気の向くままに

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志向性(4) クオリアの志向説とは?

金杉武司『心の哲学入門』(10)

今回は、第3節「志向性クオリア」である。

志向性と意識

金杉の文章には、「~ように思われる」が多用されているが、冗長なので以下それを省略して引用することにする。

われわれは非意識的な欲求や信念を持つことができる。これは、反省的意識を伴わないという意味でだけでなく、現象的意識を伴わないという意味でも認められることである。これは、ある心の状態が志向性を持つことにとって、現象的意識は必要ないということ、つまり志向性にとってクオリアは本質的でないということを意味するだろう。

現象的意識とは、「心の状態に特有のクオリアが意識に現れるという意味での意識」であり、「あの空の色や西瓜の甘味や歯の痛みなどの感じが意識に現れてくる」というときの意識をいう。(→2015/7/12 クオリア(1))

このような現象的意識を伴わない欲求や信念とは、特有のクオリアが意識に現れてこない欲求や信念である。簡単に言えば、具体的イメージの伴わない漠然とした欲求や信念のことだろう。

「ある心の状態が志向性を持つ」とは、「ある心の状態が、何かを表している」という意味だとすれば、「ある心の状態が志向性を持つことにとって、現象的意識は必要ない」とは、「ある心の状態が、何かを表すのに、特有のクオリアが意識に現れてくる必要はない」という意味になるだろう。金杉の表現はやたら難しく感じるが、「意識的でない欲求や信念」が、「具体的イメージの伴わない漠然とした欲求や信念」の意味ならば、あたりまえのことである。

金杉は、「非意識的な欲求や信念」の一例から、「志向性にとってクオリアは本質的でない」に一般化したいのだろうか。そんなはずはない。金杉はこう述べている。

もっとも、志向性を持つ心の状態の中には、つねにクオリアが伴うものもある。その典型は知覚である。知覚は志向性を持つと考えられるが、知覚においてクオリアが意識に現れていないということはありえない。つまり、知覚にとっては現象的意識が本質的である。これは、知覚の志向性が、欲求信念のような命題的態度の志向性と(特にその表象内容のありかたにおいて)異なることを示唆する。しかし、これは、志向性一般にとって現象的意識が本質的であるということを意味するわけではない。志向性そのものにとっては、意識はあくまでも本質的でない。

ここで金杉は、知覚と欲求や信念は違うと言いながら、なぜ「志向性そのものにとっては、意識はあくまでも本質的でない」と言えるのか分からない。なお、命題的態度とは、「命題すなわち「~ということ」と表現される、信念や欲求の表象内容に対する態度である。(→2015/11/28 志向性(3))。

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https://www.google.co.jp/search?q=Intentionalness%E3%80%80art&biw=1315&bih=918&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwi6mrHs0-LJAhVCxqYKHX22CvoQ_AUIBigB&dpr=3#imgrc=j4jATTnAbAsbDM%3A

 

クオリアの志向説

以上で述べたように、心の状態が志向性を持つために、クオリアが伴う必要はない。

金杉のここまでの記述は、「欲求や信念の中には、クオリアを伴わないものがある」ということだけではなかろうか。だとすると、なぜ「心の状態が志向性を持つために、クオリアが伴う必要はない」などと言えるのかわからない。

それでは逆に、心の状態にクオリアが伴うときには、志向性を持つ必要はあるのだろうか。もし必要があると言えるのならば、それは、クオリア志向性の一つのあり方として理解できるものであるということを意味するかもしれない。クオリアにとって志向性は本質的なのだろうか。それとも非本質的なのだろうか。

「心の状態にクオリアが伴うとき」というのは、上の記述からすれば、「知覚という心の状態」および「一部の欲求や信念という心の状態」のときに、クオリアが伴う。心が志向性を持つとは、「ある心の状態が、何かを表している」という意味だとすれば、上の文章は、<「知覚という心の状態」および「一部の欲求や信念という心の状態」にクオリアが伴う時、その心の状態は、何かを表わしている必要はあるのだろうか>という問いになる。

この問いに対する答えは、クオリアを、心の状態それ自体に備わる内在的特徴と考えるか、心の状態によって表象されている志向的特徴と考えるかによって変わってくる。

「内在的特徴」と「志向的特徴」という言葉は、どういう意味だったか。(→2015/11/2 志向性(2))

  • 内在的特徴…表象自体に備わる特徴
  • 志向的特徴…表象によって表象されている特徴

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内在的特徴と志向的特徴が、こういう意味だったとして、

クオリアを心の状態の内在的特徴[表象自体に備わる特徴]と考えるならば、クオリアを伴う心の状態が志向性を持たないと考える余地は残る。…クオリアを心の状態の志向的特徴[表象によって表象されている特徴]と考えるならば、クオリアを伴う心の状態に志向性がないということは考えられないクオリアが心の状態の志向的特徴であるにもかかわらず、クオリアを伴う心の状態に志向性がないというのは矛盾になる。したがって、この考え方によれば、クオリアにとって志向性は本質的であることになる。このようにクオリア一般を心の状態の志向的特徴と考える立場は、しばしば「クオリアの志向説」あるいは「クオリアの表象主義」と呼ばれる。

ではクオリアは、心の状態の内在的特徴か、志向的特徴か。

少なくとも、知覚クオリアに関して考える限りでは、クオリアの志向説がもっともである。知覚において我々の意識に現れてくるのは、知覚されている対象だけであり、それに加えて知覚体験そのものが意識に現れてくることはない。

金杉はこんな例をあげている。

赤いトマトを見ている時、我々の意識に現れてくるのは、赤いトマトであって、赤いトマトの知覚体験ではない。これはつまり、そのとき我々の意識に現れてくる赤さは、表象内容に含まれる志向的特徴としてのトマトの赤さであって、赤いトマトの知覚体験そのものが備える内在的特徴としての赤さではないということにほかならない。

赤いトマトの例ではその通りだろうと思う。これを「知覚」一般に拡張して言えることなのかどうか。(「知覚」の定義次第だろう)

知覚とは、一般的には,感覚器官を通して,現存する外界の事物や事象,あるいはそれらの変化を把握すること。広くは,自分の身体の状態を感知することをも含める。把握する対象に応じて,運動知覚,奥行知覚,形の知覚,空間知覚,時間知覚などが区別されるが,いずれの場合にも事物や事象の異同弁別,識別,関係把握などの諸側面が含まれる。(ブリタニカ国際大百科事典)

金杉は、「感覚」を「知覚」と区別して、次のように言う。

感覚クオリアに関しては議論の余地があるかもしれない。…感覚体験(ex.痛みの感覚体験)と感覚体験の対象(ex.痛みそのもの)という区別を認めることができるかどうかは必ずしも自明ではない。感覚の場合、我々の意識に現れてくるのは、まさに感覚体験そのものの内在的特徴である。

金杉は「クオリアの志向説」に肩入れしていると思いきや、次のように言う。

クオリアの志向説には議論の余地があるが、多くの一元論者がこのクオリアの志向説を支持する。それは、それらの論者によれば、クオリアの志向説が正しければ、次のように、クオリアを物的一元論のうちにうまく位置付けることができると考えられるからである。

クオリアの志向説すなわち「クオリア一般を、志向的特徴つまり表象によって表象されている特徴」と考えれば、クオリアを物的一元論のうちにうまく位置付けることができるという。

心の状態の志向性を説明するとは、心の状態がある表象内容を持つのはいかにしてなのかを説明するということである。そして、志向的特徴とは、心の状態の表象内容に属し、その内容がいかなる内容であるかを決めている特徴である。

前に、志向的特徴とは、「表象によって表象されている特徴」と説明されていた。ここでは「心の状態の表象内容に属し、その内容がいかなる内容であるかを決めている特徴」であるとされる。

したがって、ある心の状態がある表象内容を持つのはいかにしてなのかを説明できるとすれば(A)、心の状態の志向性を物的一元論の枠組みの中で説明でき(B)、クオリアが心の状態の志向的特徴であるとすれば(C)、クオリアを物的一元論のうちにうまく位置付けることが出来る(D)と考えられるのである。

金杉の文章は次のように読める。「心が何かを現しているのはどのような仕方においてか」を説明できるとすれば(A)、「心が何かを現しているということ(志向性)」を、「世界は物理的な存在のみによって構成されている」という物的一元論の枠組みの中で説明できる(B)。なぜこんなことが言えるのか、理解できない。(C)→(D)も同様に、なぜこんなことが言えるのか、理解できない。

金杉は、本節(志向性クオリア)の最後にこう述べている。

実際のところ、話はそう簡単ではない。そもそもクオリアを心の状態の志向的特徴として理解することに異論がまったくないわけではない。また、仮にクオリアを心の状態の志向的特徴として理解することに異論がないとしても、クオリアの志向説によってクオリアを物的一元論のうちに位置づけることができるかどうかは、とりわけクオリアを志向的特徴とするような心の状態の志向性を物的一元論のうちに位置づけることができるかどうかにかかっている。そして、それが可能かどうかは必ずしも明らかなことではない。さらに言えば、そもそも、心の状態の志向性は一般にいかにすれば説明できるのだろうか。それは、物的一元論の枠組みのうちで説明可能なものなのだろうか。この点もまた明らかではない

 

わからない。「クオリアを心の状態の志向的特徴として理解する」とは、どういうことだろうか。読み返してみたが、わからない。「異論」とは何なのだろうか。「入門書」なのだから、もっと分かりやすく書いて欲しいと思う。「そもそも、心の状態の志向性は一般にいかにすれば説明できるのだろうか。」…これまで、「心の状態の志向性」について説明してきたのではなかったのか??

次節は「志向性の説明」とあるから、説明があるのだろう。