浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

社会国家の変容(1) 社会的連帯のレベル

齋藤純一『公共性』(11)

「社会国家」という言葉を、(厳密には違うかもしれないが)「福祉国家」と同じ意味と理解しておこう。

社会国家が資本制経済の進展を条件として、それが惹き起こすさまざまな負の効果への対応として成立したという事情をまず踏まえておきたい。社会保険は、労働災害や失業など資本主義がたえず生み出す弊害に対して、リスクを個人化するのではなくリスクを集合化することによって対処する制度として生まれた。それは、そのまま放置すれば労働市場から脱落し、生存そのものが危うくなる人びとの生を社会の成員全体によってサポートするという連帯の思想を含んでいる。むしろ、社会保険の制度化に結実していく諸々の実践が社会的連帯という観念を育んでいったとみるべきかもしれない。

日本の社会保険には、以下のようなものがある。

社会構成員の生活を保障するため,疾病,死亡,老齢,失業などによる困窮を救済するために,政府など公的部門が一定基準による給付を行なうための保険。したがって集団保険であること,公的保険であること,強制保険であることにその特色がみられる。(ブリタニカ国際大百科事典)

社会保険には、医療保険介護保険・年金保険・雇用保険労働者災害補償保険の種類があります。医療保険には国民健康保険・健康保険の2種類があり、また年金保険には国民年金、厚生年金の2種類があります。(公務員には共済年金等類似のものがある。)

重要なことは、保険とは、「リスクを個人化するのではなく、リスクを集合化する」ものであること、簡単に言えば、困った時に助け合うための仕組みである。「自己責任」だと言って、放置しないことである。それは「人びとのを社会の成員全体によってサポートする」(連帯)ということである。この点はしっかりと押さえておきたい。

社会国家がどのように進展し、それを擁護する思想がどのように現れてきたかを逐一辿る必要は無いだろう。社会国家の理念を道徳的に正当化する思想が頂点に達したと思われるのは、ロールズの『正義論』においてである。…人びとが、自然的な偶然性(能力・才能等)あるいは社会的な偶然性(事故・病気等)のゆえに不利な境遇に追い込まれるのは「道徳的な観点から見て恣意的であり」、そうした境遇を許容することは正義に適っているとはいえない。ロールズが提起する正義原理は、市場の正義――「能力に開かれたキャリア」を保障する正義――が、市場から人びとが「淘汰」され、劣悪な境遇に追い込まれていく事態を正当化していることへの批判を核心に含んでいる。実質的な機会の平等化をはかる「公正な機会の平等の原理」、現下の労働市場にはマッチしない能力を持つ人びとの境遇をより良いものに改善しようとする「格差原理」が表しているのは、まさしく社会的連帯の理念にほかならない。

ロールズについては、いずれ別の記事で検討することにして、深入りしないことにしよう。…「カネ儲けの才能」が無ければ、不利な境遇に追い込まれる。ストレスで「うつ病」になり、解雇され(退職し)、生活が困窮する。いったいどれほどの人がこういう状況に苦しんでいることだろう。しかし、「市場」の正義は、そういう事態を正当化する(問題視しない)。

社会国家は、互いに見知らぬ人びとの間に形成される「想像の共同体」である。人びとが、現実における互いの隔たりや違いにもかかわらず、この想像の空間をリアルなものとして感じうるということが社会的連帯の条件の一つである

ナショナリズムを検討する際には、恐らくベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』を外せないだろうが、ここはそういう場ではなく、単に「空間」と言い換えても良いだろう。「互いに見知らぬ人びとの間に形成される空間」をリアルなものとして感じうるということが社会的連帯の条件の一つである。日本人ならば、その空間が「日本国」であるのは当然である。…しかし、「互いに見知らぬ人びとの間に形成される空間」を拡張してみよう。グローバルなコミュニティである。そのグローバルなコミュニティが「リアルなものとして感じうる」かどうかである。感じることができるならば、そこにグローバルな「想像の共同体」が成り立つだろう。

ロールズのように、正義に適った社会は人びとの間に「正義感覚」を育んでいく、社会国家は社会的連帯の感覚を人びとの間に涵養していくとするのが、たしかに理論的にはスマートである。しかし、現実の社会国家が遂行してきたのは、社会的連帯の感覚を集合的(国民的)アイデンティティの感覚によって裏打ちするというプロジェクトだった。公教育、公共放送、公式行事などによって「われわれ」という表象を不断に喚起し、補強するプロジェクト、戦争や対外危機のアピールによって「われわれ」の感情を強力に充填するプロジェクトなどである。歴史を振り返れば、社会国家は国民国家と重なり合い、社会的連帯の範囲は国民国家の境界と一致してきた。日本で「国民皆保険運動」が推し進められたのは「国家総動員法」が施行された1938年のことであり、それは、社会国家のwelfareと国民国家のwarfareとの結びつきを示す典型的な事例である。大づかみに言えば、この1世紀の間に「社会的なもの」と「国民的なもの」は密接に結び付き、公共性は両者が融合した空間のなかにがっちりとはめ込まれてきたのである。

互いに見知った人びとからなる空間(家族、地域社会)から、「互いに見知らぬ人びとの間に形成される空間」へ。それは「正義感覚(助け合い)」からの拡張ではなく、「国民国家」がまずあり、そこから「強制された連帯」(公教育、公共放送、公式行事による)が生じたというのが歴史的経緯である。「国民皆保険」は「健康な兵士」を育成するのに寄与した。…ということか。

「社会的なもの」と「国民的なもの」とが融合した条件下における人びとの連帯の特徴は、次のようにまとめることが出来るだろう。

第1に、単一の統合された国民の社会(national society)に属しているという感情が形成される。社会的連帯は国民的連帯と等号で結ばれ、経済的格差等のさまざまな相違にも関わらず一つの国民」という表象が分かち持たれる。

「経済的格差等のさまざまな相違にも関わらず」、なぜ「同じ日本人」という意識を持てるのか。テレビがない状況を考えてみよ。それでも、なぜ「同じ日本人」という意識を持てるのか。戦前はテレビがなかった。その時代に、「同じ日本人」と意識させるものは何であったか。「同じ日本人」として、戦争(他国人を殺すこと)に駆り立てたものは何であったか。

第2に、その連帯は社会国家=国民国家に媒介されたものである。人びとは互いに直接の応答責任を負うわけではない。責任は集合化・抽象化され、その集合的責任は国家に対する義務へとしばしば翻訳される。国家への忠誠が国民の生存の名のもとに語られるのは、このコンテクストにおいてである

「互いに見知った人びと」による助け合い(連帯)から、「互いに見知らぬ人びと」による助け合い(連帯)…それを可能にしたものは、理念(正義感)ではなく、「富国強兵」の国策であった。これは日本だけのことではなく、どの国でも同じだった。(…で間違いないのかな?)

いまや連帯(助け合い)は、国家により強制されたもの(義務)に転化している。だから、(健康保険や年金の)保険料はできるだけ少なく、給付はできるだけ多く、というわけである。そこに倫理(連帯の精神)はない。医療や年金にカネのかかる老人は死すべきなのである。他人のカネをあてにしない老人のみが生きていて良い。

第3に、人びとの連帯は基本的に一次元的である。「サバイバル・ユニット」(ノルベルト・エリアス)――自らの生の保障(生存や安全など)が基本的にそこにかかっているとみなされる空間――はひとえに国家であって、家族、地域の共同体、民族的・宗教的集団などはかって占めていた「サバイバル・ユニット」としての地位を失う(近年の国民国家の動揺によってこれらの集団は「サバイバル・ユニット」として再発見されてきている。)

「サバイバル・ユニット」というのは面白い言い方だが、こんな言葉を覚える必要はないだろう。私には「助け合いの空間」とか「社会的連帯のレベル」といったほうが適切であるように思われる。…近年までは、それが「国民国家」であったが、いまやそれが揺らいできているということなのである。

もう一つ大きな問題は、これまで「社会的連帯のレベル」が「国民国家」にとどめられていて、グローバルなレベルになりえていないということである(遅々とした歩みはあるのだが)。だからと言って、ローカルを問題ではないというのではない。

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 http://albertopoloianez.deviantart.com/art/Live-Together-Die-Alone-115363231

 

「一つの国民」(日本人)という観念は、極めて強固なものである。しかし、素直に考えてみよう。なぜ、「私は、日本人である」と言わなければならないのか? つまり、なぜ、「私は○○村民であり、それ以上のものではない」と言ってはならないのか? なぜ、「私は、グローバルなコミュニティの一員であり、それ以下のものではない」と言ってはならないのか? なぜ、「コミュニティには、家族から地球レベルのものまである。私は、そのすべてに属しているのであり、「日本」というコミュニティが特別に優位性を持っているわけではない」と言ってはならないのか? …いや、これは先走った。もっと丁寧に基本を押さえて議論しなければならないだろう。