気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

感覚の社会学

北川東子ジンメル-生の形式』(9)

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社会学的なまなざし

北川は、ジンメル社会学の構想について、次のように書いている。

時代の「新しい感じ方と新しい願望」が、理論的な認識のありかたを決定的にする、というジンメルの主張は、制度化され自己目的化してしまった大学学問にたいする激しい批判を含んでいる。…認識は、たとえ学問という自己賛美的な形式を持った認識であっても、実践の関心にたいする関係をまったく断ってしまっているわけではない。…時には、まったく新しい思想的な方向が出てくることがあり、それが抽象的な性格のものであったとしても、知的な問題提起と形式のなかに、新しい感じ方や新しい願望から生まれた関心が含みこまれていることがある。

「制度化され自己目的化してしまった大学学問」、「自己賛美的な形式を持った認識」…この言い回しは覚えておきたい。

個人としての人間が「大衆」のひとりとなるとき、心理的に何が起き、個人はどのように変容してしまうのか。

ジンメル社会学は、個人として統一したように思われる人間存在が、錯綜し相矛盾する複数の社会的な次元に分裂していく、その現場を捉えようとするダイナミックな思想的冒険だった。

すべては社会学的なまなざしにかかっている。…社会学的な事実は自明な客観的な現象として私たちの目の前に転がっているのではなく、「社会学的なまなざし」によってはじめて見つけることができる事実である

 「社会学的なまなざし」とはどういう眼差しなのかよくわからない。…何も考えずに、ただ「現実」を受け入れているだけの人などいないと思う。いろいろと不平・不満を言うだろう。「ちょっとおかしいのではないか」という問題意識を持つことができれば、そこを起点に考え始めることができる。私は誰でもこの世に生きている限り、そのような問題意識を持っていると思う。でも(私を含めて)大方の人はそこからどう考えていけばよいのかわからない。自分の身の回りのこと(専門分野のこと)であれば、ある程度のことは言える。しかし、ほとんどあらゆる社会問題は単純ではない。要因は複雑に絡み合っている。価値観にかかわってくる。合意が得られない。どうすれば良いのか。社会科学者は何らかの指針を出しているのだろうか。閉鎖的で、自己賛美的な形式を持った認識にとどまってはいまいか。

 

カント研究と「近代」の相対化

歴史は、事実として再構成されるのではなく、理解される。人間は、他者との共同性において事実を理解するのであり、歴史認識も、歴史的共同性に支えられた「歴史的理解」を前提にしている。「認識の対象となる人間は、自然と歴史によってつくられている。しかし、自然と歴史をつくるのは認識を行う人間である」。

人間は自然と歴史によってつくられている。人間は自然と歴史をつくる。…当然と言えば当然なようだが、「つくられている」に重点をおいて話をする人がいるだろうし、「つくる」に重点をおいて話をする人もいるだろう。

ジンメルは、カントの形式主義と理性主義的な認識論との徹底的な吟味を行うことで、「形式」についての新しい考え方を得ている。現象の規則性を担う「形式」が、普遍法則に要求される無時間的な形式ではなく、「生の形式」という時代と状況に制約された形式であることが、知性偏重という近代全般を覆う現象に対する危機意識を伴って、はっきりと認識されたのである。 

 カントの認識論がどのようなものか私は知らないが、知性偏重はダメですよ、というのであれば、それはそうでしょう。…私は、「普遍と特殊」については、大きなテーマであると感じている。

「カント哲学」という、まさしく近代の本体そのもののような媒体を通してジンメルに見えてきたのは、それまで芸術論や社会論というかたちで問題にしていたさまざまな現象の「合理主義的構造」である。シンメトリーの美的価値や軍隊そして近代都市の構造は、「近代の合理主義の現れ」以外のなにものでもない。

しかし他方でまた、近代は「よそ者」や「非シンメトリー的な」芸術など、偶然的で特殊な存在に、つまり自己の合理主義的な抑圧構造からはみだしてしまうものにも依存している。

 ジンメルが軍隊や近代都市の構造をどのように分析しているのかわからないので、「合理主義的な(抑圧)構造」という言い方が妥当かどうかはわからない。

社会学』は、いかにもジンメル的な書物である。彼が「私の本性は、構築的というよりは、小道を見つける方なのです」と言うように、近現代のさまざまな社会現象を網羅的に収集して、アトランダムとも思える形でおびただしい項目に分類している。…すでに同時代の評者たちが「非体系性への傾斜」(デュルケーム)と批判し、「暗示と、陰翳と薄暗闇そしていわば魔術的な照明効果」(テニエス[テンニース])と表現した博物学的な印象が強まっていく。ジンメルの『社会学』は、社会学における博物誌なのである。分析と記述の方法は、理論的な心理小説とでも特徴づけることができる。主人公は、商品経済と機能分化に規定された現代的な社会に生きる都会人。このタイプの人間が、さまざまな人間関係と社会状況にあって、他者と関わりつつ、駆け引きや感情的な交わりのなかで自己確認していく。あるいは、社会的な権力の虜となり、また僕(しもべ)となって、自己を失っていくさまざまな外的軋轢のなかで、正常なバランス感覚を失い、自己閉鎖的な生活へと逃避してしまう…、といったように、『社会学』は、現代の人間観察の宝庫である。

「非体系性への傾斜」とか「暗示と、陰翳と薄暗闇そしていわば魔術的な照明効果」とか「社会学における博物誌」という評価は面白い。こういう評価があると、読んでみようかという気分にもなる。いいキャッチ・コピーだ。

わたしにとって『社会学』において魅力的な部分とは、なんといっても、あの「都市の哲学」にも通じる部分、つまり、社会的な空間における身体と感覚の問題を論じた部分である。人が相手を見て、社会階層を感じる大衆のたまらない臭いを避けるひそやかな「まなざし」で関係がささえられる。大衆社会において、視覚や嗅覚などのさまざまな感覚が果たす役割が演じられている部分であり、「感覚の社会学」と名づけられた補論である。

ジンメルは、人間が他者を感覚的に感じ取る場面を実に綿密に分析している。他者性についてのいっさいの言説が始まる前に、すでに他者は他の事物と同じように、感覚的世界に存在しているからである。他者は見える他者は声を発する。そして、他者はにおう。他者性の問題は、わたしたちの感覚の網の目が捉える「他者」の感覚の問題でもある。他者についての感覚は、たとえそれがいかに快いものであっても、バラの香りや美しい響きのように、「中立的」つまり「わたし」を離れた感覚ではない。他者は、「われわれの内部に、快不快の感情や、自分の優勢や劣勢を、興奮や冷静さの感情」を引き起こすのだ。他者についての感覚は、常に自己を巻き込んだ「評価」の側面をもっている。…「他者」は、わたしの感覚に迫ってくることで、「気分や感情というかたちで、わたしの内に引き込まれるのだが、それと同時に、わたしを相手の認識という客観へと連れ出していくのである」。

他者を見る。他者の声を聴く。これについてはこれまで多くのことが語られてきた(たぶん)。私はこの引用のなかで、「他者はにおう」という言葉にひっかかった。「におう」は、「匂う」(良いにおい)であり「臭う」(悪いにおい)である。男性のにおい、女性のにおい、赤ちゃんのにおい、子どものにおい、大人のにおい、老人のにおい、そして死人のにおい。自然のにおい、人工のにおい。私たちは「におい」とともに生きている。生物学の対象であるとともに、社会学の対象でもあるだろう。

社会とは、わたしたちにとっては、ゆたかな感覚の場でもあり、あらゆる社会関係が、制度や機能だけでなく、感情や感覚のネットワークを基盤として成立しているのだ。…他者についてのいっさいの言説が始まる前に、すでに他者は見える、聞こえる、そしにおう。いっさいの利害関係や、いっさいの社会関係が入ってくる以前に。わたしはもう他者を見て、嗅いで、聞いて、他者の存在を感得している。

あらゆる社会(人間)関係は、感覚的相互関係と認知的相互関係とのふたつの側面を持っている。ジンメルは、感覚と認識との絡み合いのなかで、他者との相互関係がどのように形成されていくかを分析するために、人間が相手を感覚で感じとる場面を実に綿密に分析する。…氾濫する都会の光景が、視線(互いに見つめ合う視線)をゆがめ、視線を回避し、視線をたわめてしまう。そして、あるとき人間は視線を失ってしまう。他者は見えなくなり、そして他者の視線の中で存在していたわたしもいなくなる。…ジンメルは視覚以外にも、聴覚や嗅覚が、視覚とは異なった仕方で、どのようにして相互性を形成してくるかも問題にしている。わたしたちが生活している社会とは、さまざまな感覚が働き、それらの異なる感覚のバランスによって支えられた相互世界なのだ。

 「あらゆる社会関係が、制度や機能だけでなく、感情や感覚のネットワークを基盤として成立している」…これは、きちんと押さえておかなければならないだろう。