浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

社会国家の変容(4) 生の偶然性と社会的連帯

齋藤純一『公共性』(14)

今回は「人間の安全保障」(Human Security)について、詳しくみていこうと思っていたのだが、別の記事で書くことにし、第4節の「社会的連帯の再生をめぐって」に進むことにする。

 

斎藤は、社会国家がこの20年ほどの間に(本書の発行は、2000年5月)、いかなる方向に変容してきたかを、次のように要約している。

その方向とは、社会的連帯の空洞化であり、人びとの社会的・空間的分断化である。リベラルな正義論が当てにしてきた社会的連帯の資源は眼に見えて乏しくなってきている。…人びとが互いに遮断された空間を生きるようになり、労働市場から締め出された人びとを実質的に「棄民」とすることを望まないとすれば、これからの生命の保障のあり方をどのように考えていけばよいだろうか

棄民とは、「戦争や災害などで困窮している人々を、国家が見捨てること。また、その人々。」(デジタル大辞泉)である。…「建前」として見捨てることはない。だが「実質的に」どうであったか。私は、政策評価をするだけのデータを持っていないので、何とも言えないのだが、社会保障が充実してきているようには思えない。

斎藤は、これからの生命の保障のあり方(社会的連帯の再生)を考える際の選択肢は2つあるという。

  1. ボロボロになりかけている社会的連帯を、再びナショナリズムのセメントで固めること。
  2. 福祉国家から福祉社会へ、つまり人々のニーズに対応する空間を国家から市民社会に移すこと。

生命の保障(社会保障)に関連してナショナリズムを持ちだすことはやや場違いな感じがする(政策としても採用されていないのではないか)ので、第1の選択肢については省略しよう。

第2の選択肢が問題である。

これは実現困難というわけでもなく、望ましくないというわけでもないが、いくつかの留保をつける必要がある。というのも、「福祉国家から福祉社会へ」というのは、70年代後半以降、政府主導のもとで推進されてきた「日本型福祉社会」の路線と軌を一にするものだからである。「個人の自助努力と家庭や近隣・地域社会等の連帯を基礎としつつ、効率のよい政府が適正な公的福祉を重点的に保障する」(「新経済7か年計画」1979)という方向性は、まさしく、OECDが提唱した路線を先取りしている。

「日本型福祉社会」の路線とは、高度経済成長(経済規模の急激で継続的な拡大。特に1950年代半ばから1973年の石油ショックまでの間,日本の経済成長率が年平均10パーセントを超えていたことをいう。-大辞林)後の路線であったようだ。成長なければ福祉なし?

「市民社会へ」という方向性は、生命の保障を基本的に個人の自助努力家族・親族の間での相互扶助に委ね、それが機能しない場合にのみはじめて公的な対応を行うという日本の社会保障システム――それは批判的に「残余的福祉モデル」と呼ばれる――にとって、元々うまく適合するものである。

ここで「残余的福祉モデル」という言葉が出てきたが、wikipediaによれば、

イギリスの社会学者リチャード・ティトマスは、第二次世界大戦後の福祉国家研究において各国の制度的違いに注目し、福祉国家を、①残余的(救貧的)モデル、②産業的業績達成モデル、③制度的再配分モデルという三つに分類することを提唱した。①の残余的福祉国家とは、家族あるいは市場がうまく機能しなかったときにのみ、国家が福祉の責任を引き受けるというモデルである。②は経済成長を優先するモデルで、そのために社会福祉は存在するし、経済成長すれば社会福祉も充実するとする。③の制度的再分配福祉国家は社会の厚生にとって重要なすべての分配領域に福祉の責任を広げるモデルである。この分類では、①が最も市場的で、③が最も公的な介入が大きいことになり、アメリカなどが①、ドイツやフランスが②、北欧などが③にあたると考えてよい

学者によりいろいろな福祉国家(社会)論があるようだが、ここはそれらをレビューする場ではないし、その能力もないので詳細に立ち入らないが、日本の福祉政策はティトマスの言う「残余的(救貧的)モデル」に分類されるようだ。「残余的モデル」と言われてもピンとこないが、「救貧モデル」と言われると「そうか」と思う。…「家族あるいは市場がうまく機能しなかったときにのみ」というが、うまく機能しているか、機能していないかの判断は微妙である。

斎藤は、この残余的(救貧的)モデルの問題点を3つ挙げている。

  1. 地域によるケア、家族によるケア、したがって女性によるケアという近代家父長制のイデオロギーが如実であるということ、それは男性もケアの担い手になるという脱-家父長制化の方向性をほとんど含んでいない。
  2. 地域の連帯やボランティアは、少なくともある面では、政府の社会保障を下支えし、補完するという「下請」的な役割を演じがちであるということ、ボランティアをしない、ボランティアによる支援を受けないという、ボランティアからの退出の自由がこれから狭められていくとすれば、市民社会は確かに「動員」の特徴を帯びるだろう。
  3. 市民社会が政治性を免れた空間として表象される傾向があるということ、ボランティア活動などの市民社会の活力はそれが非政治的である限りで歓迎されるという問題である。言い換えれば、市民社会において評価されるのは社会的行為であって政治的行為ではない社会的行為とは、他者の心身の必要に言葉や身体によって対応する活動等式である。そうした社会的行為は、現在の資源・財の分配状況を問題化したり、新しいニーズ解釈を提起していくという政治的行為とも不可分の関係にある。にもかかわらず、ケアなどの社会的行為は政治とはあたかも無縁なものであるかのように語られる顕著な傾向がある。

第1の「近代家父長制のイデオロギー」というのはどうだろうか。法制度や実態面で「近代家父長制」らしきものが見られるとしても、そうせざるを得ないという面があるわけで、イデオロギーとして「オヤジの権威」などもはや存在しないのではないかと思う。

第2の「地域の連帯」、これは今後も強力に主張されるのではないか。それは「コミュニティの再構築」というような理念のもとに政策推進されるのではなかろうか。それは地域社会の(伝統)行事への参画、「声をかけあい、支え合う、安心・安全なまちづくり」(近隣住民や郵便局員や生協配達員の声掛け運動)等に現れているように思われる。それ自体悪いことではない。しかしそれらが自発的に行われることは(恐らく)期待しがたい。「仕事」に追い回されている現実のなかで、どうして「地域社会」のことに構っていられるだろうか。休日や疲れている夜間に、1円にもならないことに時間と労力を費やせるだろうか。かくして、それらは「強制」の色彩を帯びてくる。そうなると、これは「政治」である。…地域社会や家族や会社といったレベルのコミュニティから、グローバルなレベルのコミュニティまで、そこでの社会福祉を考えることは、いずれも政治の課題である。国家から地域社会等に丸投げして済むような話ではない。…何が問題で、なぜそのような問題が生じてくるのか。

 

第3の「市民社会」とはどういう意味だろうか。齊藤はここでボランティア活動を引き合いに出しているので、ボランティア及びNPOの意味に捉えておこう。ボランティアとNPOはどう違うのか。日本NPOセンターは、次のように述べている。→NPOに関するQ&A 

Q1-05 NPOとボランティアは同じもの?

ボランティアは個人の思いを、NPOは組織の社会的な役割を意識した言葉です。ボランティア活動は、よりよい社会づくりのために、個人が自ら進んで行う、金銭的な見返りを求めない活動ということができます。労働の対価を求めない代わりに、活動に関わる個人の自発性に重点が置かれます。個人単独で行うこともありますが、グループで行うもの、あるいはNPOや行政に関わって行うものなどがあります。

「ボランティア」が個人のスタンスを表すことばであるのに対し、「NPO」は組織のスタンスを示すことばであるといえます。社会的使命の達成のために活動をする組織であり、政府や企業とは異なった立場から社会的なサービスを提供し、社会的な課題の解決をめざすものです。

 

Q1-06 NPOとボランティアの関係は?

NPOとボランティアの関係は、組織と個人という観点から、企業とそこに勤める従業員の関係に近いといえるかもしれませんが、NPOにはボランティアという無報酬で関わる人がいる点で、企業とは大きく異なっています。NPOにとっては、組織の運営にボランティアとして関わる理事や監事などの役員も欠かせない存在です。NPOには、ボランティアだけで活動しているものもあれば、日常的には全くボランティアのいないものもあります。

では、NPOとは何か。

Q1-01 NPOってなに?

NPO’は、‘Nonprofit Organization’の略で、直訳すると「非営利組織」となりますが、意味を正確に伝えるためには、「民間非営利組織」と訳すのがよいでしょう。

  • 「民間」とは「政府の支配に属さないこと」
  • 非営利」とは、利益を上げてはいけないという意味ではなく、「利益があがっても構成員に分配しないで、団体の活動目的を達成するための費用に充てること」
  • 「組織」とは、「社会に対して責任ある体制で継続的に存在する人の集まり」

と説明できます。

利益を得て配当することを目的とする組織である企業に対し、NPOは社会的な使命を達成することを目的にした組織であるといえます。

なお、日本NPOセンターでは、その支援の対象とするNPOを「医療・福祉・環境・文化・芸術・スポーツ・まちづくり・国際協力・交流・人権・平和など、あらゆる分野の市民活動団体等の民間非営利組織で、民間の立場で活動するものであれば、法人格の有無や種類を問わない」と定めています。

NPO法人特定非営利活動とは何か。

Q2-06 特定非営利活動ってなに?

特定非営利活動とは、次の20分野の活動で不特定かつ多数のものの利益の増進に寄与することを目的とするものを言います。

1.保健・医療又は福祉の増進を図る活動

2.社会教育の推進を図る活動

3.まちづくりの推進を図る活動

4.観光の振興を図る活動

5.農村漁村または中山間地域の振興を図る活動

6.学術、文化、芸術又はスポーツの振興を図る活動

7.環境の保全を図る活動

8.災害救援活動

9.地域安全活動

10.人権の擁護又は平和の推進を図る活動

11.国際協力の活動

12.男女共同参画社会の形成の促進を図る活動

13.子どもの健全育成を図る活動

14.情報化社会の発展を図る活動

15.科学技術の振興を図る活動

16.経済活動の活性化を図る活動

17.職業能力の開発又は雇用機会の拡充を支援する活動

18.消費者の保護を図る活動

19.前各号に掲げる活動を行う団体の運営又は活動に関する連絡、助言又は援助の活動

20.前各号に掲げる活動に準ずる活動として都道府県又は指定都市の条例で定める活動

実に多様な非営利の活動がある。では、これは行政や企業の活動とどういう関係にあるのか。

Q4-01 協働ってなに?

協働とは、「異種・異質の組織」が、「共通の社会的な目的」を果たすために、「それぞれのリソース(資源や特性)」を持ち寄り、「対等の立場」で「協力して共に働く」こと、と日本NPOセンターでは定義しています。

NPOの協働の相手としては、行政や企業などがありますが、これらとの協働は、それぞれの立場や違いを理解し、尊重し合うことから始まります。その時に気をつけなければならないことは、NPOは行政や企業の補完的な役割としてではなく、自律性や自立性を保ちながら対等な立場で関わることです。加えて、協働の目的は何かが明確にされ、お互いにその目的を共有していることも重要なポイントです。

協働は、それぞれが単独で行うよりも、協力して取り組んだほうがよりうまくいくと考えたときになされるもので、その方法は一つではなく、互いの持ち味を活かせる、さまざまな協働のあり方を模索することが望まれます。すべてのNPOが行政や企業と協働する必要はなく、NPOが独自に実施したほうが望ましいこともあります。

もう一度、斉藤の述べていることを引用しておこう。

  1. 市民社会が政治性を免れた空間として表象される傾向があるということ、ボランティア活動などの市民社会の活力はそれが非政治的である限りで歓迎されるという問題である。言い換えれば、市民社会において評価されるのは社会的行為であって政治的行為ではない社会的行為とは、他者の心身の必要に言葉や身体によって対応する活動等式である。そうした社会的行為は、現在の資源・財の分配状況を問題化したり、新しいニーズ解釈を提起していくという政治的行為とも不可分の関係にある。にもかかわらず、ケアなどの社会的行為は政治とはあたかも無縁なものであるかのように語られる顕著な傾向がある。

先の20の活動項目を見ると、私にはほとんどすべて各レベルの公共部門が行うべき活動ではないかと思えるのだが、なぜNPO法人が設立され、公的部門(自治体)がその活動を支援したりしているのだろうか。

斎藤の批判のポイントは、「活動=社会的行為は、現在の資源・財の分配状況を問題化したり、新しいニーズ解釈を提起していくという政治的行為とも不可分の関係にあるにもかかわらず、政治とはあたかも無縁なものであるかのように語られる顕著な傾向がある」という点にあると思われる。

能動的で活力のある市民社会へという方向には、このような問題がある。しかし、国家による一元的で集権的な統治から市民社会におけるより多元的で分権的な自己統治=自治への移行という方向性それ自体を頭から否定する必要はない。社会国家の「過剰な統治」と人びとの「過小な自己統治」とは表裏の関係にあり、国家の統治への依存性は確かに批判されてしかるべきである――ただし、その依存において問題なのは、財政的負担やモラル・ハザ-ド(「惰民」!の再生産)というよりも、人びとの政治的力量の喪失である。互いの身体のニーズに極めて感度が鈍くなっている現実――例えば過労死を想起されたい――は、私たちが公共的空間における「ニーズ解釈の政治」を怠ってきたことを示唆している。もし、いわれる分権化が、財政的負担の委譲と市民のエネルギーの動員(加えて「監査システム」によって媒介されたコントロール)ではなく、政治的な脱-集権化を本当に意味するのであれば、「市民社会へ」という方向性は、自己統治=自治の実践すなわち政治的自由の実践のさまざまな試みをもたらしていくはずである。公共的価値をどのように定義し、それをどのように実現していくかはかなりの程度、そうした自己統治=自治の仕事になるだろう。

斎藤はここで、「国家による一元的で集権的な統治から市民社会におけるより多元的で分権的な自己統治=自治への移行という方向性」を評価しているようだが、私には若干の違和感がある。すなわち、「自己統治」とはどういう意味か。国家よりも小さなレベルの共同体(コミュニティ)の統治を意味するのではないか。国家よりも大きなレベルの共同体(グローバル・コミュニティ)の統治との関連をどう考えるのか。各レベルの共同体(コミュニティ)の権限と義務を定めることが重要なのであって、国家とか市民社会とかに拘る必要はないと思う。

「市民社会へ」が政治的権力の分散を意味するとすれば、それは歓迎すべきオプションだが、その場合にも次の留保を付しておきたい。その一つは、非人称の強制的連帯という社会国家のメリットは保持されるべきだということである。社会国家の意義は、人びとが家族や共同体(共同体化するネットワーキング)から退出する自由、あるいは労働市場から退出する自由――企業が実態としては共同体であるとすれば前者と同じことであるが――を保障することにある。

「政治的権力の分散」は、望ましいこととは思われない。集中すべきところは集中し、分散すべきところは分散する。問題は、何を集中し、何を分散するかにあると思う。

「非人称の強制的連帯」は、社会国家のメリットとは思われない。共同体(コミュニティ)のルールは、常に「非人称の強制的連帯」の性格を帯びる。

もう一つ指摘したいのは、個人の「能動性」が労働市場における競争能力の維持・強化に振り向けられるならば、「弱者」へのルサンチマンあるいは「弱者」の「棄民」化は回避しがたい、ということである。そうした「能動性」は、見方を少し変えれば、アクティヴでなければ十全な生の保障は得られないという、強いられたより深い受動性の上に発揮されるものでしかない。この受動的な能動性に執着するかぎり、社会保障は秩序防衛のためにやむを得ず最低限のコストとしてしか認識されえないだろう。

ここで斎藤が言わんとしていることは、次のようなことだろうか。…市場経済社会においては、企業は熾烈な競争を繰り広げている。その競争に打ち勝ち、生き延び、成長していくためには、組織成員(従業員、労働者)は、自己啓発し、創意工夫を発揮しなければならない。そうして会社に貢献するならば、名誉(出世)とお金(報酬、給与)を保障する、つまり十全な生の保障をする。しかし会社に貢献できない無能力者は、名誉もお金も与えられない。それが嫌なら辞めてもらう。公共部門は、失業手当の支給や教育訓練を実施して、この経済社会の秩序を維持してもらいたい。…この考え方では、「弱者」の「棄民」化は回避しがたい。(棄民とは、困窮している人を、国家が見捨てること)。

東芝の「チャレンジ」が思い出される。(日経ビジネス 2015.08.31 №1805)

 今回の不祥事の芽は昔からあった。2000年ころから計画を達成するためには不正が当たり前になっていった。

チャレンジの意味が変質していった。

  • 官僚主義がはびこっていて、16年間働いたけどやりがいを感じた仕事はほとんどなかった。
  • 家族のために我慢の日々…下請に対しコスト面での「協力」や検収時期の先送りを依頼。高すぎる数値目標を実現するには仕方ない。雇用と家族のためには我慢せざるを得ない。(40代前半、購買・資材)
  • 達成できないと懲罰人事…物理的に不可能なスケジュールで製品試作を命じられた。できない理由は聞いてもらえない。結果として遅れたため、業績評価で低評価を受けた。(40代後半、研究。開発)
  • 同業他社も「チャレンジ」が普通…必死になって「ジャンプ」しても到底届かない予算に毎期「チャレンジ」させられ、進捗を毎月チェックされていた。東芝に限らず、2000年当時の電気業界ではそれが普通だった。(50代前半、調査・マーケティング)
  • 通報は上司にバレバレ…誰が社内窓口に通報したか、上層部には筒抜けになっている。(50代前半、研究・開発)
  • 目的に合致した数字のみ公表…製品の性能試験の結果を操作。目的に合致した数字だけを公表していた。今回の事件は都合のいいデータばかりを見て本質を捻じ曲げたことが原因。自業自得だ。(40代後半、設計)
  • 拒否すれば仕事にならない…かなり高い利益率を上層部から強要された。拒否すれば業務が開始できなかったので、うわべだけ従ったふりをした。(50代前半、設計)

 

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http://futureideas.org/wp-content/uploads/2015/02/Overcome_Challenge.jpg

 

斎藤は、本節の最後にこう述べている。

それは、少なくとも、ロールズが強調した自然的・社会的な偶然性への対処という意味を失ってしまうだろう。私たちの現在の生が、幾重もの自然的・社会的な偶然性の上に築かれているという事実が忘却され――確かに私たちはこの事実を忘れやすい――現在の生がひとえに過去の努力とか勤勉に対する正当な報酬であると思い込まれていくならば、社会的連帯という理念が回復することは恐らくないだろう。

現在の生は、「幾重もの自然的・社会的な偶然性の上に築かれている」、これは間違いない事実であると思われる。

社会的連帯という理念を維持するために必要なのは、国民的アイデンティティを再興することではなく、私たちの生の根底的な偶然性を繰り返し認識することである(地球上のどの社会に生を享けたかという偶然性に対する認識は、生命の保障をその成員に限定せざるをえない社会国家の枠組みをも相対化していくはずである)。

もちろん、「生の根底的な偶然性」を認識するだけでは、社会は良くならない。自分に可能な行動を起こさなければ、社会は変わらない。