浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

生の直観

北川東子ジンメル-生の形式』(11)

本書第7章「生の形式」で、1.境界と2.生の直観について書かれている。境界(内と外)と言うのは、非常に面白いテーマで、今後取り上げたいと思っているのだが、本書での記述は、私にはあまり得るところがなかったのでパスする。生の直観については、以下のように述べられているが、

硬直化した社会制度と形式主義的な哲学の議論にあきあきした世代には、生の哲学こそは「生の体験の豊かさからの哲学」であった。革新的な気分と時代の流れを直接に感じていた若い世代にとっては、「超越」し「克服」していく「より以上の生」と、理念と理想をたえず生み出し、価値の世界を形成していく「生より以上」という生命の哲学的運動論は魅力があったかもしれない。

人間の生は、みずからの「より以上の生」という目的のために、生命の流れに一定のかたちを与えるさまざまな形式、つまりジンメルの言葉で言えば「生より以上」を生み出す。

これだけの記述では、ジンメルが何を言おうとしていたのかほとんど分からない。坂部恵の解説がわかりやすいので参照しよう。

生の哲学…19世紀後半、とくにその末期から20世紀の第一次世界大戦前後にかけて、ヨーロッパで展開された一連の傾向の哲学の総称。19世紀後半以来の実証科学の発達に影響された実証主義、あるいは唯物主義的思想の盛行に対立する動きとしておこった。…これらの哲学者[ショーペンハウアーニーチェディルタイ、オイケン、ジンメルベルクソン]たちに共通する特徴は、人間の、あるいは人間をも含めての生物の、さらには宇宙全体の「生」は、実証科学を典型とする合理的思考の網の目によってはとらえられず、むしろ覆い隠されてしまうと考えるところにある。…合理的・科学的思考による証明の網の目を逃れるもの、対象化的、一面的な近代科学の認識によって捉えられぬものとしての宇宙と人類の生命の総体に注目し、(自然)科学的認識とは区別された直観、ないしは体験とその把握・了解に立ち戻ることによってそれに参入することを目ざす点において、彼らは軌を一にしている。…生の哲学の意義は、近代から現代へと移りゆく西欧文明の全般に広がる生のあらゆる領域での合理化に目を奪われることなく、むしろ総体的な生を平板化し分断し窒息せしめるそのマイナス面に着目して、合理的思考の網の目によってはとらえ尽くせぬ生の基盤へと遡行し、宇宙と歴史を貫く総体的な生の流れへの感覚を取り戻し、哲学に固有の生命をよみがえらせようとしたことにあった。(日本大百科全書)

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実証科学を典型とする合理的思考によって、人間の「生」が明らかになっているか。脳神経科学によって、人間精神の(心の)複雑さが明らかになっているか。とても明らかになっているとは思われないが、だからダメというのではなく、人間の「生」を明らかにするための方法論として、いわゆる「自然科学的認識」とは区別された「直観ないし体験」による把握が望ましいことを述べなければ説得力がない。何らの分かりやすい説明なしに、「より以上の生」とか「生より以上」とか、意味不明の言葉を使っていては誰も説得されないだろう(私の勉強不足かもしれないが)。…生の哲学者たちは、私たちのこの世界を少しでも良くしようという考えを持っている(いた)のだろうか。わけのわからぬ精神世界に(幻惑的な言葉を使って)誘い込むのではなく、普通の科学的知識を持った人々を説得できるような議論を展開しているのだろうか。逆に(自然)科学者にはもっと謙虚な物言いをしてほしいと思うことがある。素人に対しては、前提と証拠(特定の実験)に基づいた議論であることを強調してほしい。絶対的真実を述べているのではないこと、わからないことが多々あることを述べて欲しい。さもないと、素人はその答えが100%正しいと思ってしまう。(天気予報が100%正しくないことは誰もが知っているが、有用性を認めている。)