気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

クオリア(1)

金杉武司『心の哲学入門』(4)

「心は非物理的な存在であり、世界はこの非物理的な存在と物理的な存在の二種類の存在によって構成されている」というのが二元論である。世界が二種類の存在によって構成されているかどうか知らないが、普通の人は、「心は、非物理的な存在である」と考えていると思う。目に見えずつかみどころのない心がモノであるはずがない。いろんな感情や考え、それがモノであるはずがない。ところが、普通でない考え方をする(!?)哲学者たちは、「心は、モノである。世界にはモノしかない。」という(物的一元論)。これが前回までにみた「心脳同一説」や「機能主義」である。

  心脳同一説:各タイプの心の状態は、特定のタイプの脳状態と同一である。

  機能主義:各タイプの心の状態は、特定の機能で定義される状態である。

 

この物的一元論に対しては、当然批判がある。その批判に「クオリア」という概念が使われる。

クオリア」とは何か。本書は哲学入門者向けに書かれているのだが、wikipediaのほうがより分かりやすい説明のように思われるので、そちらを引用しておこう。

簡単に言えば、クオリアqualiaとは「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、主観的に体験される様々な質のことである。(Wikipedia)

簡潔にして、分かりやすい。感覚質ともいわれる。

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さまざまなクオリアの例があげられている。

人間の体験するクオリアは実に多彩であり、それぞれが独特の感じをもつ。たとえば視覚、聴覚、嗅覚からはそれぞれ全く違ったクオリアが得られる

視覚体験…視覚体験には様々なクオリアがともなう。その単純さから最も頻繁に議論の対象にされるのがであり、これには例えば、リンゴの赤い感じ、空の青々とした感じ、などがある。他にも形、大きさ、明るさ、暗さ、さらには奥行きがある。

聴覚体験…聴覚からもたらされるクオリアも非常に豊かである。笛から発せられた空気振動がもたらすピーッというあの感じ、また特定の高さの音を同時に聞いたとき、つまりマイナーコードやメジャーコードといった和音を聞いたときに受けるあの感じ、そしてそれらの音が時間的につらなったときに受けるあの感じ、つまり音楽を聞いたときにうける独特の感覚などである。

触覚体験…触覚からもたらされるクオリアとしては、シルクの布を撫でた時に感じられるツルツルした感触、無精ひげの生えたあごを撫でた時に感じられるザラザラした感触、水を触ったときの感じ、他人の唇に触れたときの柔らかい感じなどがある。

嗅覚体験…嗅覚から得られるクオリアは、もっとも言葉で表現しにくい感覚のひとつである。朝、台所から流れてくる味噌汁の香り、病院に漂う消毒液の匂い、公衆便所の芳香剤の臭いなど。

味覚体験…味覚は甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の五つの基本味から構成されていると考えられており、これらの組み合わせによって数々の食料・飲料品の味が構成されている。

痛覚…痛みの感覚は哲学者たちにとって、主観的な感覚について議論するための代表的な素材の一つとなっている。火傷した皮膚のチリチリした痛みや、虫歯がもたらすズキズキとした感覚。(Wikipedia)

金杉も色々な例をあげて、「あの独特の感じ(色、形、甘味、香り、痛み等々)が意識に現れてくる」という言い方をしている。

われわれが何かを知覚したり感覚したりするとき、それらの知覚や感覚に特有の質的特徴がわれわれの意識に現れてくる。意識に現れるこれらの質的特徴は、しばしば「クオリア」と呼ばれる。

心の状態に特有のクオリアが意識に現れるという意味での意識を、「現象的意識」と呼ぶ。また、「現象的意識」という意味で意識的な心の状態のことを「現象的状態」と呼ぶ。

 「あの空の色や西瓜の甘味や歯の痛みなどの感じが意識に現れてくる」というときの意識を、「現象的意識」と呼ぶ。金杉は、この「現象的意識」が物的一元論にとって問題になるという。そこで、物的一元論にとっての意識の問題を「クオリア問題」と呼ぶ。

次回は、「クオリアの逆転」や「クオリアの欠如」の状況を想定することによって、物的一元論が批判される。