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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

自分の言葉で評することの放棄 → 芸術批評という胡散臭い職業の成立

読書ノート アート

岡田暁生『音楽の聴き方』(3)

音楽を「する」「聴く」「語る」の分裂

岡田は、「芸術批評」と言う胡散臭い職業が、一体どういう経緯で生まれてきたのかについて書いている。

封建時代の芸術創作は顧客(王侯ならびに教会)による芸術家の丸抱えであったのに対して、18世紀の後半になると新興市民[ブルジョワ]が鑑賞者/購買者として台頭してきた。ただし彼らはお抱えの芸術家など持てないし、そもそも成り上がりの新興ブルジョワたちには審美眼などあまりなく、何を買えばいいか分からないことも多かったろう。そこで生まれてきたのが、芸術のマーケットとジャーナリズムである。

成り上がりの新興ブルジョワは、金儲けのテクニックにはすぐれていても、審美眼などない。そんな教養を身につける暇などなかっただろう。

産業革命以後の社会システムの最大の特徴である「分業」が、音楽の世界でも生じ始めたのだという言い方も出来るかも知れない。つまり音楽における「する」「聴く」「評する」の分離である。…19世紀に入るとともに、ショパンやリストなど、専らプロだけを想定して作曲された演奏至難な曲が激増する。彼ら[アマチュア]の楽しみの領域は、「自分で弾く」ことから、「本職の演奏を恭しく拝聴させていただく」ことへと移動し始めた。…だが近代の聴衆が放棄したのは、「すること」だけではない。かっての王侯貴族が作曲家に向かって自分の意見や要求を堂々と口にしていたのとは対照的に、18世紀の後半から生まれてきた市民階級の音楽愛好家は、最初から――拍手ないしブーイングを除いて――自分の意見を直接音楽家に伝える手立てを持っていなかった。自分の目や耳で判断し、自分の言葉でそれを評する手間と権利を、聴衆はジャーナリズムに外注せざるを得なかったのだ。かくして一種の隙間産業として、「いいもの」と「悪いもの」の区別を教えてくれる仲介者が登場してくる。それが芸術批評家である。図式的に言うなら、近代の聴衆は自分で音楽を奏でる楽しみはプロの演奏家に、音楽を評する権利はプロの批評家にそれぞれ委譲し、自分は専ら「享受」する。安楽椅子に深々と腰を掛けて、葉巻をくゆらせながら情緒に浸るという役割に、特化するようになったわけである。

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https://en.wikipedia.org/wiki/Art_criticism#/media/File:Gabriel_Cornelius_von_Max,_1840-1915,_Monkeys_as_Judges_of_Art,_1889.jpg

 

これは音楽に限らない。芸術一般に言えることではないかと思われる。(今日では、「スポーツ」や「政治」等々、批評家・評論家が幅を利かせている世界すべてに言えるのではないか)。…しかし、現代のブルジョワ(富裕層)は、リベラルアーツを学び、批評家たらんとしているかもしれない。そしてその子女には、「する」ことに参加させる。

「社交界のエリート[批評家]は、芸術家を公衆に引き合わせ、彼らに『この人は名声と栄誉に値する』と保証してあげる役割を果たしているのだ。…上の方で良しとされたものは、ジャーナリズムの間で非常に長い間賞賛され続け、下にいる公衆のところでも結局いいものだと信じられるからである。」(1842年、音楽新報。シューマンが編集主幹)

良かったのか悪かったのかについての判断を、近代の聴衆は有力者/ジャーナリズムに委ねた。…往々にして評価は音楽と関係のないところで決められるようになる。この時代の音楽会では賄賂が横行し、おまけにプロの「さくら」までいたのだ。…一方に音楽の神格化、他方に音楽の詐欺商売化――こうした両極端が同時進行し始めたのが、近代の音楽界であった。

いろいろな分野に、<作曲家(作家、制作者)-批評家(評論家)-公衆(市民、消費者)> の図式を当てはめるのは危険だが、批評家気取りの公衆には要注意だろう。