。…これは非常に大切な点だ。形成された合意(結論)だけに注目していてはならない。不合意には不満が潜んでいる。その合意が、合理的な論拠によるものではなく、多数決によるものであればなおさらだ。…討議が「開かれたもの」になることを考えなければならない。やむを得ず、公開にならなければ、少数意見の公表が考慮されねばならないだろう。