浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

「見たくない現実を無視する」のは、病気であるか?(2)

ラマチャンドラン,ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(9)

現実の「苦難」を「どうしようもない」と思うとき、それを無視する(すぐに答えを求めない)のは、精神衛生上たいへん良いのではないか、これを「病気」と診断し治療を施そうとすることは、危険な行為ではないか。いやそうではなく、「病気」と診断し、リハビリを行うことが真の解決をもたらすのではないか。…まてよ、この問題提起のしかたはおかしくはないか?

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http://fineartamerica.com/featured/despair-1-caroline-peacock.html

 

前回の疾病失認(病気に気づかないこと)の患者の話を聞いて「本当か?」という疑問が当然出てくる。「患者はどのくらい深く、自分の否認や作話を信じているのか。一種の表面的な見せかけか、仮病だということがありうるだろうか」。そこでラマチャンドランは次のような実験を行った。

大きなカクテル用のトレーに半分水を入れたプラスティックのコップを6個並べて、否認シンドロームの患者の前に置いた。(そのトレーをもってくれと言うと)彼らの右手はまっすぐトレーの右側の伸び、トレーの左側は支えがないままになった。当然のことながら右手がトレーの右側だけを持ちあげると、コップは倒れたが、患者たちはそれをそのときのやりかたが下手だったせいだと思い。トレーの左側を持たなかったからだとは思わない場合が多かった。ある女性などは、トレーを持ちあげ損なったことすら否定した。私がトレーはうまく持ちあがりましたかと聞くと、驚いた様子で「もちろんです」と答えたが、その膝はびしょぬれだった。

また次のような実験も行った。

患者に、テーブルランプの空のソケットに電球をはめれば5ドル(片手でできる作業)、靴のひもを結んだら10ドル(両手を必要とする)払うと告げた。…私たちがテストした否認のある患者4名は、毎回靴のひもを選び、いらいらした様子も見せずに何分間もひもをいじりまわすのだ。10分後に同じ選択をさせても、ためらうことなく両手を使う作業を選ぶ。ある女性はつづけて5回も、この無駄な行動を繰り返した。

例のドッズ夫人は、靴ひもをいつまでも片手でぎこちなくいじりまわしていた。…翌日学生が聞いた。「靴ひもを結べましたか」「ええ。両手でちゃんと結びましたよ」。

これに対して、ラマチャンドランは次のように述べている。

何かがおかしい。普通の人なら「靴のひもを両手で結びました」と言うだろうか? まるでドッズ夫人の内部に、彼女が麻痺していることをよく承知している別の人間――内部の幽霊が――いるような、そして奇妙なセリフは知っていることを隠そうとする行為であるような感じだった。

こうした奇妙な言葉は、フロイトのいう反動形成――自己評価を危うくする何かを隠そうとして、反対の評価をする無意識的な試み――の顕著な例である。

 

ラマチャンドランは、次に、否認の神経学的な説明、半側無視と何らかの関係があるという考え方を検討している。

ラリー・クーパーは、知的な56歳の否認患者で、左手が麻痺していた。…私は10分ほど話をしてから部屋を出て、5分後にまた戻ってきた。「クーパーさん!」私はベッドに近寄りながら叫んだ。「たったいま、左手を動かそうとしていましたね。どうしたんですか?」。手は両方とも私が部屋を出たときと同じ位置でまったく動いていない。…私が聞いたときにクーパー氏が左腕に運動指令を送っていた可能性は皆無なので、この結果は否認が単に感覚・運動系の欠陥からきているだけではないことを示している。それどころか、彼の自分自身についての信念体系全体が深部まで乱れているので、信念を守るためには何でもするというふうに見える。彼は普通のひとのようにとまどうのではなく、うれしそうに私の嘘に同調した。

次の実験は、「否認患者の右腕が、一時的に麻痺したらどうなるか。否認は右腕にも及ぶだろうか。」というものである。半側無視説からすれば、否認は右腕に及ばない。…実験(内容は省略)によれば、否認は右腕にも及んだ。

この実験は、疾病失認の半側無視説を覆すと同時に、このシンドロームの本当の原因を知る手がかりにもなる。疾病失認の患者は、身体イメージに関する感覚入力の矛盾の処理方法が損なわれているのだ。矛盾が左半身で生じるか右半身で生じるかは決定的な問題ではない。

 

では、患者は麻痺だけを否認するのか、それともほかの障害も否認するのか。

私がテストした患者はほぼ全員、自分が卒中を起こしたことを良く承知していたし、「全面否認」と呼べるような状態の人は誰もいなかった。しかし彼らの信念体系(とそれに伴う否認)には、脳の障害部位の位置に応じて段階がある。障害が右頭頂葉に限局していると、作話や否認が身体イメージに関するものに限られる傾向がある。しかし損傷が右半球の前方部に近いところ(腹内側前頭葉と呼ばれる部分)に起こると、否認はより広範囲かつ多様になり、異常に自己防衛的になる。

 

悪性の脳腫瘍と診断され、あと1年も生きられないだろうと言われたビルという患者がラマチャンドランを訪れ、頬にある小さなできもののことばかり訴えた。

ビルは教育のある人だったが…医師から示された結果をすっぱりと否定して、脳に末期癌があるという事実をいとも簡単に軽視しているのだ。彼は漠然とした不安に駆りたてられるのを避けるために、具体的な何かのせいにするという便利な戦略を採用した。そして、できものが最も手近な標的だった。実際、できものに対する彼の妄念は、フロイトなら置き換えと呼びそうなもの――差し迫った死から目をそらそうとするごまかし――だった。妙なことだが、否認するよりごまかすほうが楽な場合もときどきあるのだ。

スポーツをしたり、カルチャーセンターに通ったり、読書をしたり、ショッピングをしたり、勉強したり、仕事をしたり、テレビをみたり、ブログを書いたり……ほとんどすべてのことが「置き換え」(ごまかしの行為)となりうる。でも、何に対するごまかし? …あまり先走りしないでラマチャンドランの話を聞こう。

ビルの否認は、もし悲劇的な状況でなければ、滑稽にみえただろう。しかし、彼の行動は、「自我」あるいは自己を守ろうと最善を尽くしているという点では「理に適っている」。死の宣告に直面した人が否認をしていけないことがあろうか? しかしビルの否認は、たとえ望みのない状況に対する健全な反応だとしても、驚くほど大掛かりなので、別の興味ある疑問が生じてくる。…もしこういう患者に「クリントンの髪の毛は何本ありますか?」と尋ねたら、彼は作話をするだろうか。それとも知らないと認めるだろうか。

ラマチャンドランは、いくつかの実験から、否認患者が単に面目を保とうとしているのではない、としている。以下の文章の「否認」を、「左手や左足の麻痺の否認」ではなく、冒頭の「どうしようもないことの否認」と置き換えて読んでみたい。

否認は心の奥深くに根を下ろしているのだ。これは麻痺に関する情報がどこかに閉じ込められている――抑圧されている――ということなのだろうか?…脳のなかにいる「誰か」は彼女に麻痺があることを知っているが、意識のある心はその情報にアクセスできないという状況が浮かび上がる。もしそうなら、禁断の知識にアクセスする方法がないものだろうか。

否認はあきらかに根が深い。興味深い観察対象であるが、患者の親族にとっては大きないらいらと心配のもとである。患者は当面の麻痺の結果を否認する(カクテル用のトレーが傾くに決まっているとか、自分は靴ひもを結べないといったことが全くわからない)傾向があるが、遠い結果も――翌週や翌月、翌年にどんな状況になるかも――同じように否認するのだろうか? それとも心の奥底では何かがおかしいことを、自分に障害があることを、ぼんやり自覚しているのだろうか。…私はこの疑問を体系的な基盤に基づいて探求したことはないが、何度か機会をみて質問してみたところ、患者は将来の生活に麻痺がどれほど大きく影響するか、まったく気づいていないような反応をした。…自分自身に関する信念全般を変更して、現在の否認に順応させる。幸いこうした妄想は、患者にとってかなりの慰めや救いになることが多い。たとえ彼らの態度がリハビリの目標の一つ――自分の環境に対する認識を回復すること――と正面衝突するとしても。

 

1987年イタリアの神経学者エドワルド・ビシャクは、無視と否認のある患者に独創的な実験を行った。患者の左耳に冷水を注入したら、疾病失認が(一次的ではあるが)なくなったのだ。そこでラマチャンドランは、次に出会った疾病失認の患者(マッケン夫人)に同じ実験をした。

「腕はどうですか? 両腕を使えますか?」「いいえ」と彼女は答えた、「左腕が麻痺しているんです」。彼女が麻痺と言う言葉を使ったのは、3週間前に卒中を起こして以来初めてのことだった。「マッケンさん。麻痺はどれくらい続いているんですか?」「このところずっとです」。

これは驚くべき言葉だ。この2週間ほど会うたびに麻痺を否認していたが、その間に動かそうとしてできなかった記憶が脳のどこかに記録されていて、ただそれにアクセスする道が閉ざされていたことを示しているからだ。冷水が「自白薬」のように作用して、抑圧されていた麻痺に関する記憶を表に出したのだ。

30分後にもう一度彼女の部屋に言ってたずねた。「両腕とも使えますか」「いいえ、左腕が麻痺しています」。彼女はまだ麻痺を認めた

12時間後、学生が会いに行ってたずねたときには、前に麻痺を認めたことを否認していた。まるで「台本」をすっかり書き直したみたいに。それどころかまるで私たちが、たがいの記憶を喪失している別々の意識を持つ人間を二人、つくりだしたような感じさえした。正直に麻痺を認めている「冷水」のマッケン夫人と、否認シンドロームで頑固に麻痺を否定する冷水なしのマッケン夫人だ。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Dissociative_identity_disorder.jpg

私は2人のマッケン夫人を観察しながら、多重人格障害というなにかと議論のある臨床的なシンドロームのことを考えていた。ジキル博士とハイド氏としてあまりにも有名なあのシンドロームだ。…マッケン夫人の様子は、同じ一つの体にありながら、人格が部分的に分離して二つになる場合があることを示している。…ある種の一貫性を生み出す機構が左脳にある。この機構は異常を禁じて統一のとれた信念体系が生じることを可能にしており、おもに自己の統一と安定に携わっている。しかし、もし元の信念体系と両立せず、それ同士は一貫性のある複数の大きな異常に直面したらどうなるか。ひょっとするとそれ同士が石鹸の泡のように溶け合って、元のストーリーの方向と離れた新しい信念体系となり、多重人格をつくりだすのかもしれない。分裂の方が内戦よりましだろう。

 

私は、本章「片手が鳴る音」を、タイトルの<「見たくない現実を無視する」のは、病気であるか?>という視点から読もうとしてきたのだが、どうもうまくいってない。次回、何とかまとめたいと思う。