浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

功利主義 幸福(快楽と苦痛の欠如) 望ましいもの

加藤尚武『現代倫理学入門』(1)

川本隆史の『現代倫理学の冒険』を読んでいこうと思っていたのだが、ちょっと先走りしすぎなので、「基礎」から始めることにしたい。

加藤は、最初に「人を助けるために嘘をつくことは許されるか」とか、「10人の命を救うために1人の人を殺すことは許されるか」とかから始めている。イントロとして適当と考えたのだろうが、これを検討していると変な方向にいきそうなので、「功利主義」を説明している部分からみていこう。

ベンサム(Jeremy Bentham 1748-1832)は、功利主義を次のように説明している。

自然は人類を苦痛快楽と言うふたつの主権者の支配のもとにおいた。われわれが何をしなければならないかを指示し、われわれが何をするであろうかを決定するのは、苦痛と快楽だけである。一方では善悪の基準が、他方では因果の連鎖がこの玉座に繋がれている。……功利性の原理とは、その利益が問題になっている人々の幸福を増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって、換言すれば、その幸福を促進するように見えるか、幸福に対立するように見えるかによってすべての行為を是認し、また否認する原理を意味する。

明快である。われわれが何をしなければならないかを指示し、われわれが何をするであろうかを決定するのは、幸福が増大するか否かによるというのである。「善悪の基準」と言うのは、「何をしなければならないかを指示する」ことを言い、「因果の連鎖」というのは、「何をするであろうかを決定する」ことを言っている。なお、「快楽」という言葉には、「官能的な欲望の満足によって生じる快感」の意味合いはほとんどない。もっと広い意味で、「快く、楽しいこと」という意味である。

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ミル(John Stuart Mill 1806-1873)は、ベンサムに大きな影響を受けたのだが、功利主義について次のように書いている。

功利あるいは最大幸福原理を道徳の基礎として受け入れる信条に従えば、行為は幸福の促進に役立つのに比例して正しく、幸福に反することを生み出すのに比例して悪であると主張される。幸福とは、快楽と、苦痛の欠如とを意味し、不幸とは、苦痛と、快楽の喪失とを意味する。……快楽と、苦痛からの自由とが、目的としての望ましい唯一のものである。すべての望ましいもの(それは功利主義体系のなかでは、その他のどんな体系とも同じようにたくさんある)は、それ自身に内在する快楽のために、あるいは快楽を促進し苦痛を阻止する手段として、望ましいものである。

ベンサムとほとんど同じである。幸福(快楽と苦痛の欠如)が、「目的としての望ましい唯一のもの」という表現に注意しておこう。ミルのいう「すべての望ましいもの」とは何か。加藤はこう説明している。

ここに言う「すべての望ましいもの」というのは、善、正義、自由、平等、人間愛、自己犠牲、知性、芸術性というような、あらゆる「望ましいもの」を含んでいる。望ましいものが何であっても、結局は「快楽と、苦痛からの自由とが、目的として望ましい唯一のもの」である。ミルの考えによれば、最大幸福原理と平等原理が矛盾するはずはない。最大幸福原理と平等や公正はほとんど同じ内容だと彼は思いこんでいた。

上にあげられたように、善、正義、自由、平等、人間愛、自己犠牲、知性、芸術性など、「望ましいもの」はいろいろあるが、結局は幸福(快楽と苦痛の欠如)が、「目的としての望ましい唯一のもの」であるというのである。

加藤が挙げている「望ましいもの」のリストは、加藤のものかミルのものか知らないが、ここで「幸福」と「望ましいもの」がどういう関係にあるのかを確認しておくべきだろう。…(1)「幸福」は最上位の概念ではない。幸福の下に「善、正義、自由、平等、人間愛、自己犠牲、知性、芸術性等の望ましいもの」が位置するのではない。(2)「幸福」は「善、正義、自由、平等、人間愛、自己犠牲、知性、芸術性等の望ましいもの」の中の「最も望ましいもの」ではない。(3)「幸福」は「善、正義、自由、平等、人間愛、自己犠牲、知性、芸術性等の望ましいもの」のなかにある。それらの「望ましいもの」に「内在する」。しかし、考えても見よ。「善」のなかに「快楽(「楽しみ」の意味)」が存在するか? 「正義」のなかに「快楽」が存在するか? 「自由」のなかに「快楽」が存在するか? …「知性」のなかに「快楽」が存在するか? 「芸術性」のなかに「快楽」が存在するか? 単純に「存在する」とは言えない(勿論、存在しないとは言っていない)。(4) 「善、正義、自由、平等、人間愛、自己犠牲、知性、芸術性等の望ましいもの」は、「快楽を促進する手段として、望ましいものである」。ここでは、「望ましいもの」が、「快楽(楽しみ)」を促進する「手段」であるという。「快楽(楽しみ)」は、「目的」なのである。このように「目的-手段」の関係で考えてみると、ミルの言い分は何かおかしなところがあるような気がする。「快楽(楽しみ)」を「目的」とするのは良い。しかし「手段=望ましいもの」のなかに「快楽(楽しみ)」が内在するから、つまり「目的」が内在するから「望ましい」とするのはおかしくはないか。(私はミルを読んでいないので、上の引用文だけからの意見である)

ベンサムもミルも、この原理は幾何学の公理と同じようなもので、この原理自体は証明できないが、誰でも実際上は受け入れていると主張(心理的功利主義)する。快楽は望ましく、善であり、苦痛は望ましくなく悪である。誰もこのことを否定しないだろうと、ベンサムやミルは言う。

「公理(系)」は、誰もが受け入れているとは限らないだろう(平行線公理を他の公理で置き換えた非ユークリッド幾何学)。また「善」「悪」という言葉の理解、使い方は要注意だろう。価値判断抜きの言葉で置き換えるならば、「手段の目的適合性」で議論できるのではなかろうか。目的適合的であれば「善」、目的適合的でなければ「悪」と言っても良いが、道徳の色合いを含めないのであれば、こんな言葉を使わないほうが良いと思う。