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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

公共的価値と社会国家(1) 「誰も置き去りにしない」ために

齊藤純一『公共性』(9)

公共的価値と社会国家

「ニーズ解釈の政治」は、その充足を権利として要求しうるニーズの定義をめぐって争われる。新しいニーズ解釈は、民主的な意思決定の手続きを経て、そのニーズがやがて新しい権利へと翻訳されることを求めている。あるいは、すでに承認されている権利に新しい解釈が与えられることを求めている。この政治において重要なのは、ニーズが権利へと翻訳される可能性が予め断念されないことである。とはいえ、公共的空間における「ニーズ解釈の政治」がどれほど活性化するとしても、人々が提起するニーズ解釈のすべてが法的言語に翻訳されるわけではない。

ここで「権利」という言葉がでてくるが(詳細は、カテゴリー「読書ノート」の「法哲学」で今後検討したいと思う)、ここでは、「一定の利益あるいはその利益を守ろうとする意思が、法によって承認され、その実現について国家機関、とくに裁判所による保障を与えられているもの(日本大百科全書)」と理解しておこう。そうすると、例えば「格差を縮小する」ために、所得税率を見直すというような税法改正要求は、「ニーズの定義」をめぐる争いと言えるだろう。法改正がなされれば、それは「ニーズ解釈」が法的言語に翻訳されたということである。

ニーズの中には、私たちが生きていくうえで切実なものであるにもかかわらず、そもそも権利には翻訳しがたいものがある。権利とは強制的な実現を他に迫るものであるが、例えば強制された愛情、強制された友情、強制された思いやり、強制された尊敬はいずれも語義矛盾でしかない。M.イグナティエフが『見知らぬ者たちの必要』において、一方で提起しているのは、現代の社会=福祉国家が公共的に対応しえていない、そうしたニーズの問題である。

権利に翻訳しがたいニーズ(愛情、友情、思いやり、尊敬)を「公共性」とは関係のない私的なものとして切り離すのではなく、公共的言説のなかに取り込み、法的言語に翻訳する努力というものが必要ではないかと思う。例えば、「容疑者」の実名報道は、全く「思いやり」がなく、人格を著しく傷つけるものであると思う(裁判で有罪が確定するまでは犯罪者ではない)が、なぜ問題視されないのだろうか。

「私たちは権利を保有する生き物より以上の存在であって、人格には権利よりももっと尊重されてしかるべきものがある。今日、行政当局が示す善意とは、人格としての個人の品位を貶めておきながら、個人の権利は尊重するということであるらしい。例えばこの国[イギリス]で最も設備が整った刑務所や精神病院では、服役者や入院患者たちは適切な衣食住を与えられているといえる。…権利に参入されるこうしたニーズは、多かれ少なかれ尊重されてはいる。だが、起きている間ずっと彼らは、目つきや身振りや処遇の中に、管理する側がひそかに抱いている侮蔑を依然として感じとってもいる。私の住まいの戸口の見知らぬ他者たちは、確かに福祉を受ける権利を持っている。しかし、こうした権利を管轄する役人から果たして彼らが相応の尊敬と思いやりを受けているかどうかは、全く別の問題である。」(イグナティエフ

「私たちは権利を保有する生き物より以上の存在であって~」というのは、おかしな日本語である。原文は知らないが、「人格には、法によって承認・保障が与えられている以上のものがある」という意味か。…例えば、生活保護の受給資格を判定する担当官は、申請者に「相応の尊敬と思いやり」(なぜ、このようになったのかを思いやる心)をもって接しているかどうか。申請者をひそかに軽蔑していないかどうか。

 

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新宿駅 http://pds.exblog.jp/pds/1/200803/07/50/c0146550_198525.jpg

 

イグナティエフは、「友愛、愛情、帰属感、尊厳、尊敬」を権利には翻訳しがたいニーズとして挙げながら、それらが「公共的言説」のなかで繰返し人間にとって切実なニーズとして提起されることを求める。つまり、制度上の公共的な対応はかなわないとしても、なおも人々の間で応答がなされるべきニーズとして不断に確認されていくことを求めるのである。権利化しえないという理由で、そうしたニーズが公共的空間における「ニーズ解釈の政治」の土俵そのものから排除され、私的な願いや望みへと放逐されることを恐れるわけである。

格差が、「権利には翻訳しがたいニーズ」と関連していることに思いを致すべきだろう。格差問題が、「ニーズ解釈の政治の土俵そのものから排除され、(格差解消が)私的な願いや望みへと放逐される」のは、市場経済自由主義経済)である限り致し方ない、というような冷酷・非情な態度をとることは、私たちのコミュニティの責任ある一員とは思われない。

 

本書の関心にとってこれと同じくらい重要なのは、イグナティエフが他方で、現代の社会=福祉国家に制度化された「見知らぬ者たち」の間の非人称の連帯を評価しているということである。

「見知らぬ者たちのニーズと彼らの権原は、私と彼らの間に沈黙の関係を設定する。私たちが郵便局で一緒の列に並ぶとき、老人たちが年金小切手を現金化すると同時に私の所得のごく一部が、国家の数知れない毛細血管を通じて彼らのポケットに移転される。私と彼らの関係が何ものかに媒介されているという性質を持っていることは、私たちのどちらにとっても必要不可欠のように思われる。彼らはあくまでも国家の世話になっているのであって、直接に私の世話になっているのではない。」(イグナティエフ

「見知らぬ者たちの間の非人称の連帯」というのは、面白い言い方である。…年金を含め「保険」が、「助け合い」の制度であることが忘れられているような気がする。健康保険で言えば、健康な者から病気になった人への所得移転である。「見知らぬ者たちの間の非人称の連帯」の制度である。但し、保険給付を受ける者を、「国家の世話」になると言うのは適切ではない。私たちは、保険に関するルール(法)を定め、その運用を法で定めた機関に委ねているのである。「お世話」になっているのではない。

国家が媒介する非人称の連帯のメリットはまず、人称的な関係(世話する者と世話される者)につきまとう依存・従属の関係が廃棄されるという点にある。「国家の世話になる」人々は、特定の誰かの世話になっているわけではないがゆえに、(少なくとも権利上は)誰かへの遠慮のゆえに声を呑みこむ必要はない。非人称の連帯は、その連帯の果実を享受する人々をなおも政治的存在者として処遇することができる。さらにこの非人称の連帯は、自発的な連帯ではなく強制的な連帯であるというメリットを持っている。ある人がどれ程の嫌われ者であろうと、また「世間」から見てどれほど「異常」な振る舞いをしていようと、その人は生きるための資源を権利として請求することができる。この強制的連帯は、自発的なネットワーキングが排除する人々をもカバーすることができる。社会国家が、非人称の強制的連帯のシステムとして形成されたことの意義は忘れられるべきではないだろう。

私的な保険のシステムは、独自のルールを定め、そのルールに従わないものの参加を認めない。参加するか否かは本人の自由であり、自己責任で対処すればよい。彼が野垂れ死にしようが、自殺しようがそんなことは一切関係ない。彼は「置き去り」にされてしまう。しかし「強制的」連帯のシステムは、(理念としては)「誰も置き去りにしない」。