気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

クオリア(4) 説明のギャップ

金杉武司『心の哲学入門』(7)

「物的一元論」は誤りであるとする主張する議論に、「想定可能性論法」と「知識論法」があった。金森は、このいずれの論法も、論証としては不十分であると言っている。(私には、いずれの論法も、そしてそれが不十分であるという金森の主張も理解できないのだが…。クオリア(2)(3)参照)

しかし金森は、物的一元論の正しさが論証されたとも言っていない。

物的一元論クオリア問題を解消するには、少なくとも、物的一元論の正しさの論証の見通しを示す必要があるように思われる。しかし、以下に示すように、それが可能かどうかには議論の余地があるように思われる。

心の状態は一般に、物理的刺激や身体運動と、必ずしも直接的ではないが、因果関係をなす。そのような心物因果を理解可能にするには、

・心の状態は特定のタイプの脳状態と同一であると考える心脳同一説

・心の状態はさまざまなタイプの脳状態によって実現されている機能的状態であると考える機能主義

のどちらかを支持することが、最も簡単明瞭な解決策だった。

このように心物因果が理解可能になるという限りでは、物的一元論が正しいと考えるべき根拠がないわけではない。この限りで、クオリアに関して物的一元論が正しいことの「説明」がないわけではないのである。しかし、この意味での「説明」に対して、少なくとも一見する限りでは、ある種の納得し難さが残るというのも否定できないように思われる。

では、クオリアのケースに感じられる「納得し難さ」とはなにか。

これを説明するために、金森は「同一性」について解説している。まず、水とHOの同一性について。

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https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Water_droplet_blue_bg05.jpg

水とHOの同一性の説明は、次のように再構成できる。まず、水が持っている様々な性質が特定される。そして、それらの性質はすべて何らかの因果的役割に分析される。例えば、「(1気圧では)100度で沸騰する」と言う性質は、「100度まで加熱する」という原因によって、「気化を始める」という結果を引き起こす、という因果的役割に分析される。そして今度は、このような因果的役割を果たす性質を持つミクロ的な実体が探し求められる。そしてHOという分子構造を持つミクロ的実体の一群がそのような性質を持っているということが確認される。それゆえ、水とはHOに他ならないと納得のいく形で結論できるのである。

このように、まず一方の性質を因果的役割に分析し、そして他方の性質がそれらの役割を果たすことを示す、という2段階による同一性の説明は、水とHOの同一性のみならず、物理的なもの同士の間の同一性一般に当てはまる説明であるように思われる。

金杉が言いたいことは、最後の文章すなわち「一方の性質を因果的役割に分析し、そして他方の性質がそれらの役割を果たすことを示す、という2段階による同一性の説明は、物理的なもの同士の間の同一性一般に当てはまる説明である」ということだろうと思う。しかし、これはどういう意味なのだろうか。これは、「ある物M1があって、それは、A→Bという性質を持つ。他にA→Bという性質を持つ物を探したらあった。その物をM2とするなら、M1=M2である。」という意味なのだろうか。もしそうなら(そうでないなら、どういう意味なのかわからない)、私はこれは「同一性」と言う言葉の使い方がおかしいと思う。数ある性質のうち、たった一つの性質が同じであれば、他の性質をすべて無視して、M1=M2などと言えるはずもない。集合M1のすべての要素が、集合M2のすべての要素と等しくなければ、M1=M2とは言えないだろう。

水とHOの例でいえば、水には、(水が多義的概念であることを無視しても)水道水、雨水、海水、純水、重水、地下水、下水…いろいろあるが、どれを想定しているのだろうか。また、「通常の水は 1H216O であるが、重水は水素の同位体である重水素(デューテリウム: D, 2H)や三重水素トリチウム: T, 3H)、酸素の同位体 17O や 18O などを含む。なお通常の水はH216Oが99.76%からなるが、H218O 0.17%、H217O 0.037%、HD16O 0.032%などの水もわずかながら含まれている。」(wikipedia)とあるが、HOと一括りにして、軽水と重水を区別せず、「同一性」を論じて良いのだろうか。

 

しかし「物理的なもの同士の間の同一性」は、話の本筋ではない。金杉が述べようとしていることは、クオリアに関する説明の「ある種の納得し難さ」である。

現象的状態と脳状態の間の同一性は、このように説明できるようには思われない。それはまさに現象的状態に備わるクオリアという性質(質的な特徴)を因果的役割によって分析しつくすことはできないように思われるからである。このように、現象的状態と脳状態の同一性を説明しようとしても、その間には「説明のギャップ」がどうしても残ってしまうように思われるのである。

ここで、現象的状態というのは、以前の説明からすれば、「特有のクオリアが意識に現れる心の状態」という意味である。金杉は、ここで「クオリアは因果的役割によって分析できないので、心の状態と脳状態が同一であるという物的一元論の主張は納得できない」と言っているように思われる。