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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

モーツァルトの交響曲第40番 「樵(きこり)」と「たこ焼き」

岡田暁生『音楽の聴き方』(5)

「わざ言語」とは、「特定の身体感覚を呼び覚ますことを目的とした特殊な比喩」(生田久美子)であった。例えば、「指先を目玉にしたら」とか「天から舞い降りる雪を受けるように」といった表現である。

岡田は、こんなジョークを紹介している。

イタリアでタクシーに乗って、「もっと速く!」と言うつもりで、「アレグロ!」と言ったところ、運転手がにやりと笑って「ちゃんとアレグロで走っているさ」と切り返したというジョークは、よく知られている。つまりアレグロは「朗らかに、快適に」という意味であって、転じて「浮ついた、だらしない、身持ちが悪い」というニュアンスで用いられることもある。だからアレグロは、「浮き浮き」してはいても、決して「急く(せく)」感じではない。切迫して息があがるような「速く」は、言うまでもなく「プレスト」だ。本当に急いでいるなら、「プレスト!」と怒鳴るべきだった。

次のような音楽用語がある。(http://www.geocities.jp/officekoro/family/keiko/yougo/ongaku.html

ピアニッシモ               とても弱く

ピアノ                          弱く

フォルテ                       強く

フォルティッシモ        とても強く

 無味乾燥である。これをツェルニー(C.Czerny 1791-1857、オーストリアのピアノ教師、ピアニスト、作曲家)は、次のように定義している。

ピアニッシモ                 謎めいた神秘的な性格、遠い彼方からのこだまのざわめきのように、聴き手を魅惑する効果

ピアノ                            愛らしくて柔らかく穏やかな平静さ、または静かな憂鬱

フォルテ                        エチケットに反しない範囲での、独立心に満ちた決然とした力、ただし情熱を誇張するわけではない

フォルティッシモ          歓呼にまで昂ぶった喜び、または憤激にまで高められた苦痛

岡田は、このツェルニーの言葉を紹介して、こう述べている。

これらの言葉はもともとデジタル的な音の強さの指示ではなくて、それぞれ特定の気分で染められた身体感覚の連想を伴っていたわけである。今日のような抽象的/普遍的な「用語」になる以前、これらの言葉は日舞における「腰を入れて」などと同じような、イタリアの楽師たちの生き生きしたわざ言語(ジャルゴン)だったのだろう。

岡田は、ドイツのバイエルン地方を旅行し、地ビールを飲み歩いたときの経験をもとに、次のように言う。

恐らくかの地においては、ビールを「飲む」文化は「語る」文化とセットで涵養されてきたのだろう。味わいを語るいろいろな「土地の言葉」が、そこにはあるに違いない。だからこそ向こうの人たちは、いつものように「どううまいか?」と尋ねてきたのだ。ただ食べたり飲んだりするだけなら、それは単なる生理的な営みに過ぎない「語る言葉」が整えられていくことで初めて、食は食文化になる。そして音楽においても事情は同じだろう。非言語的な文化営為はすべからく、それについて語る言語文化と一緒に育まれる。

確かに、聴き手が生理的反応しかしなければ、「文化」にはならない。言い換えれば、生理的反応プラスα(言語)で文化になる。それは解らないでもないが……。

時として「地元の人」から、音楽を語るための思いがけない、しかし実に当意即妙な比喩を耳にする。…彼の地の人たちは、オペラを見た後で居酒屋に行き、「あの歌手は少しオテロ[ヴェルディ作曲のオペラ]にしては声が明るすぎた」などと言いながら、「明るいビール!」と注文したりしているのである。オペラ歌手の声質をこういうイメージと重ね合わせるなど、それまでの私は想像もしたことはなかった。だが今では歌手の声を聴きながら、時としてビールの色合いが見えたりすることもある。「これはhell(明るい)とdunkel(暗い)の中間くらい」、「これは非常にdunkelな珍しい声」といった具合に。

話の本筋から離れるが、「オペラを見た後で居酒屋に行く」という部分が気になった。オペラと居酒屋(ビアホール)、こういう日常の断片にいささか憧れる部分がある。しかし、いまやそうした風景は、追憶の中にしかないのかもしれない。

 

岡田は、面白い例を挙げている。

例えば有名演奏家の、極めてブリリアント[見事、華麗]ではあるものの、これみよがしで技術が空回りしているような演奏について、彼らはよく「あれは音楽じゃない」という言い方をする。(例えばいつか知人がムーティモーツァルトを聴いて、一拍一拍を金槌で叩き込むようにして振るその様子を、「あれは樵(きこり)だ。あんなの音楽じゃない」と形容していた)。逆に、非常に不器用だが、音を大事にして、何かを伝えようとするような弾き方に対しては、「彼はちゃんと音楽をしている」という賞賛が贈られる。

クラシック音楽の「地元の人」(ヨーロッパの愛好者たち)の間には、どうやら「音楽をする」ということについてのはっきりしたイメージがあり、同じようにピアノを弾いても、ちょっとしたことで彼らにとっては、それが「音楽」になったりならなかったりするらしいということ

 

モーツァルト交響曲第40番

モーツァルトの全楽曲の中、最も有名なものの1つである。1788年7月25日にウィーンで完成された。同年に作曲された交響曲第39番(6月26日)、交響曲第41番(8月10日)とともに「3大交響曲」と呼ばれる。…小林秀雄がその代表作の一つ「モオツアルト」において、道頓堀でふと頭の中に響き渡った曲として楽譜を作中に引用しているのはこの曲の第4楽章である。(Wikipedia)

小林秀雄

もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。http://sawyer.exblog.jp/16134988 より)

 

リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti、 1941- )

イタリア人の指揮者。シカゴ交響楽団音楽監督、ウィーン・フィル名誉団員。現代を代表する巨匠として知られる。…同僚指揮者に極めて辛辣なセルジュ・チェリビダッケをして、「恐ろしく無知だが」という前提だが「才能がある」と認めさせた。チェリビダッケが才能を認めたのはムーティだけである。…メディアや過激な聴衆からはよく「まるで帝王だ」と批判の対象になる。実際にムーティと決裂した相手は、演出家のフランコ・ゼフィレッリロベルト・アラーニャなど多く存在する。(Wikipedia)

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http://www.nbs.or.jp/stages/2015/chicago/schedule.html

 

リッカルド・ムーティウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

www.youtube.com

ムーティを「樵(きこり)」と評することができる耳を持っているとは羨ましい。

 

カール・ベームベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

www.youtube.com

ムーティと比べて、どうなんだろうか。

たこ焼きは、小林秀雄を意識したものであろう。…小林は「たこ焼き」を食ったのだろうか。