気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

社会国家の変容(3) テロ予備軍を生み出す社会への道程(2) Gated community & ghetto

齋藤純一『公共性』(13)

国家の統治の課題となるのは、第二に、雇用の流動性という「経済的なもの」にとってのメリットを維持しながら、労働市場から排除された人々に――従来のようにコストをかけずに――対処することである。

「雇用の流動性」とは、解雇規制の緩和、派遣社員やパート・アルバイトの雇用調整弁機能を指す。労働コストが変動費化できれば、経営サイドにとっては確かにメリットである。不況等による解雇や雇止めにより、失業者となった者にどう対処するか。私たちはどう対処してきたか。ここでは詳論できないが、斎藤の言うように、「従来のようにコストをかけずに」(社会保障財源の問題があるため)対処しようという流れにあるようである。

それは2つの異なったレベルに分かれている。一つは、労働市場から一時的に脱落した人人びとに「能動性」を取り戻させ、再び active society [能動的な(活力ある)社会]のメンバーに復帰させることである。

具体的には「職業訓練」がある。

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http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/shokugyounouryoku/training_worke/

 失業者には、技術習得やスキルアップのためのさまざまな機会がふんだんに提供される。つまり失業者は、与えられた機会を活かすことが出来るかどうかを試されるわけである。失業給付は、失業者がどのようなパフォーマンスを示すかによって左右されるものとなる。勤務に至る福祉 (welfare- to-workfare)という標語にもうかがわれるように、社会権の一部は、どのような振る舞いをするかに関わりのない権利であることを実質的にやめ、自らを改善しようとする意欲を示す時だけに得られる条件付きのものに変り始めているのである。

ここに、workfare という言葉が出てきた。どういう意味か?

ワークフェア(workfare)とは、労働(work)と福祉(welfare)の合成語である。1968年にアメリカで考案されて以来、時代を経るに連れて新しい意味を持つとともに、イギリスを中心にヨーロッパに普及するなかで異なる文脈のなかで用いられるようになった。また近年の日本の自立支援政策にも影響を与えている。ひとまず広く捉えると、既存の福祉に労働を結び付けることによって福祉制度さらには福祉国家を改革するための言葉であり、労働の義務を持ち込むことによって福祉の権利やそれを求める運動を封じ込めるための言葉といえる。(小林勇人)

http://workfare.info/kh/200902.htm

「自立支援」なのか「封じ込め」なのか、その判定には、政策の「目的」に即した(恐らくは価値判断に関わる)検討が必要だろう。

また、「社会権」という言葉も出てきた。社会権とは、

人間に値する生活を営むために国民が国家に対して保障を要求する権利。ワイマール憲法で初めて規定され、日本国憲法は、生存権、教育を受ける権利、勤労権、勤労者の団結権団体交渉権などを規定している。(デジタル大辞泉

斎藤が言うように、「社会権の一部は、どのような振る舞いをするかに関わりのない権利であることを実質的にやめ」たかどうかは、具体的に法や政策をみなければ何とも言えないが、「勤務に至る福祉(welfare- to-workfare)」という標語が出てくること自体、福祉削減の動きを示していると言えるような気もする。

しかし斎藤がここで特に言いたいことは、このようなことではなく、次の事態であろう。

より深刻なのは、そうした能動性のテストにパスしない人々に対する処遇の変化である

もちろん彼/彼女たちには、一応の「社会的セ-フティ・ネット」が用意されてはいる。彼/彼女たちは、例えば生活保護=「公共扶助」を受けることによって生存を維持していくことは出来るだろう(といっても、それも身元を証明できる国民に限られているが)。しかし、問題は、社会がアクティブなものに変化するならば、彼女たちの社会的位置づけ、彼らに対する表象も大きく変化するということである。第1に、そうした人びとは、自己統治の能力を欠いた、あるいはその意欲のない人びととして表象されるだろう。つまり、無能で無用な人びととして、第2に、彼らは単に「余計者」としてだけでなく、社会の秩序を潜在的に脅かす「リスキー」な人びととしても表象されるだろう。

就職の意思がありながら就職できない人(失業者)が、どれだけ辛い思いをしているかを想像すると胸が痛む。やむを得ず「日雇労働者」、「派遣労働者」、「パート・アルバイト」として働いている人(就業と失業の繰返し)、そして「ニート」(※)も同様である。さまざまな事情でそうなっているわけだが、彼らは決して精神異常でも、言葉が話せないのでもない。私には能力の差はほんの僅かであると思えるのだが(→2015/3/20 誇張された差異、先入見、観察の理論負荷性)、彼らは「無能で無用な人びと」とされる。彼らの努力にもかかわらず、先を見通すことができず、楽しみや安らぎを見いだせないとき、行き着く先は「自暴自棄(刹那的に生きる)」か「自殺」か「反逆」しかない。そして「反逆」はテロに結びつく。彼らは「社会の秩序を潜在的に脅かすリスキーな人びと」とされる。

(※)ニート(Not in Education, Employment or Training, NEET)とは、就学、就労、職業訓練のいずれも行っていないことを意味する用語であり、日本では、15〜34歳までの非労働力人口のうち、通学しておらず、家事を行っていない「若年無業者」をいう。wikipedia

ニコラス・ローズ(1947-、イギリスの社会学者)は、そうした人びとが英米において「半永続的で、準犯罪的な社会層」とみなされ始めている事情に注意を喚起している。彼らは、フーコーのいう規律権力の対象ではもはやない。すなわち、矯正を施され、更生することを促される個々の身体ではもはやない。彼らは規律の対象ではなく、リスク管理の対象となる。つまり、社会の「安全」に脅威を与えないよう、できるだけ低いコストで一括して管理されるべき対象となる。

「潜在的な秩序破壊者」は、「リスク管理の対象」となる。すなわち「リスク」が顕在化しないよう、常に監視される存在となる。

例えば、イギリスの「犯罪多発地域」が監視カメラの濃密な網の目で覆われていることが最近知られるようになってきた(瀧井宏臣)。リスク管理」の主要な方法は、底辺層を一括して都市空間の一部に隔離し、監視の網の目で封じ込めることである。この事情を衝撃的に描き出しているのはマイク・デイヴィスの『クォーツの都市』である。彼によれば、ロサンゼルスに住む人びとはいま社会的・空間的に明確に分断されている。一方で富裕層は「ゲイティド・コミュニティ」(塀で覆われ、セキュリティ・サービスを購買する住宅地)に象徴される安全な空間に自らを囲い込み、他方潜在的な犯罪者とみなされる貧困層は、市警察が監視する「ゲットー」に押し込められる。セキュリティの空間とリスクの空間は互いに遮断される。かって異質な人びとが入り交じり合う空間であったメトロポリスはいまや等質な「飛び地」に断片化し、民主的な公共空間はそこから駆逐されてしまった、というのである。

貧困層には、選択の自由はあるのだが、家賃の安いアパートに居住せざるを得ない。これは、彼らを都市空間の一部に強制的に隔離するのと同じ結果となる。そこで一括して(効率的に)管理することができる。

 

ゲイティド・コミュニティ (Gated community)

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https://en.wikipedia.org/wiki/Gated_community

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http://blog.livedoor.jp/estect/archives/968030.html

芦屋の不動産屋ブログ『芦屋Walker』より。

芦屋市の一番南、南芦屋浜で物件調査をしていると、突如2m程の高い塀が現れます。これは『ベルポート芦屋』というヨットハーバー付きの分譲宅地。ここはその街自体が塀で囲まれた日本で初めての『ゲーテッド・コミュニティ(要塞の街)』。甲子園のグランドの1.5倍の敷地の周囲には塀と赤外線センサー・監視カメラがあり、ゲートには24時間体制のガードマンが…。この写真を撮っている時も、ガードマンがこちらをチラチラ警戒してました。

 

ゲットー (ghetto)

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http://www.danhagerman.com/images/Bronx%20Ghetto.jpg

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https://www.google.co.jp/maps/place/34%C2%B038'52.9%22N+135%C2%B030'02.9%22E/@34.6480115,135.5021348,3a,75y,112.02h,90t/data=!3m6!1e1!3m4!1sX7gGumzhNyGD6SfBpxrbrQ!2e0!7i13312!8i6656!4m2!3m1!1s0x0:0x0

大阪あいりん地区の一画である。風景だけではなかなか真実が見えてこない(意外とすっきりしていて、衰退している地方都市の風景より賑やかにさえ思える)。ズームインすると、簡易宿泊所の文字が見える。

 

ゲットーとは、

この用語は、16世紀初期にイタリアのベネチアにあったユダヤ人地区に対して使用されたのが最初で、このイタリア語の語源はヘブライ語の「絶縁状」を意味するgetに由来する。歴史的には、中世ヨーロッパの都市制度のもとで、法律によって他の住民から隔離されたユダヤ人居住区をさし、通常、周囲を壁で囲まれ、外の世界に通じる一つか二つの門は夜には鍵が下ろされたフランス革命の影響でしだいに廃止された。第二次世界大戦ユダヤ人絶滅のためにナチス・ドイツによって設けられた強制収容所もまたゲットーとよばれた。現代ではユダヤ人が自発的に選択ないし建設した地域についても使われ、アメリカの都市ではユダヤ人以外の移民などが最初に居住するスラム街を、たとえば「イタリア人ゲットー」というようによぶこともある。

 しかし今日のアメリカ合衆国におけるゲットーとは、黒人ゲットーである。これは「内部都市」とか「中央都市」ともよばれる都市中央部の、黒人居住率がたいへん高い地域で、貧困や失業、劣悪な住宅、その他社会生活全域にわたる不均等が集中的に現れ、スラム街の側面を強くもつ。しかし、中世ユダヤ人と違い、法律によらないで隔離された黒人ゲットーは、中心をなす、南部農村から移住して都市化した黒人労働者階級のほかに、富裕な、あるいは中産階級的な黒人も住んでおり、かならずしもスラムとはいえない。歴史的には、従来あった黒人の小居住区を核として、第一次世界大戦期、北部や中西部の大都市や工業都市に、階級支配と人種的偏見、それに対する黒人の自立と団結のための自己防衛措置の結果形成されたものであり、確立期アメリカ独占資本主義の産物である。その後も、南部農業の機械化などによって土地を追われた黒人の都市化により、いっそう強化、拡大された。[竹中興慈、日本大百科全書]

ゲットーがこのような意味であれば、先のゲイティド・コミュニティは、富裕層ゲットーと呼べるかもしれない。

ドイツはベルリンのクロイツベルク区にはトルコ系移民(イスラム教徒)が集中しており、トルコ人ゲットーと呼ばれることがあるそうである(内藤正典『ヨーロッパとイスラーム』、本書については、テロとイスラ-ムの関連で、いずれ取り上げる予定)。

 

社会的空間の分断

この都市空間の分断という見方は、現代のメトロポリスにおける都市の公共性という考え方に疑問を投げかけるものである。階級や宗教や人種やライフ・スタイルを異にする多種多様な人びとが交渉しあう、ハイブリッドな空間は確実に失われつつあると見るべきだろう。

人びとが生きる空間が切断されてきていることは、公共性にとっては大きな脅威である。社会的空間の「分断」という条件は、立場を異にする者たちの間の政治的コミュニケーションを妨げ、別の空間を生きる人々に対する無関心や、歪んだ表象をもたらしていく。ある空間を生きる人びとが提起するニーズ解釈や不正義に対する訴えは、別の空間を生きる人びとにとってはまったく現実味を持たないだろう。人びとが日々生きる空間の分断は、共通世界の共通性を失わせ世界のリアリティそのものを分断するからである。

メトロポリスは、本当に「かって異質な人びとが入り交じり合う空間であった」のだろうか。それは理念だけだったような気もするが、不勉強なのでよく分からない。しかし、富裕層と貧困層の断絶が、「共通世界の共通性を失わせ、世界のリアリティそのものを分断する」のは確かであるように思う。お互いに何を考えているのか分からず、分かろうともしない

異種混交のコミュニケーションの空間であるという公共性の条件は、諸々の等質な「飛び地」への空間の分断によって脅かされる。アメリカやヨーロッパの大都市における、主に人種・エスニシティによる「居住地の分断」は実際深刻なものになっているが、いかに社会的空間の分断化を避けるかは政治的な生にとってきわめて重要な問いである。仮にインターネット上の「公共性」が現実の空間のギャップを橋渡しする可能性を幾分かは宿しているとしても、異なった社会的条件を生きる他者に現実に接するチャンスが失われていくなら、人びとがそれに関心を抱く<間>は偏狭なものにならざるを得ないからである。

インターネットがどれほどの力を持ちうるのか、楽観的にならず、かといって悲観的にもならず、その可能性を検討しなければならない。

ともあれ、「リスキー」な底辺層に対する監視を含め、public security (治安・公安)への関心が、social security (社会保障)への関心の衰退とちょうど反比例する仕方で強まりつつあることは確かである。少なくともこの点では、日本にもほぼ同じ傾向がみてとれる。1999年に治安・公安の機能強化を図る一連の法制化がなされたことは記憶に新しいし、国連開発計画(UNDP)が提起した「人間の安全保障」(Human Security)という概念――それは、国家中心の「安全保障」の概念から脱却し、それを「安心して日常生活を送りたいという普通の人びとへの配慮」としてとらえ返そうとするものである――は、テロリズム(サイバー・テロリズムを含む)や麻薬からの安全という意味に「翻訳」(ほぼ「誤訳」に近い)されて用いられている。この間に露骨に推し進められている社会保障から治安への公権力の重心移動は、いったい何を意味しているのだろうか。それは、住民=国民全体の生命の保全・増強に関心を抱く「生命-権力」から、ある社会層(それが国民の2/3であれ、3/4であれ)の安全を守るという、より旧い形態への権力のモードの転換を意味していないだろうか。

社会保障の対象からリスク管理の対象へ。この流れは、東京オリンピックを控え、ますます強まるのだろう。

ここで「人間の安全保障」(Human Security)について、詳しくみていきたいと思ったのだが、記事が長くなりすぎたので、次回にまわそう。