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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

功利主義(2) エゴイスティックな「幸福の追求」

加藤尚武『現代倫理学入門』(2)

ベンサム対カント

加藤は、カントの考え方を次のように説明している。

カントはベンサムやミルの著作活動よりも前の人だが、「幸福の増大を道徳の原理とすることは絶対に間違いだ」と批判するに違いない。

  1. 道徳的行為は、利害を度外視しても「しなければならないこと」なのであって、幸福への要求やエゴイズムに基づくものではない。人間の心に快楽を求め、苦痛を避ける気持ちが「存在すること」は確かだが、「存在すること」から、「しなければならないこと」を導き出すことはできない。(存在と当為という論点)
  2. 人間の心には生まれつきの弱さがある。悪に向かう傾向がある。だから「望ましい」ことという実質的な願望の内容に即した原理では、苦痛を避け、快楽を求める気持ちが、どうしてもエゴイズムの原理、すなわち悪の原理になってしまって、道徳性の原理にはならない。道徳性の原理は、実質的でない形式的なものでなければならない。それは「君の格律が普遍的な立法の原理となるように行為しなさい」という命令の形をとる。(内容と形式という論点)
  3. 「正直の頭に神宿る(正直者に幸運が舞い込む)」とか、「情けはひとの為ならず」、「正直は最善の策」とかいうのは道徳性ではない。功利性の立場に立つ人がたまたま正直な振る舞いをすることがあっても、それは得になるというエサがある時だけで、身銭を切っても一肌脱ぐとか、水火を辞せずというわけにはいかない。「正直にすれば得になる」という打算的な正直は「~したければ、~するがよい」という仮言命法の形になる。道徳的な内容は、有無を言わさず、ひたむきに「正直であれ」と命令するものだから、無条件の命令という意味で「定言命法」の形になる。(仮言命法定言命法という論点)

カントが言うのは、「快楽を求め、苦痛を避ける」というのは、自分(と家族)が良くなればそれでよい、という利己主義(エゴイズム)に陥りやすいからダメだ。「正直にすれば得になる」という打算的な正直もダメ(こういう打算的な正直では、「不正直にすれば得になる」ときは、不正直な行為がなされるだろう)。そういう損得抜きで正直な行為(道徳的行為)をせよ。ということだろう。

私は、「功利主義」を、単純に「快楽を求め、苦痛を避ける」という意味に理解していては、カントの批判を免れないだろうと思う。功利主義」を支持するものは、「利己主義」ではないことを示さなければならない。さもなければ社会(道徳)の原理たりえない。(残念ながら、私には今の社会「利己主義」が蔓延しているように思える。)

加藤は、次のように言う。

カントは、すべての行為は「理性的で道徳的か、感覚的で非道徳的か」どちらかだと言う。…人間にとって葛藤とは義務かエゴイズムかの選択にすぎないとカントは考えた。…カントは、快楽の追求それ自体が悪だと言うのか。それとも快楽の追求だけを人生の目的だと考えると悪に対する歯止めがなくなると言うのか。…行為の価値は動機にあり、動機は理性的か感覚的かのどちらかだとカントは考える。この枠組みだと「自分一人の健全な楽しみ」と「他人の権利を侵害して追求する楽しみ」との区別がつかなくなる。快楽の追求それ自体がエゴイズムであり、それが他人の権利の侵害にならなくても、悪なのだ人間が自然な気持ちで求めることは悪だと思っているだから快楽の追求が善だという功利主義は、カントが絶対に認めない立場である。カントは道徳的な狂信を鋭く批判したが、彼の倫理学には善でも悪でもないという意味で、中立的で黙ってほうっておけるような行為がない。では神経質なカントが間違いで、世俗的なベンサム功利主義は正しいのか。

カントは、ここで加藤が批判しているようなことを本当に主張していたのだろうか。しかし、それはどちらでも良い。いろいろな概念(理性、感覚、道徳、行為の価値、エゴイズム、権利の侵害、善、悪、…)を、どういう意味で使うかにより、何とでも言えるように思う。ここでは「功利主義」と「利己主義(エゴイズム)」とは、異なるものだということを確認しておけば十分だろう。

 

倫理学は何を決めなければならないか

加藤は、倫理学の目的と課題は、次のようなものであると言っている。

どうしても決めておかなくてはならないのは、法律的・公共的に悪いと決められるものと、許されているものとの違いである。「してよいこと」と「して悪いこと」の違いを明らかにするのが、倫理学の目的であって、言葉を換えれば「許容できるエゴイズムの限度を決めること」が、倫理学の課題である。個人エゴもあれば企業エゴもある。地域エゴもある。エゴイズムの許容限度を決めて、私的な生活領域に対して干渉する公共的な領域の限度を決めなくてはならない。また社会福祉制度のような公共機関から私的生活への好ましい干渉の限度も決めなくてはならない。

倫理学の目的と課題がこれで十分なのかどうかという点を詮索する必要はない。入門者向けに「功利主義」を説明しているのであり、その際「エゴイズム」の理解が重要だということである。ただこの文章で気になる点が2つある。第1に、「個人エゴ」を「企業エゴ」や「地域エゴ」と並べていることである。「企業エゴ」や「地域エゴ」は、詳細な検討を必要とするものであって、「個人エゴ」と並べるのは妥当かどうか。第2に、「私的な生活領域に対して干渉する公共的な領域」とか「公共機関から私的生活への好ましい干渉」とかの「干渉」という言葉づかいである。この言葉には、「公共機関(政府、国家)は、本来私的領域に干渉すべきではないが、やむを得ない場合や、社会福祉においては干渉して良い」という響きがある。私はこういう言葉づかいをすべきではないと考える。「コミュニティはさまざまなレベルにおいて、さまざまなルールを定め、コミュニティの成員はそのルールに従い社会生活を営む」のだから、「干渉」というような悪意のある言葉を使うべきではない。

ひとつの行為を評価する視点は無数にある。…功利主義のすぐれた点は、行為の評価基準を行為の結果(効用)に置いて(帰結主義)、倫理学の第一の課題を立法の方法にあると決めた点である。国民にあまり純粋な動機を期待して立法をすれば、過酷すぎる悪法になってしまう。快楽と苦痛の導きによって国民が最低限の自発性を発揮するだけで、法秩序が守れるようにしないと、警察国家になってしまう。国民すべてに期待できる倫理的自発性の水準は、低ければ低いほど良い。すべての国民が特定のイデオロギーの狂信者にならないと維持できないような社会は危険である。

赤字にしたところを、読み返してみよう。「功利主義のすぐれた点は、行為の評価基準を行為の結果(効用)に置いて(帰結主義)、倫理学の第一の課題を立法の方法にあると決めた点である」。だが、「帰結主義」が、本当にすぐれているのかどうか、ここまでの記述ではわからない。今後、帰結主義の功罪の話が出てくるのかもしれない。

「快楽と苦痛の導きによって国民が最低限の自発性を発揮するだけで、法秩序が守れるようにしないと、警察国家になってしまう」…詳論なしにこんなことを言われても説得力がない。「国民すべてに期待できる倫理的自発性の水準は、低ければ低いほど良い」…これも同じ。詳論なしにこんなことを言われても説得力がない。「すべての国民が特定のイデオロギーの狂信者にならないと維持できないような社会は危険である」…教条主義全体主義を想定しているのであればその通りだと思うが、例えば「倫理的水準を高めるようなルール」を設定しようとすることが、「特定のイデオロギー」だと決めつけられてはならないと思う。

 

救命ボートの倫理

 「帰結主義」をどう考えるべきか。ここで「救命ボートの倫理」を取り上げるのは時期尚早だろうが、wikipediaの説明をみておこう。後日、検討する機会があるかと思う。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%91%E5%91%BD%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AE%E5%80%AB%E7%90%86#/media/File:Titanic_lifeboat.jpg

 救命ボートの倫理はギャレット・ハーディンが1974年に提案した、資源分配の比喩である。

ハーディンが用いた比喩は、60名まで物理的に乗りうる救命ボートに既に50人乗っている時、海に投げ出された人が100人いるとする。この場合、とりうる選択肢は以下のようなものが考えられる。

  1. 全員を乗せて、船は沈没する。
  2. 10人だけ乗せる。
  3. 良心に訴えて、海に投げ出された人のために救命ボートから何人かは降りてもらう
  4. 安全因子を考え無理に人を乗せず、全員見殺しにする。

彼は救命ボートに乗っている人を先進国、海に投げ出されている人を途上国の比喩とし、途上国を見捨てて安全確保を優先することを良しとした。(Wikipedia)

 

最小限の規制

加藤は、功利主義は「最低線の倫理」であるとして、これを評価している。

倫理には、最低線の倫理と最高線の倫理とがある。江戸時代の道学者と同じように、ストア主義者の完全主義は最高線の倫理であり、それを批判したカントの倫理ですらも、世俗的立法のためには高すぎる、ベンサム功利主義は、最低線の倫理である。この最低限度の倫理学がもたらした功績は、例えば重い量刑よりも軽い量刑の方がすぐれているという観点を明らかにしたことである。

刑罰に関して、応報刑主義の主流は、「目には目を」という同罰主義を取っていた。これに対して「見せしめ」にするという教育刑主義を採用すると、羊泥棒は縛り首というような過酷な量刑に歯止めがきかなくなる。応報刑主義をやめると、量刑の根拠がなくなってしまう。「最小限で十分な抑止効果」を量刑の根拠にするという観点を、功利主義は確立した。「規制しなければならない最小限の行為に抑止効果を持つ最小限の刑罰」という原則を裏返しにして、「その最小限の規制を除いて何をしてもいい」と言い直せば、自由主義になる。

このように結論だけを並べたてられても、加藤はそういうふうに考えているんだということしか分からない。これでもって、「功利主義」を評価することはできない(高評価も低評価も)。「量刑」の問題については、「法哲学」上の検討が必要なのではないかと思う。

 

次回は、有名な「豚とソクラテス」の話が出てくる。