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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

志向性(3) 信念や欲求は、言語のような仕方で何かを表象するのか?

金杉武司『心の哲学入門』(9)

私はいま、ラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』を同時に読み進めている。テーマはいずれも「心と物」である。ラマチャンドランのほうは非常に面白い。神とかいろいろ持ち出してきているが、結局のところ、心というのは脳(物)の働きなのかなと思わせるところがある。しかしこの金杉のほうは、心というのは脳(物)の働きなのだと言いたいのではないかと思うのだが、その説明が難解である。常識的な知見を背景に、言葉のみを操作しているような印象を受ける。心というのは脳(物)の働きで説明できないのだろう、と思わせるところがある。これは私の誤読による印象論かもしれない。…しかし、まだ本書の半分しか読んでいない。後半を読み、「あ、そういうことだったのか」と思いたいものである。

 

前回の復習から。…金杉は「志向性」の説明で、「言葉は、志向性を持つ」、即ち「言葉や絵は、何かを表わしている(表象する)」。また「信念・欲求・感情・知覚といった心の状態も、何かを表わしている」と言っている(志向性(1)参照)。そして、「信念・欲求・感情・知覚といった心の状態は、言語のような仕方で何かを表象するのか、のような仕方で何かを表象するのか」と問い、「多くの論者」は、「信念や欲求のように、表象内容を「~ということ」と表現できるタイプの心の状態は、言語のような仕方で何かを表象している」と考えているという。なぜかというと、

命題は、「~ということ」という言葉で十分に言い表すことができる。(A)

からであるという(志向性(2)参照)。

「命題」とは何であったかというと、

「~ということ」と表現される、信念や欲求の表象内容は、しばしば「命題」と呼ばれる。

そうすると、(A)の文章は、

「~ということ」と表現される、信念や欲求の表象内容は、「~ということ」という言葉で十分に言い表すことができる。

にならないか。トートロジーのように聞こえるが、誤解だろうか。

 

また、信念・欲求・感情・知覚といった心の状態が、言語に類するものであることを示唆する、より強い根拠として、次のような我々の能力があるという。

人はふつう、剛は慎吾に電話したということを考えることができるならば、慎吾は剛に電話したということも考えることができる。これは、剛は慎吾に電話したという信念1を持っている人は、必ず、慎吾は剛に電話したという信念2を持っている、ということではない。そうではなく、信念1を持つことができるならば、信念2を持つためにさらに必要な能力は何もない、ということである。これは欲求などその他の命題的態度で考えても同様である。

なぜ、このようなことができるのか。

それは、命題的態度に構文論的構造があるからではないだろうか。この考えによれば、信念1は、「剛」「は」「慎吾」「に」「電話した」という構成要素が文法に従って組み合わされているという構造を持ち、信念2もまた、「慎吾」「は」「剛」「に」「電話した」という構成要素が文法に従って組み合わされているという構造を持つ。それゆえ、信念1の構成要素を入れ替えるだけで、信念2の構造をつくることができる。だからこそ、信念1をもつことができれば信念2を持つこともできるのである。構文論的構造は言語にとって本質的なものである。それゆえ、以上の点は、命題的態度が言語に類するものであることを強く示唆するように思われる。

剛と慎吾の入れ替えの話は、構文論的構造という難しい言葉を使わなくても直観的に理解できる。しかし、私には「それゆえ、以上の点は、命題的態度が言語に類するものであることを強く示唆する」ようには思われない。信念1:「剛は慎吾に電話した」というのが、「信念」ではなく、「文」であれば、構文論的構造があるといえるだろう。しかし「信念」であれば、果たしてどうか。「信念」とは何か。常識的な理解であれば、「ある事柄についてもたれる確固として動揺しない認識ないし考え」(日本大百科全書)である。だとすると、「剛は慎吾に電話した」というのは、「剛は慎吾に電話した、という確固として動揺しない認識ないし考え」が「信念」だろう(確固として動揺しない認識ないし考えを持っていたとしても、実際には剛は慎吾に電話しなかったかもしれない)。前回の例で言えば、「雨が降っている」と言う信念は、「雨が降っている、という確固として動揺しない認識ないし考え」である(実際には、雨が降っていないかもしれない)。そのような「確固として動揺しない認識ないし考え」が、「構文論的構造」を持っていることを、剛と慎吾の例で了解できるだろうか。そのような認識ないし考えが、直観(絵画的なもの)に基づいている場合もあるからこそ、「論理的な命題」ではなく「信念」と称するのではないかと思う。

 

もう一度最初に戻り、<信念は、「~ということ」を表象している>、具体的に<雨が降っているという信念は、雨が降っているということを、表象している>という例文を考えてみよう。上述の信念の意味であれば、<雨が降っているという確固として動揺しない認識ないし考えは、雨が降っているということを、表している>。…やはり分からない。金杉はどういう意味で「信念」という言葉を使っているのか。「~ということ」とはどういう意味か。どうにも普通の日本語の文章とは思われない。

私の素朴な理解では、「雨が降っているという信念」は、事実(真実)がどうあれ、雨が降っていると確信している心の状態である。「雨が降っていると信じている」心の状態である。信念とは、Xと信じている心の状態である。そのXは、何らイメージを伴わない論理的推論かもしれないし、論理も何もない漠然としたイメージにすぎないかもしれない。そのように非常に幅があるのではないかと思う。

そうだとすると、「信念は、「Xということ」を表象している」と断定し、「言語のような仕方で何かを表象している」と言うのはおかしいと思うのだが、素人考えか。

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https://leecaijunyuystudio.wordpress.com/2012/01/18/nils-udo-art-in-nature/

 

金杉は、本節(命題的態度)の最後で、こう言っている。

命題的態度が構文論的構造を持つということは、「心とは何か?」という問いに対していかなる帰結を持つだろうか。

命題的態度と構文論的構造という言葉を置き換えてみよう(志向性(2)参照)。そうすると、

信念や欲求の表象内容にたいする態度が、語・文法構造を持つということは、「心とは何か?」という問いに対していかなる帰結を持つだろうか。

という問いになる。

一つには次のことが言える。すなわち、心脳同一説や機能主義が正しいと言えるためには、脳状態もまた構文論的構造を持っていなければならないということである。なぜなら、命題的態度は言語と同様に、それ自体に備わる内在的特徴として構文論的構造を持つと考えられるからである。それゆえ、命題的態度が脳状態にほかならないのだとしたら、脳状態もまた、その内在的特徴として構文論的構造を持たなければならないのである。

心脳同一説とは「各タイプの心の状態は、特定のタイプの脳状態と同一である」というものであった。そうすると、命題的態度なる「心の状態」が、語・文法構造を持つとするならば、脳状態もまた語・文法構造を持たなければならないということになる。

持つと言えるならば、それは心脳同一説や機能主義を支持する強い根拠となる。それでは、脳状態は実際に構文論的構造を持つと言えるのだろうか。持つと言えないとしたらそれはいかなる帰結を持つのだろうか。これらの点については、第4章第2節[消去主義]で詳しく扱う。

私には、命題的態度(信念)が構文論的構造(語・文法構造)を持つということが理解できないので、仮に脳状態が構文論的構造(語・文法構造)を持つことが証明できたとしても、心脳同一説を支持する強い根拠となるようには思えない。

 

(補足)

Q3:「欲求」は、「~ということ」と表されるのか?

A3:水が欲しいという欲求は、「水を飲みたい(あるいは、水を手に入れたい)という欲求」と表現されるべき。その表象内容は、水を飲むこと(あるいは、水を手に入れること)と表現されるべきだろう。

マズロー欲求段階説というものがある。1)生理的欲求、2) 安全の欲求、3) 所属と愛の欲求、4) 承認(尊重)の欲求、5) 自己実現の欲求。物質的・具体的欲求であれば、語・文法構造があるかもしれないが、精神的・抽象的欲求となると、かなり微妙になってくるのではなかろうか。…欲求とは「Xと欲している」心の状態であると考える。「どんな欲求であれ、Xが語・文法構造を持つ」とは言えないように思う。

Q4:信念や欲求以外に命題的態度はないのか? 感情知覚はどうなのか?

A4:感情には、例えば戦争がなくならないことに対する悲しみのように命題的態度であるものと、正広に対する愛情のように命題的態度でないものがあると考えられる。…正広を愛するという感情の表象内容は、正広という対象であって、命題ではないのである。…一見すると、知覚の表象内容も「~ということ」と表現できるように思われる。…しかし、そのように「~ということ」と表現してしまうと、抜け落ちてしまう微妙な質的要素もあるように思われる。知覚の表象内容は、そもそもそのように言語的に表現されるべきものではないのではないだろうか。…ここでこの問題に対して回答を示すことは控えておこう。

感情の表象内容に一部に命題的態度でないものがあり、知覚が命題的態度といえるかどうか疑問があるのならば、先ほどの「脳状態が構文論的構造を持つと言えるならば、それは心脳同一説や機能主義を支持する強い根拠となる」という言明はどうなるのだろうか。

Q5:何かが成立していると考えたり、何かが成立することを欲したりするときに、頭の中にイメージが浮かぶことがある。イメージは絵画的なものなので、それらの信念や欲求は命題的態度でないと言えるのではないか?

A5:微妙な問題であるが、そのときの信念や欲求の表象内容を「~ということ」と表現できるのならば、それらはあくまでも命題的態度であり、頭の中に浮かぶイメージは、それらの命題的態度そのものではなく、その付随物に過ぎないように思われる。また、表象内容を「~ということ」と表現できないのならば、そこには「信念」や「欲求」と呼べるようなものはなく、単に頭の中に非命題的なイメージが浮かんでいるだけではないだろうか。いずれにせよ、頭の中のイメージの存在は、命題的態度でないような信念や欲求の存在を含意するものではないように思われる。

「頭の中に浮かぶイメージ」は、命題的ではなく、非命題的なイメージかもしれない。それが「付随物に過ぎない」としても、「信念」や「欲求」を構成するものであると考えられないだろうか。そのような「付随物」を含めたものが「心的状態」なのではないか。そこから、(論理的な)命題のみを抽象して(非命題的なイメージを捨象して)、語・文法構造があると言われても、ちょっと違うのではないかと思う。

これまでの議論は、心の状態のうち、言語に近いものを取り出してきて、言語のような仕方で何かを表している、と言っているように聞こえるのだが、素人考えか。

「音楽家や詩人や画家」の「信念や欲求や感情や知覚(心的状態)」も、文のような、語・文法構造を持っているだけなのだろうか。