浮動点から世界を見つめる

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クオリア(2) 想定可能性論法-クオリアの逆転

金杉武司『心の哲学入門』(5)

今回の話は「論理的思考」というものに興味がないと面白くないかもしれない。

物的一元論とは、「世界は物理的な存在のみによって構成されている。世界にはモノしかない。」という考え方。クオリアとは、「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、主観的に体験される様々な感覚質のこと(wikipedia)であった。このクオリアの概念が、なぜ「物的一元論」批判となるのか?

金杉は、クオリアの個人差が見出される状況を想定することによって、物的一元論に疑問を投げかけることができるように思われる、と言っている。

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双子の拓哉と正広がトマトを見ている。この時、2人は全く同じタイプの物理的状態になったと仮定する。それゆえ、2人は共に「このトマトは良く熟れていて赤いね」といった言葉を交わし、同じように振る舞う。しかし、拓哉の意識には赤のクオリアを持つトマトが現れているのに対して、正広の意識には緑のクオリアを持つトマトが現れている

正広に緑のクオリアを持つイチゴが現れているのなら、なぜ「このイチゴは赤い」というのか。嘘でも色覚異常でもないのだとしたら「緑だ」と発言するしかないではないか。という疑問には、次のように答えられるという。

正広は、生まれつきクオリアが逆転していたとするそして正広は、我々ならば「緑」と呼ぶ色を「赤」と呼ぶように教育されたとする。もしこのようなことが想定できるならば、正広が嘘をついているわけではないと想定できる。…正広は、皆があるものを指して「これは赤い」と言うときには同じく「これは赤い」と言い、皆があるものを指して「これは緑だ」と言うときにも同じく「これは緑だ」と言う。ただ、正広の意識に現れる色のクオリアは、皆のそれとは逆転してしまっているのである。同じような状況は、視覚以外の知覚・感覚でも想定可能である。[クオリアの逆転]

次のような状況も想定可能である。

先と同じように、トマトを見たときに、拓哉と正広が同一タイプの物理的状態になったとする。しかし、拓哉の意識には赤のクオリアを持つトマトが現れているのに対して、正広の意識には何も現れていない。同じような状況は、視覚以外の知覚・感覚でも想定可能である。[クオリアの欠如]

このクオリアの逆転ないし欠如の思考実験から、物的一元論が批判される。

これらの状況が想定可能であると言うだけでは、もちろん、そのような状況が実際に生じているということにはならない。しかし、これらが想定可能であるとしたら、少なくともそれらの状況が実際に生じる可能性はあると言うことができる。これは、物的一元論の主張に反して、同一タイプの物理的状態にある2人の主体が異なるタイプの心の状態にあるということが実際に可能だということに他ならない。それ故、物的一元論は誤りなのである。以上の論証を「想定可能性論法」と呼ぶ。 

 物的一元論である心脳同一説のテーゼは、「各タイプの心の状態は、特定のタイプの脳状態と同一である」というものであったから、特定のタイプの脳状態に、異なるタイプの心の状態があってはならない、というわけである。

 

この説明を聞いて、いろいろ疑問が生じる。金杉はQ&Aを用意して、想定質問に答えている。

Q3:2人の主体がまったく同じタイプの物理的状態になることなどありえないのではないか?

A3:可能性がまったくないのでない限り、そのように仮定して良い。2人の物理的状態が同一であるということには何ら論理的な矛盾はないし、自然法則に反するようなこともない。

 この質問は、上記の物的一元論批判者の主張に対する物的一元論者からのものである。回答は物的一元論批判者のものである。…私は、「タイプ」の定義次第で、2人が「同じタイプの物理的状態」になったり、ならなかったりすると思う。

 

Q4:物理的状態が同じなら、クオリアも同じになる。逆に、クオリアが違うなら、物理的状態も違う。どうして、クオリアの逆転や欠如が想定可能なのか?

 この質問も、上記の物的一元論批判者の主張に対する物的一元論者からのものである。「物理的状態が同じなら、クオリアも同じになる。逆に、クオリアが違うなら、物理的状態も違う。」これは物理的一元論者の主張の繰返しである。「クオリアの逆転や欠如が想定可能だ」と言っている者に対して、「どうして、クオリアの逆転や欠如が想定可能なのか?」と問うている。金杉は、この質問がおかしいと言う。「物的一元論に疑問を持つ相手を説得するには、物的一元論の正しさを前提せずに相手を批判するのでなければならない」と言う。そうだろうか。物的一元論批判者がクオリアの逆転が想定可能と言っているのに対して、物的一元論者が想定できないということは、「想定可能との主張が説明不足でよくわからないから、もっと詳しく説明してくれ」ということだろう。

金杉は、「物的一元論の正しさを前提せずに、クオリアの逆転や欠如は想定不可能だと言えるだろうか」と問うている。そしてこう述べている。

クオリアの逆転や欠如が想定可能かどうかという問題は、われわれが持っているクオリアや現象的状態の概念に、クオリアの逆転や欠如の想定を不可能にするようなものが含まれているかどうかという問題なのである。(現象的状態:心の状態に特有のクオリアが意識に現れるという意味での意識を、「反省的意識」と区別し、「現象的意識」と呼ぶ。また、「現象的意識」という意味で意識的な心の状態のことを「現象的状態」と呼ぶ。)

 

金杉が書いている回答が批判者のものであるのか金杉のものであるのかよくわからないところもあるが、以下は批判者の回答と考えてもよいだろう。

A4:心と脳の同一性は、仮に正しいものだとしても、世界を探求してはじめて正しさを正当化できるア・ポステリオリな同一性である。これはつまり、クオリアや現象的状態の概念を含め、心に関するわれわれの概念に照らして考える限りでは心と脳の間に結びつきは見出されないということにほかならない。少なくともこの限りでは、物的一元論が正しいかどうかを前提せずに考えると、クオリアの逆転や欠如を想定できるということを否定すべき理由はないように思われる。

極端に言うとこういうことだろうか。心と脳は関係ない(結びつきはない)。従って、同じ脳状態に、異なる心の状態(クオリア)を想定することができる。…なるほど。心と脳がまったく無関係と考えれば、「クオリアの逆転や欠如を想定できるということを否定すべき理由はない」かもしれない。でもこれは、「クオリアの逆転や欠如を想定できる」ということを積極的に主張しているものではない。

私は、物的一元論に疑問を持っているが(というか物的一元論の主張がよく理解できていないが)、物的一元論批判者のいう「クオリアの逆転ないし欠如」の状況が、私には想定できない。現在までの認知脳科学の知見を踏まえて、「クオリアの逆転ないし欠如」の状況が説明されないと、私には想定できない。…批判者は「2人は全く同じタイプの物理的状態になったと仮定」しているのだから、脳科学とは無関係の主張ではないだろう。現在の脳科学の知見からすると、「同じタイプの脳状態」とは、これこれこういう状態である、そして「異なるタイプの心の状態、赤のクオリアと緑のクオリアが現れる状態」とは、これこれこういう状態である、と説明があれば、「クオリアの逆転ないし欠如」の状況を想定できるかもしれない。

 

Q5:クオリアの逆転や欠如は、主体の物理的状態の違いに一切現れない。そうであるならば、それらが生じていることをどうやって証明するのか?

A5:あることが生じる可能性があるということを証明するために、それが実際に生じていることを証明する必要があるとは言えない。例えば、一辺が1kmの三角形をつくることが可能であることを証明するために、そのような三角形をつくってみせる必要はない。それらの状況が想定可能であることを根拠とすれば十分なのである。

「証明せよ」という主張に対する反論として、この想定可能性論法というのはなかなか面白い。マグニチュード11の可能性があると主張するときに、その実例を示す必要はないだろう。

 

Q6:「クオリアの逆転や欠如が生じる可能性がある」と言うだけでは、物的一元論が誤りかもしれないということしか示せず、誤りであるとまでは言えないのではないか?

A6:物的一元論によれば、クオリアの逆転や欠如は、単に実際に生じていないというだけではなく、生じる可能性すらない。例えば、心脳同一説によれば、各タイプの心の状態は特定のタイプの脳状態と同一である。それゆえ、拓哉と正広が同じ脳状態にあるのならば、2人が異なる心の状態にあるということは、単に実際に生じていないというだけでなく、生じる可能性すらない。それゆえ、クオリアの逆転や欠如が生じる可能性があるということさえ示せれば、物的一元論が誤りであることは十分に根拠づけられるのである。

相手が可能性を否定しているとき、可能性があることを主張するだけで、相手の主張が誤りであるという、この論法は覚えておきたい。但し、相手の主張のすべてが誤りであるというのではなく、あまり重要ではない論点で誤りであるということがありうる、ということに留意しておくべきだろう。

 

さて、物的一元論を批判するのに、クオリアの逆転や欠如を用いた想定可能性論法は、問題ないのか。物的一元論者は、次のように想定可能性論法を批判する。

想定可能性論法は、以下のようにまとめることができる。

前提1:物的一元論が正しいならば、同一タイプの物理的状態にある2人の主体が異なるタイプの心の状態にあるということは不可能である。

前提2:クオリアの逆転や欠如の状況、すなわち同一タイプの物理的状態にある2人の主体が異なるタイプの心の状態にあるということは想定可能である。

結論1:(前提2から)同一タイプの物理的状態にある2人の主体が異なるタイプの心の状態にあるということは実際にも可能である。

結論2:(前提1と結論2から)物的一元論は誤りである。

これのどこに誤りがあるのか。物的一元論者は言う。

この論証は、前提2から結論1を導出してしまっている点に誤りがある。というのも、あることの想定可能性とそのことの実際の可能性はあくまでも別のものであり、一般に、前者から後者を導出することはできないからである。あることの想定可能性からそのことの実際の可能性を導出できないのは、後者が人々の知識に依存しないのに対し、前者はそれを想定する人々の知識に依存するものだからである

金杉は次の例を挙げている。

水が80度で沸騰するということが想定可能かどうか、また実際に可能かどうか。…水の本質、即ち、水とはHOであり、Oの分子構造からして水は100度で沸騰するということを知っている人にとっては、それは想定不可能である。それに対して、水の本質に関するこの化学的知識を持たない人(子どもや昔の人など)にとっては、それは容易に想定可能だろう。しかし、誰にとってであれ、水の本質からして、水が80度で沸騰するということは実際には不可能である。したがって、後者の人々(子どもや昔の人など)にとっては、それは想定可能であるが実際には可能でないということになる。それゆえ、一般に、あることが想定可能だからと言って、それが実際にも可能であるとは言えないのである。

つまりは、想定可能性論法は物的一元論批判になっていないという。

それゆえ、われわれにとってクオリアの逆転や欠如が想定可能だからと言って、それだけでは、クオリアの逆転や欠如が実際にも可能だとは言えない。…われわれは現象的状態の本質をまだ良く知らないだけであって、実際にはクオリアの逆転や欠如も不可能であるかもしれない。それゆえ、想定可能性論法で物的一元論を反駁することはできないのである。

 

先ほどのQ6とA6を読み返してみよう。物的一元論者は、クオリアの逆転や欠如の可能性を否定している。批判者は、実際の可能性を示すことなく、「クオリアの逆転や欠如が生じる可能性がある」と示すだけで、物的一元論者が誤っていると言っていた。この批判者の論理と上記の想定可能性論法批判の論理とどちらが正しいのか。

  批判者…クオリアの逆転や欠如が生じる可能性がある。実際の可能性を示す必要はない。

  物的一元論者…クオリアの逆転や欠如が生じる可能性はない。想定可能性から実際の可能性を導出できない。

「想定可能だからといって、実際にも可能であるとは言えない」というのは、その通りだろう。だが、批判者は、「実際に可能であることを示す必要はない」と言っているのである。なぜなら、物的一元論者は、想定可能性はないと言っているのに対して、(批判者は)想定可能であると言って、想定可能性に風穴をあけているのである。ここまでであれば、物的一元論者の反批判は、批判者が言っていることにまともに反論しないで、実際の可能性などという批判者が主張していないことに反論しているように思われる。

 

なお余談であるが、水の沸騰温度に関する例について。

水がHOであることは、水の本質なのか?(物理学や化学の用語を使わなければ、水について述べてもそれは水の本質を述べたことにはならないのか?) HOの分子構造から水は100度で沸騰するとどうして言えるのか?(分子構造、温度、沸騰の概念なくして、水が100度で沸騰することは理解できないのでは?) … だから、私には、子どもや昔の人と同様に、水が80度で沸騰するということが想定可能である。実験において、温度計がつねに100度を示していたとしても。