浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

社会国家の変容(2) テロ予備軍を生み出す社会への道程(1)

齋藤純一『公共性』(12)

社会国家(福祉国家)は、いまどのように変容しつつあるのか。

社会国家を変容させているファクターは多岐にわたり、もとより国によっても事情は異なるが、その最大の要因は、「経済的なもの」と「社会的なもの」とが互いに背を向け始めたということである。第一次石油危機頃までは両者の間に幸福な関係が見られた。…社会保障は健康な労働力を育成・保全し、保険金の蓄積は経済投資の財源として用いられる、翻って経済成長は社会保障をさらに充実する資源をもたらすという構図である。しかし、低成長が常態化し、財政赤字が累積し、さらにグローバル化した経済環境のもとで不断の競争が強いられるようになると、社会保障は経済の良好なパフォーマンスにとっての足枷・重荷として見られるようになる。労働市場の柔軟化――つまり企業にとって「リストラ」しやすい条件の整備――や、資本逃避に対抗しうる「競争力のある」租税システムへの再編があたかも至上命題であるかのように語られるにいたる。「従来の過度に公平や平等を重視する社会風土」(!)は、「健全で創造的な競争社会」の構築を妨げてきた、と(「経済戦略会議」答申、1999/2)

本書『公共性』は、2000年5月発行であるが、その前年の1999年2月26日、「経済戦略会議」は、「日本経済再生への戦略」を答申した。「おわりに  活力と魅力ある日本の創造に向けて」から一部引用する。かなり以前の答申ではあるが、その基本的考え方は現在も変わっていないのではないかと思う。

日本経済はいま、「海図なき新たな航海」に旅立とうとしている。しかし、その眼前に広がる光景は決して暗黒の海ではなく、希望と活力に満ちた輝かしい未来である。

第1章から第5章にかけて提言してきた数々の構造改革を断行した暁の日本経済は、従来とは全く異なる新しい姿をみせるだろう。スリムで効率的な政府の下で自由闊達な競争が展開され、新しいビジネスや新規産業が次々と勃興する。国民一人一人が保護や規制から一人立ちし自己責任自助努力をベースとして自由な発想と創造性をいかんなく発揮することによって自らの生み出す付加価値を高めることが成長の源泉となる。新しい価値を生み出そうという一人一人の意欲と熱意、創意工夫の積み重ねが豊かさと競争力の源泉になる。個々人が個性や独創性を持ってリスクに果敢に挑戦する姿勢が高く評価され、その成果に対して正当な報酬が与えられる。そして、次世代を担う若者や今日の日本の発展を築き上げてきた高齢者も生き生きと希望を持って豊かな生活を営める…そうした社会が実現するはずである。

ともすれば、これまでの日本の経済社会は急激な変化を嫌い、弱者保護の名の下に既得権益の維持を優先してきた結果、既存秩序の枠組みは大きく崩れず、改革の歩みは遅々としていた。しかし、経済のグローバル化少子化・高齢化等の経済構造変化が予想を上回るスピードで進行するなかで、変化に対する後追い的な対応はもはや経済の活力を喪失させるだけでなく、将来への希望をも失わせかねない。1980年代前半の米国経済も双子の赤字と貯蓄率の低下、企業の国際競争力の喪失等、様々な問題を抱えていた。しかし、小さな政府の実現と抜本的な規制緩和・撤廃大幅な所得・法人減税等を柱とするレーガノミックスに加えて、ミクロレベルでの株主利益重視の経営の徹底的追求とそれを容認する柔軟な社会システムをバックに、米国経済は90年央には見事な蘇生を成し遂げた。最近でこそ、アングロ・アメリカン流の経済システムの影の部分も目立ってきているが、日本も従来の過度に公平や平等を重視する社会風土を「効率と公正」を機軸とした透明で納得性の高い社会に変革して行かねばならない。勿論、21世紀の日本が目指すべき社会は「弱肉強食」の無秩序かつ破壊的な競争社会であってはならない。それは、個々人の「選択の自由」と「失敗を許容し、再挑戦が可能な風土」に裏打ちされた真に安心できる社会でなければなるまい。(「経済戦略会議」答申)

答申が言う「過度に公平や平等を重視する社会風土を「効率と公正」を機軸とした透明で納得性の高い社会」に変革する政策遂行の結果、「若者や高齢者が生き生きと希望を持って豊かな生活を営める」ようになったであろうか。ここは政策評価をするのが目的ではないので詳しく検討する必要はないが、社会保障を「過度に公平や平等を重視」、「弱者保護の名の下に既得権益の維持」するものと捉え、「効率と公正」の名のもとに、「規制撤廃」、「法人減税」、「株主利益重視」をめざすものであることを確認しておきたい。

重要なのは、こうして「経済的なもの」と「社会的なもの」があからさまに離反し始めた結果、社会的=国民的連帯に深い亀裂が入ったということである。強力な梃入れをしない限り「一つの国民」という表象は成立しがたくなり、むしろ「二つの」国民、二種類の市民というイメージが醸成されてくる。人びとは、経済的に生産的なセクターと非生産的で福祉に依存するセクターとの二つに分断され、両者の間には、「ルサンチマンの政治」――といっても弱者が強者に抱くルサンチマンではなく、「強者」(真の強者では無く中産下層という「強者」)が、弱者に抱くルサンチマンだが――がつねに伏在することになる。

市民の多くは社会的連帯のためのコストを負担することへの抵抗感を強め、社会国家はマジョリティの支持を失っていく。社会国家は国民の統合ではなく、逆にその分断をもたらしてきたのではないかという見方が支配的になる。社会的連帯に対して抱かれる疑念・断念は、次のような対応をもたらす。

ルサンチマンとは「被支配者あるいは弱者が,支配者や強者に対してため込んでいる憎悪やねたみ」(大辞林)である。斎藤は、「真の強者では無く中産下層という強者が、弱者に抱くルサンチマン」と言っているが、果たしてどうだろうか。若年層が年金受給世代に不満を抱くことはあっても、「ルサンチマン」というほどのことはないと思う。不安定な、とりわけ非正規社員の「明日がわからない」生活をしている若年層には、老後のことは考えられないし、考えたくもないだろう。また斎藤は「市民の多くは社会的連帯のためのコストを負担することへの抵抗感を強め、社会国家はマジョリティの支持を失っていく」と言うが、私は、市民の多くは、年金制度をそもそも「社会的連帯のためのコスト」と理解していないのではないかと思う。元本が保証されない(目減りする)預金のようなものと考え、年金制度に不信を持っているのであろう。(但し、健康保険に関しては、それほどの不信はないだろう。病気になれば、すぐに恩恵を被ることが実感されるからである。)

リスクを集合化する社会国家のプログラムは、もはや理に適ったもの(合理的な計算にかなうもの)とはみなされないようになる。合理的と考えられるのは、リスクを脱-集合化し、それを個人で担うこと、生命の保障の根幹を社会国家に委ねるのではなく自らの責任において引受けることである。人びとは、自らの能動的な活動によって、つまりは労働市場において雇用される可能性をつねに維持し続けることによって、自らの生命を保障しようとする。ニコラス・ローズが的確に指摘するように、activityとsecurityとは緊密に結合するようになる。人びとは、自己自身の「企業家」(アントレプレナー)たること――自己という「人的資本」を弛みなく開発し、活用すること――を求められるわけである。そのように自己統治(self-government)をなしうることが能動的な個人の条件となる。そうした能動的な個人が、生き延びることを確実なものとするために、どれほどのプレッシャーに身をさらし続けなければならないかは問わないが。

現状は、「リスクを集合化する社会国家のプログラム[社会保障制度]は、もはや理に適ったものとはみなされないようになる」までには至っていないだろう。しかし、「経済戦略会議」答申が言うような方向すなわち「社会保障」を国家から民間へ、自己責任へという流れは、「財源」や「少子高齢化」を理由として強まることはあれ、弱まることはないだろう。

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他方で、国家の統治にとって課題となるのは、何よりもまず、「社会的なもの」が「経済的なもの」に加えてきた負荷を緩めることである。そのために、政府=統治が活用するのは、人びとの「自己統治」の実践である。それは二つの次元にわたる。

一つはいま述べた能動的な個人による「自己統治」である。個人が自らの雇用可能性と健康とを維持し、生命/生活の保障を自らの力で獲得するように働きかければ、それだけ国家の財政的コストは軽減される。

もう一つの次元は、コミュニティアソシエーションなどの中間団体による「自己統治」=「自治」である。コミュニティ――ここで言うコミュニティは地縁や血縁によるものだけではなく、宗教的・道徳的価値観やライフスタイルの共有などによるネットワーキングも含む――は、社会国家の非人称の強制的な連帯に代わり、より人称的で自発的な連帯を、つまり抽象的な社会的連帯ではなく、より具体的な「顔の見える」連帯を可能にする。コミュニティの自己統治(自治)は、国家の集権的・権威的・画一的な統治のあり方とは異なり、それに加わる人々により確かな連帯の感覚を与える。

コミュニティやアソシエーションとは、

アソシエーションとは、ある特定の関心を追求し,一定の目的を達成するためにつくられる社会組織。結社とも訳す。 R.M.マッキーバーはこれとコミュニティーとを社会集団の2類型として設定した。コミュニティーが一定の地域のうえに展開される共同生活を意味するのに対し,アソシエーションはそれを基盤としてそのうえに個々の人間の共通関心に従って人為的,計画的に形成される結びつきである。(ブリタニカ国際大百科事典)

会社・組合・サークル・学校・教会のほか,家族も含まれる。(大辞林

コミュニティやアソシエーションは、確かに「顔の見える」連帯を可能にするだろう。国家の集権的・権威的・画一的な統治のあり方とは異なり、それに加わる人々により確かな連帯の感覚を与えるだろう。「連帯の感覚」それ自体は悪いことではない。問題は、社会保障が「コミュニティやアソシエーションの構成メンバーのみ」に限定されることである。「顔の見えない連帯」を考慮しなければ「社会」が成り立たないということをはっきりと認識すべきである

なお、私は「コミュニティ」という言葉を、「地域コミュニティ」や「アソシエーション」はもとより、「グローバルなコミュニティ」という言い方で、非常に広い意味で使っている。それは「国家」というコミュニティを相対化したいと思っているからである。

市場における個人の自己努力・自己責任を強調するネオ・リベラリズムと自らの共同体へのコミットメントを重視する共同体主義――理論的には対極に位置するとみなされてきたこの二つの思想は、個人の生においても、統治の戦略にとっても、切り離しがたく結合しつつある。

ネオ・リベラリズム共同体主義が、「個人の生においても、統治の戦略にとっても、切り離しがたく結合しつつある」という指摘は、覚えておきたい。「ハーバード白熱教室」で有名になったサンデルコミュニタリアニズム共同体主義)は、ネオ・リベラリズムに近いのだろうか。いずれ考えてみたい。

国家の統治は、このように「統治の統治a government of government」(ミチェル・ディーン)とでもいうべき形態をとり始めている。つまり、国家にとって個人やコミュニティは統治の客体である以上に自己統治=自治の主体であり、国家の統治はそうした自己統治を積極的に鼓舞し、促進するという形態をとるようになるのである。

OECDは、80年代末か90年代初頭にかけて「福祉国家から能動的な(活力ある)社会へ」(from welfare to active society)という方向転換を盛んに提唱した。「能動的な社会」という言葉は、自己統治を実践しようとする人々のエネルギーを最大限に活用しようとする統治の新しい戦略を端的に言い表している。

OECDがそういう提言をしていたとは知らなかった。日本でも「持続可能な活力ある社会」とか「一億総活躍社会」とかいっているが、from welfare to active societyの意味で言っているのではないか、気をつけなければならないと思う。(「持続可能な活力ある社会」や「一億総活躍社会」の内容を知らないで言っているので、的外れかもしれないが)