浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

複数性と公共性(2) 共通世界  悪の凡庸さ

齊藤純一『公共性』(6)

アーレントの公共性概念には2つあって、1つは「現れの空間」であり、もう1つは「共通世界」であるという。今回はこの「共通世界」の話である。([ ]内は、引用者。以下同様)

世界は、人為的なもの、人間の手によって作られたもの[人為的世界]を表すとともに、人間の手になる世界に、共に生きる者たちの間に生起する事柄[共通世界]をも表している。世界に共に生きるということは、ちょうどテーブルがその周りに席を占める人々の間にあるように、物事からなる世界がそれを共有する人々の間にあるということを本質的に意味している。世界はあらゆる<間>(in-between)がそうであるように、人びとを関係づけると同時に切り離す<間>である。(『人間の条件』)

共通世界とは、行為によって形成される人間的な事柄の世界である。

共通世界の公共性が成立するための条件が2つあるという。

1)世界に対する多種多様なパースぺクティヴが失われていないこと

2)人びとがそもそもその間に存在する事柄への関心を失っていないこと

 パースぺクティヴとは、「見方、観点」というような意味だろう。

アーレントはこう書いている。

公共的領域のリアリティは、数知れないパースぺクティヴ[観点]とアスペクト[様相]が同時に存在することにかかっている。そうしたパースぺクティヴとアスペクトのうちに共通世界は提示されるのであり、それらに対して共通尺度や共通分母を案出することはできない。…他者によって見られ、聞かれるということが意義を持つのは、あらゆる人びとが異なった立場から見聞きしているという事実のゆえである。ここにこそ公共的な生の意味がある。(『人間の条件』)

いささか表現が難しいが、つぎのような意味だろう。

公共的な領域(共通世界)というのは、多様な意見(観点と様相)が無ければ、成立しえない。

なぜ、こんなことが言えるのか。

パースぺクティヴ[観点]の複数性が失われるとき、公共的空間はその終焉を迎える。世界をただ一つの観点から説明し尽す全体主義イデオロギーがそうした複数性を破壊することはいうまでもないが、『人間の条件』のアーレントの念頭にあるのは、全体主義というよりも大衆社会・消費社会のコンフォーミズム[画一主義]である。

 

世界をただ一つの観点から説明し尽す全体主義イデオロギーについて

全体主義が、1920年代から1940年代中葉にかけて、イタリア[ファッショ体制]、ドイツ[ナチズム]、日本[軍国主義]などに登場したファシズムの思想であることは、中学・高校で歴史を学んだ者であれば誰でも知っているだろう。辞書によれば、

個人の利益よりも全体の利益が優先し,全体に尽すことによってのみ個人の利益が増進するという前提に基づいた政治体制で,一つのグループが絶対的な政治権力を全体,あるいは人民の名において独占するものをいう。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

個人の権利や利益、社会集団の自律性や自由な活動を認めず、すべてのものを国家の統制下に置こうとする主義。独裁や専制政治などと同義に用いられる。(デジタル大辞泉

個人の生活や意見は国家全体の利害に従うべきだという思想あるいは政治体制。大衆社会において,マスコミや大衆組織(大衆操作)を通じて,個人生活のすみずみまで国家権力が浸透し得る状況の下で生まれる。(百科事典マイペディア)

人生経験のない中学・高校生(大学生も)が、私がいまアンダーラインを引いたところを、十分に理解できるとは思われない。(人生経験のある大人が理解できているというわけではない)。ヒトラーなどの人名やナチズムなどの用語を覚えれば、試験の点数はとれるかもしれないが、それはただ記憶力のテストに過ぎない。

頭から、「全体主義は悪だ」ときめつけないこと。具体的に、どういう事態(問題)に関して、個人の利益よりも全体の利益を優先するのか。その問題に関して、全体利益を優先したら「全体主義」になるのかどうか。例えば、原子力規制委員会の新規制基準に則って、原子力施設の設置や運転等の可否を判断することが、「全体主義」になるのかどうか(なお原子力規制委員会は、環境省の外局である)。食品に残留する農薬等に関して、化学会社や農家の自由に任せないで、残留規準を定めることは「全体主義」になるのかどうか。こういう問題を考えるにあたり、「全体主義」という言葉を使うこと(レッテル貼り)は建設的なことではない。基準=ルール=法を考えるにあたり、利害関係者の異なる主張を総合的に考慮すべきである。

齊藤の言う「パースぺクティヴ[観点]の複数性が失われるとき、公共的空間はその終焉を迎える。」とは、「いろんな意見があるのに、十分な議論もせず、ただ一つの観点から、ルールを決めてしまうような場は、公共的空間ではない」ということだろう。「ただ一つの観点」を「特定集団の利益」と言い換えても良い。「特定集団の利益」を図るルールが強行される場を公共的空間と呼んでいいのかどうか。

全体主義国家と言われる中国において、食品の安全衛生基準はどうなっているのか。自由主義国家と言われる日本の国民は、食品の安全衛生に関して、中国は「国家統制」をすべきだと主張するのであろうか。それは全体主義ではないのか。

 

では、「全体主義というよりも大衆社会・消費社会のコンフォーミズム[画一主義]」とは何か。

そこでは、単一の絶対的なイデオロギーによる均斉化のために複数性が廃棄されるわけではない。共通世界そのものへの関心が失われ、それをめぐる判断が回避されるというシニシズム[無関心]がパースぺクティヴ[観点]の縮減をもたらしているのである。

 ここで言うシニシズムとは、「社会のルール(法)は私たちが決めるもの」ということに関心を持たず、ただ与えられたもの(既存のルール、あるいは誰かが決めたルール)だけにしたがって生きるような態度をいうものであろう。

アーレントは、あのアドルフ・アイヒマン(ユダヤ人移送の責任者であるナチス親衛隊官僚)の「思考喪失」――自律的思考および他者の立場に立って考える思考双方の欠落――を形容した「悪の凡庸さ(the banality of evil)」という言葉を用いて、同時代のある趨勢を特徴づけている。

 

ここに出てきたアーレントの「悪の凡庸さ」という言葉について、矢野久美子は次のように解説している。(http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/191681.html

(アイヒマンの)裁判レポートは、1963年2月から3月にかけて『ニューヨーカー』に連載され、5月には本として出版されました。タイトルは、「イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告」というものでした。アーレントは、一人の報告者として、裁判が自分の目にはどう見えたかを語りました。しかし、彼女の見解は許されざるものとして、イスラエルやニューヨークのユダヤ人社会から、激しい非難と攻撃をうけることになりました。彼女は本を書いただけでしたが、猛烈な批判をうけ、それまで親しかったユダヤ人の友人をほとんど失いました。(矢野)

なぜそれほどの非難の嵐が起こったのか、2つの論点があげられている。一つは、アーレントユダヤ人組織のナチスへの協力にふれたことであるが、これは省略する。

今でも論争が続いている論点は、「悪の陳腐さ」「悪の凡庸さ」という言葉にありました。裁判でアーレントが見たアイヒマンは、怪物的な悪の権化ではけっしてなく、思考の欠如した官僚でした。アイヒマンは、その答弁において、紋切り型の決まり文句や官僚用語をくりかえしていました。アイヒマンの話す能力の不足は、考える能力、「誰か他の人の立場に立って考える能力」の不足、と結びついている、とアーレントは指摘しました。無思考の紋切り型の文句は、現実から身を守ることに役立った、と彼女は述べています。ナチスによって行われた巨悪な犯罪が、悪魔のような人物ではなく、思考の欠如した人間によって担われた、と彼女は考えました。しかしユダヤ人社会では、大量殺戮が凡庸なものだったというのか、ナチの犯罪を軽視し、アイヒマンを擁護するのか、といった憤激と非難の嵐が起こりました。(矢野)

物事を深く考えない官僚、思考の欠如した官僚(注)――彼らは、紋切り型の決まり文句や官僚用語を繰り返す――が、巨悪な犯罪を担う。この指摘は、物事を深く考えない政治家・思考の欠如した政治家、マスコミに登場する物事を深く考えない学者・思考の欠如した学者にもあてはまる。そして「物事を深く考えない民衆・思考の欠如した民衆」が、彼らの言説を猿真似し、巨悪な犯罪を担う……。(注)「物事を深く考えても、それを表明できない官僚」は、別の論点だろう。

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アイヒマン http://i.telegraph.co.uk/multimedia/archive/01875/Eichmann-prison_1875203i.jpg

政治によって生きる価値のない人種が定められ、官僚によって行政的に大量の人々が殺戮されるという現代の悪は、アーレントにとって許されざるものであり、なぜそのようなことが起こったのか、徹底的に向き合い、考えなければならない問題でした。(矢野)

これは過去の話ではなく、現代の問題でもある。生きる価値のない人種(ユダヤ人)ではなく、生きる価値のない人(誰が定めたかわからないが、ルールを守らない人。競争社会に敗れて精神に異常をきたした人。体力が衰え・気力も衰えてきた老人。経済社会の底辺に生きる人たち。……)と置き換えてみればよい。「生きる価値がない」という言葉が強すぎれば、「私たちがこの社会を共に生きていく上で、あまり重視する必要のない人」と言っても良い。そういう人たちが政治によって定められる。そしてそのような社会のしくみが、行政官僚によって担われる。もちろん彼らはそのような人々を実際に殺戮するわけではない。しかし、「私たちがこの社会を共に生きていく上で、あまり重視する必要のない人」とされた人にとっては、彼らに自分たちの生が殺されていると感じられても不思議ではない。

アーレントは、「悪の陳腐さ」という言葉で何を言おうとしていたのでしょうか。批判への応答のなかで、彼女は、「悪の表層性」を強調しています。悪は「根源的」ではなく、深いものでも悪魔的なものでもなく、菌のように表面にはびこりわたるからこそ、全世界を廃墟にしうるのだ、と述べています。アーレントは、20世紀に起こった現代的な悪が、表層の現象であることの恐ろしさを、述べようとしたといえるでしょう。(矢野)

政治家や官僚そして彼らを支持する私たちは、むろん悪魔ではない。しかし私たち善人は、「全世界を廃墟にしうる」

「底知れない程度の低さ、どぶから生れでた何か、およそ深さなどまったくない何か」が、ほとんどすべての人びとを支配する力を獲得するそれこそが、全体主義のおそるべき性質である、とアーレントは考えました。アーレントにとって「思考の欠如」とは、表層性しかないということでもありました。怪物的なものでも悪魔的なものでもない、表層の悪が、人類にたいする犯罪、人間を滅ぼしうるような犯罪をもたらすという、前代未聞の現代の悪のありよう。それが、彼女の導き出した結論でした。(矢野)

全体主義」という言葉を、このような意味で理解すること、ナチズムといった過去の話ではない。

アイヒマン論争においては、アーレント自身が、そうした、自立的な思考をつらぬきましたが、彼女の事例は、表層的になった社会のなかで自立した思考が孤立するとき、生きることはどれほど過酷で、思考はどれほど勇気を必要とするか、を表しています。(矢野)

自立した思考が孤立する。自立した思考が許容されない。自立した思考を表明できない。…私たちは、そういう社会に生きているのではないか。

 

さて、斉藤の論述に戻る。

共通世界をめぐる言説の空間としての公共性からは、絶対的な真理は排されている。この空間は「人びとの言説の尽くしがたい豊かさ」が享受される場所であり、単数の真理が人々の上に君臨する空間ではない。公共性は真理ではなく、意見の空間なのである。…意見とは「私にはこう見える」という世界へのパースぺクティヴを他者に向かって語ることである。世界は私たち一人ひとりにとってそれぞれ違った仕方で開かれている。公共的空間における私たちの言説の意味は、その違いを互いに明らかにすることにあり、その違いを一つの合意に向けて収斂することにはない。むしろ、この空間においてはある一個のパースぺクティヴが失われていくことの方が問題なのである。…ある人の意見が失われるということは、他にかけがえのない世界へのパースぺクティヴが失われるということである。ある人が公共的空間から去るということは、それだけ私たちの世界が貧しくなるということを意味する。

意見と意見が交わされる言説の空間とは、どういう空間か。

言説の空間には、諸々の意見の間で真偽を識別する客観的規準は存在しない。この空間は真理を見出すための空間ではないからである。かといって、それはあらゆる意見が等しい妥当性を持つ混沌とした空間でもない。意見は、意見と意見が交換されるプロセスのなかでより妥当なものに形成されうるものであり、そこには普遍的=客観的な妥当性とは異なった妥当性の規準が存在する

意見=判断をより妥当なものにするためには、自らとは異なったパースぺクティヴが他者によって抱かれているという事実をわきまえ、他者のパースぺクティヴを考慮に入れることである。この他者の立場にあったら事柄はこのように違って見えるかもしれないという仮説的な思考における幅が、私たちの判断にそれだけの妥当性を与える。それが決して普遍的な妥当性に達しえないのは、私たちの視野に入っていない他者がつねに存在しているからである。逆に言えば、普遍的妥当性への要求はある種の傲慢を伴っている。普遍的な妥当性をあきらめることが、人間の根底的な複数性を廃棄しないための条件、「世界を他者と共有すること」のための条件である。

「普遍的妥当性への要求はある種の傲慢を伴っている」というのはその通りだと思う。しかしある種の問題に関しては、「普遍妥当性」を要求すべきなのではないか。絶対的な普遍的妥当性には達しえないと自覚しつつ、「普遍妥当性」を要求することが必要なのではないか。