浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

複数性と公共性(1) 現れの空間

齊藤純一『公共性』(5)

 

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齊藤は、本書第2章 複数性と公共性、第1節 現れの空間 において、ハンナ・アーレント(1906-75)の公共性の概念を検討している。アーレントの公共性概念には2つあって、1つは「現れの空間」であり、もう1つは「共通世界」(次回取り上げる)であるという。(私はアーレントの『人間の条件』を読んでいないので、私のアーレント理解は、ここで斉藤が記述する限りのものである。)

「現れの空間」とは、奇妙な言葉である。本当に、こんな言葉を使わなければならないのだろうか。齊藤の説明を聞こう。

私は、男性であり、中年であり、父親であり、公務員である。私は、このような「属性」あるいは「社会的地位」によって、描かれる。

「Aさんは、○○県庁の都市計画部に勤めています」、「Bさんは、△△建設会社の営業部長です」…こういう言い方をする。A都市計画部長とB営業部長が、レストランで会食をしていたとする。

アーレントによれば、「現れの空間」(the space of appearance)とは、人びとが行為と言論によって互いに関係しあうところに創出される空間、「私が他者に対して現れ、他者が私に対して現れる空間」である。「現れの空間は人びとが共に集うところには、どこであれ潜在的には存在する。しかし、それはあくまで潜在的にであって、必然的にでもなければ永遠にでもない」。…「すべての人びとは行為することができ、言葉を話すことができる。にもかかわらず、ほとんどの人は現れの空間の中に生きていない」。

アーレントによれば、AさんとBさんが会食をしているレストランは「現れの空間」だろうか。そこは公共的な場なのだろうか。AさんとBさんは、顔をつきあわせ、食事をし、話し合っている。しかし、アーレントによれば、彼らは「現れの空間」に生きていない。なぜか? AさんもBさんも「部長」という「社会的地位」あるいは「属性」を持っている。都市計画部長や営業部長はなにもAさんやBさんでなくても良い。代わりはいくらでもいる。交換可能である。入れ替え可能である。

ある人は「」(what)という位相に関する限り、他の人々と交換可能である。「ほとんどの人びとが現れの空間のなかに生きていない」のは、私たちがほとんどの場合、互いを「何」として処遇するような空間のなかに生きているからである。

 ここで「何」というのは、男性であり、中年であり、父親であり、公務員である、といった仕方で描かれる、ある人の「アイデンティティ」である。こうした社会的地位は、他の人々と交換可能である。このような社会的地位でもって行為し話し合ったとしても、「現れの空間のなかに生きていない」。では、そのような空間を何と呼べばよいのか。

そうした空間を「現れの空間」と対比して「表象の空間」(the space of representation)と呼ぶ。「表象」とは、他者の行為や言論を「何」という位相、すなわち他の人々と共約可能な位相、入れ替え可能な位相に還元する眼差しのことである。表象の眼差しで見られる限り、私は、他者の前に「現れる」ことはできない。表象が支配的であるその程度に応じて「現れ」の可能性は封じられるのである。…表象をもって他者を眼差すこと、あるいは表象をもって他者に眼差されることは、私たちにとってもごく日常の経験である。…私たちは、私たちが出会う他者をつねに何らかの仕方で表象しており、この「表象の空間」の外に完全に抜け出ることはできない。

「現れの空間」は、「私が他者に対して現れ、他者が私に対して現れる空間」であるとされた。AさんとBさんの会食・話合いは、都市計画部長と営業部長の会食・話合いである。入れ替え可能であるがゆえに、「私が他者に対して現れ、他者が私に対して現れる空間」ではない。ではAさんは都市計画部長以外の何者であるのか。父親でもなく、中年でもなく、男性でもないとしたら何者であるのか。そのような入れ替え可能な社会的地位あるいは属性以外の何者であるのか。玉ねぎの皮をむいていったら何が残るのか。そこに「私」が現れるのか。

アーレントは、公共的空間を「人びとが、自らが「」(who)であるかを、リアルでしかも交換不可能な仕方で示すことのできる唯一の場所」として定義する。あるいは、「人びとは、行為し語ることのうちに、自らが誰であるかを示し、他に比類のないその人のアイデンティティを能動的に顕わにし、人間の世界に現れる

アーレントが描く自己の内部空間は多義的であり、そこには固有の一義的なアイデンティティなるものは存在しない。…誰というアイデンティティは、行為や言葉に対する他者(この一つのもの、交換不可能なもの、一義的なものとして、私を認め、私に語りかける他者)の応答によってはじめて生成するアイデンティティは他者の存在を要求する。

 

「人びとは、行為し語ることのうちに、自らが誰であるかを示す。」と言い、「行為や言葉に対する他者の応答」を必要とするという。一体いかなる行為をし、何を語れば、「自らが誰であるかを示す」ことになるのか。「私が他者に対して現れる」ことになるのか。具体的な説明がないので、よくわからない。都市計画部長や営業部長としての会食・話合いでは、「私が他者に対して現れる」ことはないのは確かなようである。「交換可能な」男性として、中年として、父親として行為し語っても無駄である。「自らが誰であるかを示す」ことはない。

しかし、「交換不可能なアイデンティティ」なるものが果たして存在しうるのか? 交換不可能な行為などありうるのか? 交換不可能な言葉(語り)などありうるのか? 私には、とてもそういうものがありうるとは思われない。その人にしかできない行為というものがあるとしたら、もはやその人は人ではないだろう。化け物である。その人にしかできない語りというものがあるとしたら、他人には理解できない狂人の戯言であろう。…しかも「交換不可能なもの、一義的なものとして、私を認め、私に語りかける他者」の存在を必要とするという。だが、どのような他者が、いかなる仕方で私を認め・語りかけるというのか。他者のなかには、例えば「貧困に苦しんでいる者」「痴呆になっている者」「算数を学んでいる小学生」「民間の研究所で研究に打ち込んでいる研究員」「営業成績を上げるために戦略を練っている人」…は、含まれているのだろうか。いま例示した人はいずれも「交換可能な」人たちである。このような交換可能な他者による応答が必要であるというのか。そうではなく「交換不可能な他者」による応答が必要なのだろうか。

ある他者が私たちの前に「誰」として現れるのは、私たちがその他者に抱いている予期が裏切られ、私たちの「表象の空間」に裂け目が生じるときである。他者に対する完全な予期をあきらめることが、「現れの空間」を生じさせる条件である。予期するということは、予め決定するということである。予め決定してしまわないということが、他者が「誰」かとして現れるための条件、すなわち他者の自由の条件なのである。

何を言っているのか、よくわからない(漠然とした感じはわかるが)。少し飛ばして…

「現れの空間」は、「誰」へのアテンションが、「何」についての表象によって完全には廃棄されていないという条件のもとで生じる。それは、予期せぬことへの期待が存在するという意味で、ある種の劇場的な空間である。そこには、個々のパフォーマンス(言葉や行為)における他者の現れに注目を寄せる「観客たち」(spectators)が居合わせている。

ここでも何を言っているのか、よくわからない。…誰もが知っている平凡な当たり前のことを、いかにも高尚なことを議論しているかのごとき言い回しによって、自己満足/読者の満足を得ようとしているかのような印象を受ける。

アーレントには、「現れの空間」を美的な空間として描く傾向がある。…「誰」の現れを評価するのに相応しい尺度は、善悪や正不正という一般化可能な規準ではありえない。「誰」は「何」とは異なって共約不可能である。…「現れの空間」は私が所有しえないもの、私たちが共有しえないものへの関心によって成立する。共約不可能なもの、一般化不可能なものは、美的な尺度によって評価するほかはない。アーレントの問題は、「他ならぬもの」を「傑出したもの」と同一視しがちだという点である。彼女は、「現れの空間」をしばしば「アゴーン」の空間になぞらえる。「アゴーン」とは古代ギリシア、しかも民主政以前に遡る貴族政の時代に全盛を極めた武芸や文芸を激しく競い合う「技較べ」を意味する。アーレントは「アゴーン」を他者に抜きんでようとする卓越への情熱が充溢する場所として描くのである。卓越としての異なりが強調されるかぎり、この空間は、たしかに「ヒロイックな個人主義」の特徴を色濃く帯びている。しかし、そのように「他ならぬ」を「傑出した」に強固に結び付けて「現れの空間」を描くべき必然性はない。

「私」、「誰として現れるもの」、「共約不可能なもの」、「一般化不可能なもの」は、わかりやすい言葉でいえば、「かけがえのない」と言い換えられるだろう。でもそう言い換えたからといって、「かけがえのなさ」の中身が明らかになったわけではない。「かけがえのなさ」が行為や言葉であらわれてくるといっても、極めて不明瞭である。玉ねぎの皮をむいていったら、なかには何もなかった、ということになりかねない。

ここで、「かけがえのなさ」が、他者に抜きんでようとする卓越への情熱=すぐれた芸術作品の創造であるとしても、それを「公共性」のコンテクストにおいて論ずることの意味が明らかになっているとは思われない。