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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

複数性と公共性(3) 「社会的なもの」への批判の陥穽

齊藤純一『公共性』(7)

齊藤の説明から察するに、アーレントは「社会的なもの」を、以下のような意味で使っているようだ。

――社会にはさまざまな規則(法と言っても良い)がある。その規則は規範である(法は守らなければならないものである)。社会の成員はその規則に従い行動する。皆がその規則を守り、それがずっと続く。法令遵守コンプライアンス)の行動が繰り返される。それは正常な規範にしたがった行動とされ、その規範の効力が強化されていく。その行動は、規則を再生産すると言っても良い。その行動は、既に確立されている規範的な意味を反復すると言っても良い。その規則に異議を唱えようとする者は排除または無視される傾向をもつ。これが、「社会的なものの支配」の意味するところである。

アーレントの恐れは、人々が正常な規範にしたがう行動を繰り返すことによって、政治的に従順な生の様式へと馴致されてしまうことにあるフーコーが『監獄の誕生』で見事に剔出した「規律権力」の目標、「経済的な有用性と政治的な従順さとの並行的増強」という目標はまさしく「社会的なもの」の目標である。

ここで「経済的な有用性」とは、「会社の仕事は創意工夫をもってせよ」、「政治的な従順さ」とは、「専門家が諸論点を総合的に考慮して(反対意見も考慮して)、審議決定した諸法令を遵守せよ」というものであろう。プロが反対意見も考慮して策定した法令に、アマが異議を唱えることは、本当に難しい(注)。(何か不満に思っていても)対案を出せるはずもなく、(形だけでも)その法令に従うことになる。かくして、「政治的に従順な生の様式へと馴致されてしまう」。これが社会の現実である。ときおり、デモ行進などで異議申し立てがなされたとしても、それは、「正常なもの=標準的なものからの「逸脱」(予期された偏差)以上の意味を持たない」。

(注)アマは実証データを持たず、感覚的(観念的)な主張をするのに対し、プロは豊富な実証データを持ち、自説に有利なデータ選択ができるので、「実証的な根拠を持った」論理展開ができる、と思われる。

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斎藤は、アーレントのこの「社会的なもの」をめぐる議論には問題があるという。

「社会的なもの」の全域を「行動」によって覆い尽くすことによって、「社会的なもの」を覆していく「行為」の可能性はその外部に排除されてしまう。行為は公共的領域に固有の活動様式とされるが、この領域は「社会的なもの」の外に位置している。政治的行為はこの領域の内部でのみ行われ、逆に「社会的なもの」の領域は完全に脱-政治化される。同じことは、私的な領域についても当てはまる。それは、行為の行われえない空間、労働もしくは仕事のみが行われる場所として描かれるのである。

問題はすでに明らかだろう。公共的領域と私的領域とは硬直的な二分法で切断され、両者の境界線を書き換えていく政治の可能性はアーレント自身によって廃棄されている。

「社会的なもの」の領域(以下、社会的領域という)において、あるのは「行動=プロの作った規則・法令を遵守し、与えられた仕事を一生懸命こなすこと」である。ここでは、規則・法令に対して疑問・対案を提出することができない。規則・法令に対して疑問・対案を提出すること(行為と呼ばれる)は、社会的領域においてではなく、公共的領域においてである。規則・法令に対して疑問・対案を提出するというような政治的行為は、社会的領域から排除される。

斎藤(アーレント?)の論述では、私的領域は社会的領域と同じであるとされているようで、公共的領域がこれとは異なる領域にあるものとされる。そして政治的行為は公共的領域に属するものとされる。社会的領域においては政治は行われない。脱政治化される。

齊藤は「両者の境界線を書き換えていく政治の可能性はアーレント自身によって廃棄されている」と言っている。私はアーレントを読んでいないのでよくわからないのだが、社会的領域と公共的領域を概念的に区分し、政治的行為を公共的領域に位置付けたからといって、なにか問題があるのだろうか。政治は、社会的領域と公共的領域の境界線を書き換えていかねばならないというのは、社会的領域と公共的領域を概念的に区分してはいけないということなのだろうか。

私には、規則・法令に対して疑問・対案を提出することのできない(提出しない)現実社会に対して、規則・法令に対して疑問・対案を提出することが政治であり、そのような行為が行われる領域を公共的領域と呼んだところで一向に構わないように思えるのだが、どうだろうか。

新しい始まりを導き入れる行為を、正常な規範の単純な再生産を妨げ、その反復を違った方向にずらす活動様式として解釈することである。行為は行動とは別次元の活動様式としてではなく、行動の空間の内部に不断に生まれる活動様式としてとらえ直すことができる。

「正常な規範の単純な再生産を妨げ、その反復を違った方向にずらす活動」が、規則・法令に対して疑問・対案を提出することであるならば、それを概念的な公共的領域で行うことに何か問題があるのだろうか。(規則・法令の対象はもちろん現実社会である)。…「新しい始まりを導き入れる行為を、行動の空間の内部に不断に生まれる活動様式としてとらえ直す」とは、どういう事態のことなのだろうか。

 

次に、「社会的なもの」は、「生命・生存の空間」でもあるという点について。(斉藤は、アーレントの「ビオス」と「ゾーエー」についても検討しているが、似たような話なので省略)

「生命・生存の領域」を、生存活動=経済活動(労働・消費活動)の領域と解するならば(違うかも)、そのような経済活動は、すべての人間に共通な生命の必要を充たすために必要なものであって、現れの空間(交換可能な私を超えた私が他者に対して現れ、他者が私に対して現れる空間)、共通世界(多様な観点と様相のうちに、共に生きる人々の世界が提示される)を内容とする公共的領域に属するものではない、というのがアーレントの考えのようだ。

これに対して、斉藤は次のように言っている。

公共的空間は生命や身体とは何のかかわりも持たない、あまりにも純粋な自由の空間として描かれる。公共的空間は、身体の必要や苦しみを語る声を不適切かつ不穏当なものとみなす。もし、公共的空間をそうした声に閉ざされたものにしようと思わないのであれば、生命とその必要に関するアーレントの誤った想定は根底から批判されねばならない。

「経済活動に関する諸問題(身体の必要や苦しみを語る声)は、規則(規範)をめぐる政治問題ではない」と主張する者がいるのでなければ、斉藤のアーレント批判はあまり意味があるようには思われない。必要なのは、「身体の必要や苦しみを語る声」をいかに取り上げ、政治課題とし、規則・法令を変えていくにはどうすれば良いのかを具体的に考え抜くことではなかろうか。もっとも、学者はもっと原理的なこと(哲学的なこと)を考えているのだと反論されるかもしれないが…。確かにそうなのだが、それで現実は良くなってきたのだろうか?