浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

法システムの構造と機能(3) 「権利」とは何か? 「法」があるから「権利」があるのか?

平野・亀本・服部『法哲学』(7)

前回の復習。権利とは、

法によって一定の資格者に対して認められる、一定の利益を主張しそれを享受できる力を指す。言い換えれば、人が自己の意思に基づきある物事を行なったり行なわなかったりすることができる、法によって認められた資格・能力が権利と呼ばれるものである。(服部)

広くは、一定の利益を享受しようとする意思、あるいは利益そのものが権利であるとする考え方があるが、一般に、法あるいは法規範との関連において、「一定の利益あるいはその利益を守ろうとする意思が、法によって承認され、その実現について国家機関、とくに裁判所による保障を与えられているもの」と説明される。(本間)

本間は、この定義では次のような問題が残ると言う。

  • 法があるから権利があるのか、たとえば自然法上の権利道徳的権利は権利ではないのか?
  • 裁判で認められなければ、つまり裁判以前には権利はないのか?

「権利」を自然法、道徳、裁判との関係でいかに把握すれば良いのか。服部は次のように言っている。

そもそも「政治的権利」や「道徳的権利」という言い方がしばしばなされるように、権利は法的なものに留まらない広がりを持つ観念である。…実定法体系が整備された近代以降の社会では、法的権利が権利概念の中核を占めることは間違いない。諸々の基本的人権も、普遍性・不可譲性などの道徳的性質を備えてはいるものの、究極的には司法的保護・救済を請求する権限となりうるという点で、法的権利としての基本的属性を備えている。とはいえ、司法的救済を受けうるものだけに正規の権利としての資格を付与するのでは、権利の概念として狭きに失するであろう。むしろ、現代社会における権利は、道徳的・政治的レベルから法的レベルにまたがる、幅広い存在形態を持つものと理解すべきである。かっては法的意味を認められなかった道徳的権利の主張が、徐々に人々の道徳的意識において広い支持を得て、やがては司法的保護・救済を受けるに至るということもありうるからである。法が様々な社会領域へのチャネルを維持しながら多様な展開・様相を示す現代社会においては、権利は様々なレベルにまたがる動態的な生成発展過程を示すのである。

というのも、そのように考えるならば、権利侵害が生じる以前から存在し、人びとの日常的行動を規制している実体的な「第一次的権利」と、権利侵害に基づき裁判所に損害賠償や差止命令などを求める「回復的権利」とを区別し、いずれをも権利の正規の存在形態として認める見解は、今日の権利の存在形態を適切に捉えているといえるだろう。

こういう問題は、抽象的に言葉だけをひねくりまわしていても分からない。豊富な具体的事例を知っていないと判断を誤ると思う。それでも素人なりに少し考えてみたい。

 

まず、道徳的権利について。「道徳」とは何か。簡便な辞書によれば、

ある社会で,人々がそれによって善悪・正邪を判断し,正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく,個々人の内面的原理として働くものをいい,また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。(大辞林

道徳が「個々人の内面的原理として働く」としても、「社会」で「正しく行為する」ための規範であるとするならば、何をもって「規範」と称することができるのかは、必ずしも明確ではない。規範によって「善悪・正邪」を判断するというが、そのような規範は、「法」規範ではないとしたら、各人が(勝手に)思いえがく規範になるのではないか。それでも「普遍性」があるものが「道徳」だと言う向きもあるようだが、何をもって普遍的であると言えるのかは明確ではない。

服部は、法規範を、①義務賦課規範(一定の作為・不作為を義務付ける法規範、及びそれと従属的な関係にある法規範)、②権能付与規範(法的に有効な行為を行なう権能を付与する法規範)、③法性決定規範(一定のカテゴリーにどのような現象を帰属させるべきかを規定する規範)に区分していた。(→法システムの構造と機能(1))。

では道徳的「権利」に関連する「法規範」は、このうちどれに該当するだろうか。①は「義務」なので違う。②が該当するかと思うが、この規範の内容は「自己の所有物を他人に譲渡する権能、契約を締結する権能、遺言をする権能、裁判官を任命する権能などの権能を付与する権能である」と説明されていた。そうすると、道徳的「権利」に相当する法規範は無いということになるのだろうか。

服部は、「かっては法的意味を認められなかった道徳的権利の主張が、徐々に人々の道徳的意識において広い支持を得て、やがては司法的保護・救済を受けるに至るということもありうる」と書いているが、この「道徳的権利」として、具体的にはどのような権利を想定しているのかよくわからない。

 

次に、自然法上の権利について。「自然権」とは何であるか。長尾龍一は、次のように述べている。

自然権とは、自然法上の権利をいい、実定法上の権利に対立する。日本の自由民権運動の時期には「天賦人権論」と訳された。自然権の思想を典型的に表したものは、1776年のアメリカ独立宣言であり、「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる」とあるのがそれである。権力がこの自然権を侵した場合には、自然法上の抵抗権が生ずる日本国憲法が「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」(11条)と宣言しているのも自然権思想の表れである。

自然権の思想的根拠としては、神が与えたものとするキリスト教思想と、人間は人間としてこのような権利をもつとする世俗的自然法論とがある。自然権の内容、範囲については歴史的に変化しており生存権自由権、幸福追求権のほかに参政権や抵抗権をあげる者もある。国家による以上の諸権利の侵犯に対しては国民に抵抗権があるとして、抵抗権を認める者でも、何が悪法かという認定権を各人に無制限にゆだねる者は少ない。ホッブズは社会契約説にもかかわらず、生命防衛権だけは譲渡しえない(不可譲性)と考える。抵抗権を正面から認める思想家としてはアルトゥジウスやロックがいる。

他方、自然権の存在を否定する思想家もあり、実証主義とよばれる。彼らによれば、憲法上の人権保障も実定法がつくりだした保障であり、法が変わればもはや存在しないとする。さらに実証主義の論拠にも、自然権は認識できないという理論上の論拠と、自然法思想は社会秩序を危うくする危険な思想だという実践上の論拠とがある。(長尾龍一、日本大百科全書)

自然法は実定法ではない。いま問うているのは、自然権(自然法上の権利)は、「実定法」によって認められていないから「権利」でないのか、というものである。生存権自由権や幸福追求権は、「権利」ではないのかという問いである。

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(胎児の生存権と中絶の権利) http://abortsa.com/images/11.b.jpg

 

 もう一度、本間の「権利」の説明を見てみよう。「一定の利益を享受しようとする意思、あるいは利益そのものが権利であるとする考え方がある」と言っている。この考え方に従えば、「生存」「自由」「幸福」は、「一定の利益を享受しようとする意思、あるいは利益そのもの」であり、「権利」と考えることができる。しかし、他者のことを考えないで、自分(や家族)のみの「生存」「自由」「幸福」を追求していては、「社会」は成り立たない。自分は「生存」「自由」「幸福」を求める。他者も「生存」「自由」「幸福」を求める。ならば、他者の「生存」「自由」「幸福」を侵害しない程度に、自己の「生存」「自由」「幸福」を求めても良いだろう

しかし、「生存」「自由」「幸福」は極めて抽象的な言葉である。どういう場面・状況において、この言葉を用いるか千差万別である。従ってこれを「自然権」と称しても、その概念内容に関して合意を得られたものとは考えられない。それゆえ、「自然権」と称することには根拠があるわけではなく、それを「自然権」と称することは、「神により与えられた権利である」と主張するものの如く聞こえる。

このように見てくると、長尾が述べている「法実証主義者」だと言われるかもしれない。だが、そういうラベリングはどうでも良い。私の考えを要約すれば、①「生存」「自由」「幸福」等の価値を認める。それは、自己にとっても、他者にとっても重要な価値である。②私たちの社会において、それらの価値を追求するためには、民主的な手続によりルール(法)が定められなければならない。というものである。(民主的な手続がどういうものであるか、まだ一言も述べていないが)

したがって、「権利」とは、「一定の利益あるいはその利益を守ろうとする意思が、法によって承認され、その実現について国家機関、とくに裁判所による保障を与えられているもの」(本間)と考える。本間の第1の問いには、次のように答えよう。(勿論、今後いろいろな人の考えを知れば、考えが変わるかもしれない。)

  • 法があるから権利がある。たとえば自然法上の権利、道徳的権利は、「権利」と称すべきではない。

服部が、「現代社会における権利は、道徳的・政治的レベルから法的レベルにまたがる、幅広い存在形態を持つものと理解すべきである」というのには賛同できない。実定法に定められていない価値を主張することは良いが、それを「権利」と称するのは「法的権利」との混同を招き、混乱するだけである。