浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

存在の耐えられない類似

ラマチャンドラン,ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(11)

今回は、第8章「存在の耐えられない類似」である。最後のほうに出てくる「人種差別」、「アイデンティティ」についての言及は興味深い。脳神経科学の無味乾燥な説明にとどまらないところが本書の魅力である。

ラマチャンドランは、アーサーの妄想の話から始める。アーサー(31歳)は自動車事故で頭を強打し死にかけたのだが、意識を回復し、リハビリで外見はすっかり正常に戻ったように見えた。しかし、ただ一つだけ、両親が偽物だという信じがたい妄想があった。

「アーサー。この病院まで、誰に連れてきてもらいましたか?」とたずねた。「待合室にいる男性です」とアーサーは答えた。「僕の面倒をみてくれている老紳士です」。「つまりあなたのお父さんですか?」。「いいえ、先生。あの人は僕の父じゃありません。似ているだけです。彼は――あれは何といいましたっけ――騙り(かたり)だと思います。人に害を与えるつもりはないと思いますが」…「アーサー、なぜその男性はあなたのお父さんのふりをしているんです?」。「そこが変なところなんです、先生。僕の父のふりなど誰がしたがるでしょうか」。彼はとまどいながら説得力のある説明を探しているように見えた。「たぶん本当の父が、僕の面倒を見るために彼を雇ったんじゃないでしょうか。あの人が僕にかかる費用を払えるようにお金を渡して」。…アーサーの父親が言った。「本当にショックです。息子は以前の知り合いはどんな人でもちゃんとわかるんです。大学時代のルームメイトも、仲の良かった幼馴染も、昔のガールフレンドも。誰のことも、偽物だなどと言いません。妻や私に何か不満を持っているようなのです」

アーサーの妄想は、カプグラの妄想という、神経学でもいちばん稀で派手な部類に属するものであるという。

脳科学辞典によると、

カプグラ症候群とは、近親者などが瓜二つの偽物と入れ替わったと確信する妄想であり、1923年にCapgras. J. とReboul-Lachoux. J.によって報告された。近年では、カプグラ症候群、フレゴリ症候群、相互変身妄想および自己分身症候群が妄想性人物誤認症候群の亜型としてまとめられている。カプグラ症候群は妄想型統合失調症に多いが、認知症や頭部外傷で見られることもある。成因論的には、1960年代までは対象の妄想的否認や感情的判断などと言った心因を重視する見解が支配的であったが、1970年代以降、器質因を重視する立場が出現し、知覚や相貌認知の障害として解釈しようとする立場が優勢となっている。大脳の右半球や前頭葉の病変との関連が指摘され、カプグラ症候群を認知心理学的に説明する仮説も提唱されている。(脳科学辞典、https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E3%82%AB%E3%83%97%E3%82%B0%E3%83%A9%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4

カプグラの患者が、精神分析家にまわされると、

フロイト流の見解によれば、いわゆる正常な人はだれでも子どものときに、自分の親に性的な魅力を感じる。したがって男性はみな自分の母親に対して性的な欲望を持ち、父親を性のライバルよみなし(エディプス・コンプレックス)、女性はみな自分の父親に対して生涯にわたって根深い性的執着を持つ(エレクトラ・コンプレックス)。こうした禁断の感情は成人になるまでには完全に抑圧されるが、火事が消えた後にくすぶりが残るように、じっと潜んでいる。そして、と大勢の精神分析医は言う。頭部に打撃を受けたことで(あるいはまだ知られていない何らかの解放メカニズムによって)、抑圧されていた母や父に対する性的衝動が表にどっと噴き出る。患者は突然自分の親に対して不可解な性的魅力を感じ、心の中で思う。「なんてことだ。この人は自分の母親だぞ。どうして魅力を感じたりするんだ」。おそらく何とか正気を保つには、「これは誰かほかの知らない人に違いない」と思い込むしかないのだろう。同じように、「本当に父親に性的な嫉妬を感じるはずはないから、この男は父の名を騙る偽物に違いない」ということになる。

などという独創的な(妄想的な?)説明がなされる。

ラマチャンドランは、カプグラ・シンドロームには器質的な基盤があると考えている。報告された症例の3分の1以上が、脳の外傷性障害に関連して発生しているからである。

正常な脳では、顔を認識する領域からの情報が辺縁系に送られ、特定の顔に対する情動反応の発生を促進する。…特定の顔にふさわしい感情のニュアンス――愛、怒り、幻滅――を感じ始める。…私はアーサーの症状について考えた末に、彼の奇妙な行動はひょっとするとこの二つの領域(認識に関与する領域と、情動に関与する領域)の連絡がないことに起因しているのではないかと思いついた。恐らく顔を認知する経路はまったく正常で、だからこそ母親や父親を含めて人の顔が見分けられるのだが、「顔の領域」と扁桃体[辺縁系の入り口]との結合が選択的に損なわれているのだろう。もしこれがあたっていれば、アーサーは両親を認識はするが、顔を見ても何の感情も感じない。…この状況の解釈として彼が唯一できるのは、この女性はお母さんに似ているだけだと決めつけることだ。この人は母の名を騙る偽物に違いない。

ラマチャンドランはこの考えの検証実験を行ったのだが、その内容については省略する。

 

コタール・シンドロームと呼ばれる異様な障害がある。(*1)

 このシンドロームの患者は、自分が死んでいると断言し、腐敗した肉のにおいがする、体中にウジ虫が這いまわっていると言い張る。この場合もたいていの人は、神経科医でさえ、患者が狂気に陥っているという結論にとびつく。しかしそれでは、妄想がきわめて特異的であることを説明できない。私は、コタール・シンドロームをカプグラ・シンドロームが極端になったもので、恐らく同根であると考えている。カプグラの場合は顔を認識する領域だけが扁桃体との連絡を絶たれているが、コタールの場合はおそらくすべての感覚領域が辺縁系と連絡しておらず、そのために周囲の世界との情動的なつながりが全くないのだろう。これは、大半の人が精神病とみなす奇異な脳障害が既知の神経回路の観点から説明できるという、もう一つの例である。

 

 ここまでは、まあ普通に面白いのだが、ここからの話が俄然面白くなる。

 扁桃体ニューロンの反応を記録している科学者は、これらのニューロンが顔の表情や感情に反応するほかに、視線の方向にも反応すると報告している。例えばあるニューロンは誰かがあなたをまっすぐ見ると反応し、その隣のニューロンはその人の視線がほんの1インチそれたときだけ反応する。視線が左あるいは右にはずれたときは、また別のニューロンが発火する。…それた視線は後ろめたさや恥じる気持ちやきまりの悪さをあらわし、まっすぐな視線は恋の相手のまなざしか、敵の険悪な視線である。私たちは忘れがちだが、感情はたとえ個人的に感じるものであっても、他者との交流が関係している場合が多く、視線をあわせるのは交流の方法の一つである。私は、視線の方向と親しさと感情との結びつきを考えると、アーサーは視線の方向を判断する能力が損なわれているのではないか、例えば顔写真でそれを判断できないのではないかと考えをめぐらせた。

そこで、ラマチャンドランは、次のような実験を行った。一連の写真を見せ、モデルがまっすぐ彼の方を見ているかいないかを答えるという実験である。

普通の人はわずかな視線のずれを恐ろしいほどの正確さで検出できるが、アーサーはこの課題がまったくできなかった。モデルが自分の方を見ていないと正しく識別できたのは、視線が片側に大きくそれているときだけだった。この発見そのものは興味深いが、扁桃体や側頭葉が視線の方向の検出に関与していることはわかっているので、予想外というわけではない。しかし8枚目の写真に対する反応はまったく予想外だった。彼は持ち前の穏やかな、まるで詫びているような口調で、モデルそのものが変わったと驚いたように言った。新たな人物に見えるのだ。

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これは視線の方向が変わっただけでカプグラ・シンドロームの妄想が起こるということを示している。アーサーにとっては「2人目の」モデルは「1人目」に似ているだけの別人であるらしい。…この後、引き続いて写真を見ている間に、アーサーはまた別人をつくりだした。一人は年配で、もう一人は若く、三人目はさらに若いとうのだ。…2週間後にまったく別の顔写真を使って再度テストをしたときも、結果は同じだった。

なぜ視線の方向を変えただけで、連続した像を関連させることができなくなるのかについて、ラマチャンドランは次のように考えている。

答えは記憶形成の仕組みに、とりわけ顔の持続的な表象をつくりだす能力にある。…ここで、海馬に損傷があるために、稀で特殊なタイプの健忘になっている人について見てみよう。こうした患者は新しい記憶の形成が全くできないが、海馬に損傷を受ける以前の出来事はすべて完璧に思い出せる。…こうした患者が初めての人(ジョー)に3度続けて(マーケットと図書館と職場で)出合ったとすると、以前にジョーに会ったことすら覚えておらず、毎回ジョーをまったく知らない人だと主張する。たとえ何回会って互いに会話を交わしてもそうなのだ。だがジョーは本当にまったく知らない人なのだろうか? かなり意外なことだが、実験によると、この種の健忘患者は、ジョーの連続したエピソードを超越する新しいカテゴリーを形成する能力を保っている。ジョーが患者に10回会って、そのたびに面白いことを言って笑わせたとすると、次に会ったときに患者は漠然と愉快なあるいは幸せな気分になるが、ジョーが誰であるかはわからない。親しいという感覚は全くない-ジョーの各エピソードの記憶は全くない-のに、ジョーが自分を楽しくさせることはわかる。これはこの種の健忘患者が、アーサーとは違って、個々のエピソードは忘れているにも関わらず、一連のエピソードを結び付けて新しい概念(楽しさに対する無意識的な期待)を作り出せるということを意味している一方アーサーは、個々のエピソードは覚えているがそれらを結びつけることができない。したがってアーサーは、ある意味でこれらの健忘患者の裏返しである。

 一連のエピソード(個人的に体験された出来事)を結びつけて、新しいカテゴリー(概念)を形成する。しかし、個々のエピソードは記憶されない。アーサーは、個々のエピソードを記憶しているが、結びつけることができない。…面白い考えだ。

ひょっとすると脳は、一連のエピソードを結びつけるときに、辺縁系からの信号――知っている顔や記憶と関連付けられた「あたたかみ」や親しみの観念――に頼るのではないか。そして辺縁系からの信号がないと、時間的継続性のあるカテゴリーを形成できないのではないだろうか。このあたたかさが欠けていると、脳は毎回別のカテゴリーをつくる。だからアーサーはいま会っているのは初対面の人で、30分前にあった人と似ているだけだと断言する。

これは実験で証明できているのだろうか。

認知心理学者や哲学者はしばしばトークンとタイプを区別する。――私たちが体験するものはすべて一般的なカテゴリーすなわちタイプ(人、車など)と、これに対する特定の標本すなわちトークン(ジョーという人、私の車など)に分類できる(*2)。アーサーの所見は、この区別が単なる学問的な区別ではなく、脳の構成に深くはめ込まれていることを示唆している

私たちはだれでも、出来事や物を頭の中で分類したりグループに分けたりしている。アヒルやガチョウは鳥だが、ウサギは違うというふうに。脳はたとえ正式な動物学の教育を受けていなくても、こうしたカテゴリーをつくりだす。恐らくそうすることで記憶の貯蔵が容易になり、貯蔵した記憶に即座にアクセスできる能力が高まるのだろう。これに対してアーサーは、カテゴリーに混乱があることをほのめかすような言動をしばしばとった。例えば彼は、ユダヤ人とカトリック教徒に対して妄念に近い偏見を持っていて、出会ったばかりの人のうち、ありえないほど多数をユダヤ人と決めつける傾向があった

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フレゴリー・シンドローム (*3)

この性癖は私にフレゴリーという、これまた稀なシンドロームを思い起こさせた。このシンドロームの患者は、至る所に同じ人が見える。通りを歩いていると、ほとんどの女性が母親に見えたり、若い男性がみな弟にそっくりに見えたりする。(私の予測では、フレゴリーの患者は、顔を認識する領域と扁桃体の連絡が断たれているのではなく、連絡が過剰になっている。どの顔にも親しみや「あたたかさ」がふきこまれるので、何度も何度も同じ顔を見ることになるのだろう。)

ひょっとしたらこのフレゴリーに似た混乱が、他の点では正常な脳に起こる場合があるのではないか。そしてそれが人種差別の固定観念がつくられる基盤になっているのではないか。人種差別は単一の身体的タイプ(黒人、アジア人、白人など)を標的にすることが多い。ある視覚カテゴリーの1メンバーにたった一つ不愉快なエピソードがあると、それが辺縁系に、その種類の全メンバーを含む不適切に一般化された連絡をつくりあげる。この連絡は高次の中枢に蓄えられた情報に基づく「知性の修正」の影響を受けない。それどころか知性的な見解の方が、この感情の反射的な反応に色づけされるようだ。そして人種差別の悪名高い頑固さが生まれる

フレゴリーに似た混乱は正常な脳でも起こる可能性がある。Aという人とのコミニュケーションで、不愉快なエピソード(個人的に体験された出来事)があったとする。そうすると、Aという人の身体的特徴に類似した人を、Xというグループ(カテゴリー)に分類する。この差別には、器質的な基盤がある。では、正常な脳と異常な脳の境界線はどこにあるのか?…この話は、別の機会に譲ったほうが良さそうだ。

アーサーにまつわる話は、私たちの一人ひとりが自分の人生やそこに登場する人たちについて、どのように物語を組み立てるのかを洞察する手がかりになった。ある意味であなたの人生(あなたの自伝)は、きわめて個人的なエピソード――初めてのキス、学校舞踏会の夜、結婚、子どもの誕生、旅行などなど――の記憶が長くつながったものである。だが同時にそれ以上のものでもある。そこには明らかに個人のアイデンティティ、即ち統一された「自己」の観念があり、私たちの存在という織物全体を金の縦糸のように貫いている。

「エピソードの連なり」とそこを貫く「アイデンティティ」…言葉では何となく、そこにアイデンティティがあるような気もする。「自分」というものを意識し始めてから、今日まで確かに「自分」は生きてきた。しかし、かくいう「自分」とは何であるのか。客観的に証明できるのか?…これはいけない。哲学の深い森に迷い込みそうだ。

スコットランドの哲学者デヴィッド・ヒュームは人間の人格を川になぞらえた――川の水は絶えず変化しているが、川そのものは一定である。もしある人が川に足を入れ、30分後にまた足を入れたとしたら、それは同じ川かそれとも違う川か、とヒュームは問いかけた。それは単なる意味論的な謎かけだと思った人がいたら、あなたは正しい。答えはあなたが「同じ」と「川」をどう定義するかによるかだ。(*4)

アーサーの場合、一連のエピソード記憶を結び付けることができないことから考えて、川が2つあるのではないかということだ。…驚くべきことは、彼がときどき自分自身を2つにしたことだ。これが最初に起こったのは、私がアーサーに家族アルバムの彼自身の写真を見せていたときだ。私は事故の2年前に撮影されたスナップ写真を指して「これは誰ですか」と聞いた。「もう一人のアーサーです」と彼は答えた。「彼は僕にそっくりですが、僕じゃありません」。私は耳を疑った。アーサーは私の驚きを察知したらしく、自分の言い分を補強するように言った。「ほら、彼は口ひげがあるでしょう。僕は違います」。…自分を「複製する」傾向――自分自身を以前のアーサーと別の人間とみなす傾向――は、話をしている最中にもときどき自然にあらわれた。…他の面では知性にまったく問題のない正気の人間が、いったい何故自分を2人の人間とみなすのだろうか。自己を分けることには本質的な矛盾があるように思える。…どの人が「本当の」私なのか。これはアーサーにとって、現実の苦しいジレンマなのだ。哲学者は何世紀もの間、私たちの存在について確かなことがあるとすれば、それは「私」が空間と時間のなかで持続する一人の人間として存在するという単純な事実である、と論じてきた。だがアーサーの事例は、この人間の存在の基本的な土台にさえ、疑問を投げかける。

「私」というものが、同一の人間として、空間と時間のなかで持続する、というのは哲学者ならずとも、普通の人の考えだと思う。哲学者ならば、「私」、「同一」、「空間」、「時間」概念について、延々と議論して普通の人を煙に巻くのではなかろうか。

私にとって本章のポイントは、「心的なものには器質的な基盤がある」という主張である。但し、これは「心は物理的な存在である」と主張するものではないだろう。

 

 (*1) 強度の虚無主義的(ニヒリスティック)な妄想を特徴とする症状で、診断時には気分障害統合失調症解離性障害などとして診断される。1880年にフランスの精神科医J.Cotardが報告して以来、日本でも報告されるようになった。コタールをはじめ、欧米圏の精神科医らによる報告は、主にキリスト教(ないし一神教)信者、とりわけカトリック信者による原罪的な妄想が多いが(「全知全能の神の前にひれ伏すしかない罪深き自分は、元より生まれていないか、すでに死んでいるはずだ」など)、のち一般に、「自分には脳・神経・内臓が存在しない」、「自分はこの苦悩のまま永遠に生き続けなければならない」などの悲観的・永劫回帰的な妄想として知られるようになった。すなわち、属する文化・社会、信ずる宗教によって症状が異なっていると考えられており、「文化依存症候群」の一種とされることもある。(岩崎純一、http://www.iwasaki-j.sakura.ne.jp/seishin/cotard.html

(*2) ここで、タイプとトークンという言葉が出てきたので補足しておこう。…タイプとトークンの区別は、概念そのものとその概念で指示される特定・個別の対象を区別すること。タイプとトークンという対概念はパースによって導入された。例えばガレージにあるあなたの特定・個別の自転車は「自転車」というタイプの中のトークンと理解される。このトークンとしての自転車は、時空の中の特定の位置を占めているが、タイプとしての自転車はそうではない。「最近自転車の人気が高まっている」と言うとき、この「自転車」はタイプとしての自転車を指して言っているのに対し「あなたのガレージの中の自転車」と言うときの「自転車」はトークンとしての自転車である。タイプは時空間に位置を持たない抽象的対象と考えられ、これは「特定の対象」が時空間に位置を持っているのと対照的であるこの「特定」という用語は単純に言えば「具体的で物理的な対象」というような意味である。タイプがトークンをまったく持たない場合も考えられる。例えば「二つの素数の和でないような偶数」というタイプに対するトークンは存在しない。(Wikipedia)

(*3) フレゴリ妄想は、P.CourbonとG.Failにより報告され、見ず知らずの他人を肉親や知人と錯覚する(または、肉親や知人の替え玉であると妄想する)症状を指す。カプグラ症候群よりも被攻撃・被害妄想が強い傾向にある(岩崎純一)。

妄想の焦点となる特定の者が、無害な外観を呈した周囲の人物に変装し、迫害を加えてくると確信している病態である。フレゴリの錯覚、フレゴリ症状とも呼ばれる。フレゴリとは舞台での素早い変装で有名なイタリアの役者Leopoldo Fregoli (1867 – 1936) にちなんだものである。無害な外見をとった様々の人物に変装した偽物の正体が主題とされ、仮面の背後に隠れている迫害者が、患者にとって愛着の対象であることがある。(脳科学辞典)

(*4) ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。(方丈記