平野・亀本・服部『法哲学』(1)
私たちは、いろいろなルールの下に生活している、これらのルールは、いついかなる時にも、絶対守らなければならないのだろうか。また、ある事柄に関しては、全くルールがない(自由、野放図)であるが、果たしてこれでよいのだろうか。もし、あるルールを制定する又は改定するとしたら、いかなる手続きをふむべきなのか、等々。私が「法哲学」という分野に興味を持ったのは、このような問題意識からである。
(ここで「ルール」という言葉で何を考えているのかを補足しておきます)
家事の業務分担(ゴミ出しは誰がするかとか)、校則(茶髪は禁止とか)、業務処理マニュアル(商品企画、接客、部品設計、設備保全…無数にある)、条例(地方公共団体が制定)、スポーツの競技規則、サークルの運営要領、職人の「ものづくり」の手順(技能)、条約・国際慣習法(国家間の合意)、国連憲章…。日本の六法(憲法、民法、商法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法)をはじめとした制定法の解釈に精通したところで、上記のルールに関する諸問題にはこたえられないだろう。
服部は、法とは何かをめぐって以下のような争点(論点)があるという。
法と強制はどう関わるのか?
法と道徳は関係があるのか?
法と正義その他の価値はどう関わるのか?
法は事実なのか規範なのか?
法はどうして妥当し我々を拘束するのか?
いずれも興味深い論点である。私は、これらの問いに私なりの答えを出したいと思う。(答えといっても、誰かの意見に賛成というかたちになると思うが)
法は強制秩序なのか
http://www.original-art-studio.com/2010/01/epicurus-on-god-and-evil.html
(ヨーロッパでは)法は、神の意志や人間の理性に基づく自然法によって妥当するものととらえられる時代が中世まで長く続いた。…近代法は、その後の絶対主義王制下で近代国家が形成されるとともに登場した。それは、本来の意味での法とは、人が意志的に定立した法、つまり実定法であるとする新しい見方に基づくものであった。
ここで「自然法」と「実定法」を赤字にしたが、こんな言葉だけを覚えても何の意味もない。アンダーラインを引いた部分が重要である。「神の意志や人間の理性に基づく法」、「人が意志的に定立した法」というフレーズの意味するところをよく考えなければならない。この部分を十分に説明できなければ自然法や実定法を理解したことにはならない。
法はそれを超える自然法や道徳によって妥当するのではなく、それが法として決定されたがゆえに妥当するという捉え方。
それと同時に、自らを超える基礎を失った法は、その妥当性・実効性を維持するために、主権者の権威や物理的強制力との結びつきを強めた。そのため、近世以降、法は強制的な命令であるという理解が広く行き渡ることになった。(第2章 法システム)
私たちが共に生活していく上では、「人を傷つけてはならない」とか、「根拠のないことを言いふらして、他人の名誉を傷つけてはならない」とか、「今日の収穫は少なかったので、みんなで分けあって食べよう」とか、「体の不自由になった老人を介護しよう」とかいったあたりまえのことがある。このあたりまえのことを道徳と呼ぶのだが、では、制定法*1は、これらの「あたりまえのこと=道徳」によって支えられているのだろうか。…近代の制定法は、道徳によって支えられるものではなく、「主権者の権威や物理的強制力」をもって制定されたものであるゆえに、守らなければならないものであり、法とは、「主権者の権威や物理的強制力」を背景とした「強制的な命令」であるという。では、このような見方に問題はないのだろうか。