浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

演技

北川東子ジンメル-生の形式』(13)

芸術と大衆

ベルリン、1912年。ウンターデンリンデン通りのオペラハウスでは「ドン・キホーテ」がかかっている。古典的だ。劇場前の垂れ幕が冬の冷たい風にあおられてひらめくなかを、人々が着飾って次々と馬車で劇場前に乗り付けてくる。…きらびやかなロココ調の装飾をほどこされたこの劇場は、優雅な芸術愛好家のための場だ。人々は、芸術の真の享受のために集まっている。…ここには幸いなことに、大衆はいない。(後年スペインの社会哲学者オルテガが、「いたるところにあふれ押し寄せる」と言った大衆)。だが、ここには、名前を持たず、顔を持たない人々はいないのだ。確かに、芸術にとっては社会的地位も名前も問題にはならない。しかしそれは、社会的背景の明確な人々が名前と地位をひとときの間忘れたということであって、そうした人々が、かってのベルリンのサロンにおけるように、ひとつの共通の芸術的目的のために集まっている。

芸術の領域においては、大衆化はおよそ不可能なのだ。芸術の本質についての洞察は、民衆にではなく、「個性的法」の担い手たる天才的な人々にのみ許されている。これこそ、芸術が持つ反社会的な性格であり、その「社会的な悲劇性」である。芸術は一般大衆のものではない。

芸術が、文芸や美術や音楽や演劇や映画などのうち、一般大衆がアクセス困難な領域を指すものだとすれば、定義によりそこには大衆はいない。一般大衆がアクセス容易なものになれば、それはもはや芸術とは呼ばれず、娯楽と呼ばれるだろう。それは文芸や美術や音楽や演劇や映画の形態をとっていようと、ただ即物的な快楽のための道具となっているのである。大衆とはつねに愚昧なのであり、大衆は芸術を理解することはない。

 

感覚化の次元

優れた作品が優れたかたちで演じられるときには、それは美しい様式化された統一性を持っている。演技によって私たちの前に示されてくるのは、断片的な現実ではない。ひとつの統一であり、ひとつひとつの動作や台詞がすべて意味づけられており、位置づけられている世界である。

演劇が芸術である意味は本来そこにある。つまり、まさしく現実を離れていることによって、現実に介入する視点を鍛えてくれることに。現実は、否定できない実在感を伴って経験されるのだが、しかしそれがなぜそのような特定の感覚印象を伴うのか、その意味については私たちは教えてもらえない。現実は、「感覚印象の謎めいた固定化」と思われる。それに対し、演技は感覚を自由に創造的に用いる。感覚印象に意味を与え、ひとつの点へと収斂させ、統一性のもとに秩序立てる。

…すべての演劇の恐ろしさはそこにある。つまりわれわれに演じることの深遠な謎と同時に現実感覚の不安定さを教えてくれるところにだ。ちょうどシェークスピアの時代に、父王の亡霊を演じた乞食役者がそうであったように。かくも王らしく、これまで存在した現実の王の誰よりも王であることをよくわきまえている人が、実は乞食役者にすぎないということ。そして乞食役者である者こそが、真の意味で王であることをなしえること。王と乞食役者――わたしたちの現実では決して結びつくことのできないふたつのことが、演技のなかで結びついてしまう。

乞食役者である私は、王を演じることができる。これまでに存在した汚れた王の誰よりも、真に高貴な・その名にふさわしい王を、これまでに存在したことの無い真の王を、演じることができる。それは私が乞食であるからに他ならない。

わたしは、自分をこのわたしだと思っているが、しかし、わたしでない別の誰かの代理人であるかもしれない。わたしは、彼の役を演じているにすぎない。わたしたちのなかにあって、他人にはありありと感じ取られる何かがあるかもしれない。そして、それは自分自身にはどうしても知りえない姿でありながら、どうしても演じることを運命づけられているような何かかもしれない。

「われわれは、不可避的に、われわれが本来それではないものを表現している。…われわれは皆、たとえ断片的にであっても、何らかのところで俳優なのである。」

私は意欲して演じているのではない。真実を隠蔽しようとして仮面をかぶっているのではない。私は生まれながらにして、DNAにより必然的に、無意識的に演じている。では観客は誰なのか。

 

世界の新たな創造

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 われわれはすでに始まってしまった世界と生に身を置いていて、もはやその経過を変更することはできないその経過に立ち会わされているにすぎない。だが芸術は違う。芸術ははじめから世界をもう一度創造してみせる。…現実を離れて芸術へと向かうこの境界的な体験は、芸術の本質を理解するのにもっとも重要だ。虚構へと向かう冒険的な体験、それこそ芸術が特別である理由なのだ。

 現実から離脱し、虚構へと向かうこと。そこにこそ創造がある。