気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

鳴り響く沈黙

岡田暁生『音楽の聴き方』(1)

音楽とは(岡田は対象を主として西洋のクラシック音楽に限っている)

素敵なコンサートの後の帰路、せっかく知人と一緒なのに、互いに押し黙ったままでいるくらいつまらないことはないだろう。自由闊達に語り合えれば合えるほど、やはり音楽は楽しい。聴く喜びはかなりの程度で、語り合える喜びに比例する。音楽の楽しみは聴くことだけではない。「聴くこと」と「語り合うこと」とが一体になってこそ音楽の喜びは生れる。

これは別に音楽に限った話ではない。通常「芸術」と称されるもの全般に通じる話だと思う。

嗅覚や味覚と比べたときの、音楽体験の際立った特徴がある。それは単に言葉にすることが難しいと言うだけではなく、言語化すること自体に対して、しばしば私たちが禁忌の意識を感じてしまう点にある。…おそらくこの畏れの意識は、音楽がかっての呪術の痕跡を色濃く残す芸術であることと、無関係ではないだろう。今日なお音楽は、多くの人にとって神秘であり、魔術である。魔法にかかるために人は、まずは合理的な思考をいったん停止しなければなるまい。魔術は言語を宙吊りにしたところで初めて成立する。言葉では到達できない何かがそこにあると信じるからこそ、私たちはかくも深く音楽の魔力に魅了されるのだろう。

 

沈黙の聖化

「音楽を前にした沈黙をことさらに人々が聖化するようになったのは比較的近代になってからのことだ」という事実。つまり「音楽は言葉に出来ない……」という発想自体はそんなに古いものではなく、これを言い出したのは18世紀末のドイツ・ロマン派の詩人たちなのだが、それが今日に至るまで私たちの音楽の聴き方/語り方に強い縛りをかけているのである。音芸術が呪術の末裔であるのは確かであるにしても、人々がその「言葉にすることの出来ない神秘」を強調するようになったのは、実は近代なのだ

ここで岡田は、沈黙を聖化しようとする考え方のルーツを概観している。

そもそも18世紀までの西洋の美学体系において音楽は、詩や絵画と比べて格落ちの二流芸術とみなされていた。それは何故かと言えば、音楽は明晰な概念や形を欠いていて、心地は良いけれども曖昧だからである。…例えばカントは、音楽を香水や食事やスマートな会話術と同列に置いていた。人を心地よくしてはくれても、それだけでは「芸術」とは認めがたいというわけである。

ふむ。カントはそういうことを言っていたのか。現代で言えば、演歌やロックは芸術とは認めがたいといったところか。現代のインテリは、演歌やロックを「香水や食事やスマートな会話術」と同列にさえ置かないだろう。スマートな会話術とは、「パーティでのおしゃべり」であり(富裕層はリベラルアーツを学ぶ (3)参照)クラシック音楽なら良いが、演歌やロックはダメということである。

ズルツァー(1720-79)の美学理論の一節に、次のようにあるという。

これらの演奏会(で用いられる音楽)は、単なる時間つぶしや手すさびの練習のために行われるものである。そこに属するのは協奏曲、交響曲ソナタ、独奏曲などであり、これらは総じて、快活で心地よい物音、あるいは優雅で楽しいけれども心を揺さぶるというわけではないおしゃべりなどを連想させるものである。

協奏曲、交響曲ソナタ、独奏曲などが、優雅で楽しいおしゃべりに類するものであれば大いに結構。それは単なる時間つぶしではないと思うのだが。

ところが、ロマン派の時代に入り始めてから、話が複雑になってきた、と岡田は言う。

ドイツ・ロマン派の詩人たちは、こうした「言葉がないから、音楽は深さに欠ける」という従来の論法を、「言葉がないが故に、音楽は言葉を超越する」という方向へ180度裏返してしまった。ホフマン(1776-1822)は音楽を「あらゆる芸術のうちで最もロマン的なもの」と呼び、次のように言う。

オルフェウスの竪琴は冥府の門を開いたのである。音楽は人間に未知の国を開いて見せてくれる。そこは人間を取りまく外部の感覚世界とはいささかの共通点もない世界で、人間は言葉で説明できる感情を棄て去って、名状しがたいものに帰依する。…音楽の魔術的な力は、2,3滴たらせばどんな飲物にも極上の風味を添えるという賢者の魔法の霊液のような働きをする。オペラで歌われるような激しい感情(愛、憎しみ、怒り、絶望など)は、いずれも音楽がロマン主義の紫色の薄明かりで包み込み、この世で感じたものそれ自体が我々をこの世から連れ出し、無限の国に導いてくれるのである。これほど音楽の魔力は強く、しかもますます強力になるとすれば、他の芸術のいかなる束縛も断ち切ることにならざるを得ないだろう」

冥府のオルペウス

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Jean-Baptiste-Camille_Corot_-_Orph%C3%A9e.jpg

オルペウスの妻エウリュディケーが毒蛇にかまれて死んだとき、オルペウスは妻を取り戻すために冥府に入った。彼の弾く竪琴の哀切な音色の前に、ステュクスの渡し守カローンも、冥界の番犬ケルベロスもおとなしくなり、冥界の人々は魅了され、みな涙を流して聴き入った。ついにオルペウスは冥界の王ハーデースとその妃ペルセポネーの王座の前に立ち、竪琴を奏でてエウリュディケーの返還を求めた。(wikipedia)

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メンデルスゾーンに「無言歌」というピアノ曲集があるが、このタイトル Lieder ohne Worte(言葉のない歌)は、ロマン派の音楽観を端的にあらわしている、と言う。

言葉が途切れるところで初めて、「真実の歌=詩」が魔法のように溢れ始める。ロマン派の芸術創造の生命は無限の憧れであって、彼らは遠い彼方へ祈るような切ない眼差しを向ける。そして造形芸術や言語芸術と違って形がないからこそ、音楽はロマン派詩人のファンタジーを限りなくかきたててくれる。このことが意味するのはつまり、音楽がかっての宗教にも比すべき祈りに、そして超越的世界の啓示の場になったということにほかならない。

かくして、協奏曲、交響曲ソナタ、独奏曲などが、コンサートホールでかしこまって聴くものになったのであろうか。

実際ロマン派の人々はしばしば、宗教メタファーとともに音楽を語るようになる。…ショーペンハウアー哲学の影響を強く受けたワーグナーは、1857年の公開書簡「フランツ・リスト交響詩について」の中で、次のように書いている。「音楽は、それが取り結ぶいかなる関係においても、至高の、つまり最終的救済をもたらす芸術であることをやめない。…何ものも音楽ほど絶対的ではない」。

音楽は「世界の最終的救済をもたらす」。音楽が世界を救うのである! 音楽が表現するのは宗教なき時代の一種の宗教空間であり、そこでは聖なる「鳴り響く沈黙」が支配しなければならないニーチェの言うところの「神が死んだ」19世紀にあって、音楽がかってのミサの代理を果たし始めたのだ。「汝、みだりに神の名を口にするべからず」――音楽を言葉にすることへの禁忌の意識のルーツは、このあたりにあったものと思われる。

コンサートホールは教会であり、そこでは聖なる「鳴り響く沈黙」が支配する。

 

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