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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

存在の内の目立たない切片

読書ノート

北川東子ジンメル-生の形式』(12)

創造的断片性

『哲学的文化』と名づけられた論集には、有名な「取っ手」をはじめとして、「冒険」や「廃墟」そして「流行」など、いかにもジンメル的な主題についての哲学的エッセーが収められている。雑多ともいえる多様な現象が扱われている。しかも、統一的な方法的視点もない。…「哲学的文化」のプログラムは、思想の創造的な断片性を発動するために、体系の完成や方法の統一性をめざす一切の試みに背を向ける。ジンメルは「存在の内で目立たない切片」から実り豊かな思想的形象を獲得するために、次のように宣言する。

形而上学の向かうところが一つの体系的な内容に固定されることで、膨大な世界領域や心的な領域が、哲学による解釈と深化を受けることができないままに放置されてしまう。…原理というもののこの硬直さと非柔軟性のために、存在の内で目立たない切片形而上学的な深みに引き込むことができないままになっているのだ。」

ふだん何気なく目にするもの、時には遠くを見ていて聞こえてくるもの、そして切ない思い――存在の内の目立たない切片――に焦点をあわせること。そこから「実り豊かな思想的形象」を獲得すること。それは正しい。だが、このジンメルの方法には若干の違和感がある。

生の表層から深めていくやり方、ないし生のさまざまな現象に個別的に意味を与えようとする作業、つまり「生の現象のそれぞれにおいて一番手近な理念層を掘り起こしてみることは、必然的に、ある究極点に至らなくてはならないのであって、もし究極点の方向づけがないのであれば、フラフラと基盤を欠いたものにすぎない」と言われる。しかし、それは偏見である。ここに収められたそれぞれの論文は、それが取る視点に応じて、このことが偏見であるという前提に立っている、ないしそれが偏見であることを証明している。

ジンメルの哲学が「体系の完成や方法の統一」をめざすものではないとすれば、究極点に至ろうとせず「フラフラ」していることこそ、ジンメルの立場である。「フラフラ」している(切片による思想の創造)ことには魅力はあるが、私には若干の違和感がある。

言葉の遊びのように聞こえるかもしれないが(実は、言葉の遊びなのだが)、私は「形而上学」に原理を求めたい。但し、その原理とは「説得力のある論理」のようなものである。それは「硬直さ」と「非柔軟性」を特徴とはしない。逆に「柔軟な論理」でありたい。切片の思想に開かれた形而上学でありたい。…「フラフラ」していて原理を求めないのであれば、「既存の哲学体系(既成の秩序)」に決して対抗することはできず、周辺でぶつぶつ言っているだけである。ぶつぶつ言うことが趣味で、そのような身分が保証されているならば、それはそれで幸せなのかもしれないが…。

 

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http://square-daily.seesaa.net/article/318398479.html

 

形式としてのエッセー

現代ドイツの哲学には、「エッセーの思想」ともいうべき流れがある。ジンメル、初期のルカーチブロッホベンヤミンあるいはアドルノといった人々によって担われた流れである。

体系哲学を志向し、方法意識に固執することで、思想は無批判で是認的な形態に堕落してしまう。そうならないために、「形式としてのエッセー」が要請されているのである。

思想としてのエッセーとは、文芸批評や時事批評と同じように、まさにそのときどきのはかない状況において発動し、そこにおいて消滅する思想である。

ジンメルは歴史と理性との関係について正面から議論しない。彼はみずからのエッセー的な語り口において、継承への信頼を表明するだけである。

いずれにせよ、エッセー的な語りを通したジンメルの教えがある。それは一切の些末な現象を、ジンメル言うところの「存在の内の切片」を、哲学のうえで切り捨ててはならないという「哲学的文化」の教えである。

「そのときどきのはかない状況において発動し、そこにおいて消滅する」エッセーが、体系哲学に対する批判たりうる、それは魅力的なメッセージではある。それは確かにそれなりの効力を持つだろう。でも体系哲学(それが本当にあるのかどうか知らないのだが)は、それで揺らぐことはあるまい。