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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

功利主義(5) 規則功利主義 人はルールを守っていればそれで良いのか?

読書ノート 私たち

加藤尚武『現代倫理学入門』(5)

加藤は、功利主義(最大幸福原理)の欠点を5つ挙げていた。(功利主義(4)「幸福」の追求は、望ましいことなのか?参照)

  1. 単一原理主義の破綻…「行為や制度の社会的な望ましさ」を考える際の原理は、幸福だけではない。
  2. 幸福加算の不可能性…各人の幸福や多数の人の幸福を加算することができない。
  3. 個体の基準の不在…幸福の総計が問題なのであり、「個人の幸福」がそれ自体として考慮されることはない。
  4. 義務への動機の不在…個人が自分の不利益を顧みずに義務を果たす「義務を超える自己犠牲」を説明できない。
  5. 配分原理の不在…国民の間の所得格差が大きくなっても、国民総生産を多くした方がよいということになる。

 

これらの欠点を改善する試みに、規則功利主義という考え方があるという。規則功利主義とはどういうものか、一口に言うと、

最大幸福の原理で評価する対象を、個々の行為ではなく、行為の集合、規則に置き換える。

ちょっと簡潔すぎて理解できない。そこで入門者向けに詳しく説明されるのだが(本書は『現代倫理学入門』である)、それでも難しい。そこで、wikipdediaの説明を参照しよう。

両者[行為功利主義と規則功利主義]は功利原理(利益=善)の対象が異なる。前者は行為が利益をもたらすか(「それをすれば利益があるか?」)を基準にし、後者は「規則」(「皆がそれに従えば利益があるか?」)を基準にする。

例えば、行為功利主義では「貧しい人が子供のために食べ物を盗む」のは子供が助かるからかまわないとし、規則功利主義では「子供のためなら食べ物を盗んでもよい」という規則があれば窃盗が横行して治安が悪くなるからいけない、とする。(Wikipedia)

この例題を考えれば、規則功利主義を理解することができるだろう。

行為功利主義では、「貧しい人が子供のために食べ物を盗む」のは子供が助かるからかまわないとするという。しかし、行為功利主義はそんなことを主張していないだろう。確かに、子どもは助かり効用は増加する。でも食べ物を盗まれた人は効用が減少する。この両者を加算してプラスならば、幸福の総量は増加しているので、盗んでもよいが、両者を加算してマイナスならば、幸福の総量は減少しているので、盗んではならない。このように主張しなければならない。ここでのポイントは、個々の行為ごとに幸福の総量を計算して判断しなければならないということである。

規則功利主義では、「子供のためなら食べ物を盗んでもよい」という規則があれば窃盗が横行して治安が悪くなるからいけないとするという。この説明もおかしい。行為功利主義の例と対比して言うならば、「子供のためなら食べ物を盗んでもよい」という規則ではなく、「貧しい人なら子供のために食べ物を盗んでもよい」という規則でなければならない。こういう規則ならば、必ずしも「窃盗が横行して治安が悪くなる」とは言えないのである。規則功利主義の主張のポイントは、例えば「他人の物を盗んではならない」という規則が、社会全体の幸福の総量を増加させるか否かを考え、増加させるならばその規則を採用しようというものであり、私たちは自分の個々の行為を判断する必要はなく、規則を守ればそれで良しとするのである。

 

加藤は、マッキー(1917-1981)の説明を引用している。

「規則功利主義が行為功利主義と違う点は、それが万人の幸福を直接にではなく間接に、すなわち2段階の手続きによって、正しい行為の基準にするということである。それはオースティン(1790-1859)の「われわれの規則は効用に、行為は規則に合わせよう」という言葉に要約される。オースティンによれば、各行為が正しいか否かを見るにはその「傾向(tendency)」を見極めなければならない。すなわち、その行為が属する行為の集合が一般的に実行されたとき万人の幸福への影響がおよそどうなるかを考察しなければならない。」

つまり、正しい行為の基準=万人の幸福の基準=効用の基準を、個々の行為にではなく、行為の集合=規則に求めようというのである。【行為-規則-効用】である。

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加藤は、この規則功利主義を、次のように「定式化」する。

第1段階…「ある道徳基準が、特定の社会で通用した際に、現行の他の道徳基準と少なくとも同じだけの1人当たりの善(全体を個人の数で割ったもの)を生み出すならば、<理想的>であると言うことにしよう」。別に<理想的>などという高級な言葉を使わないで、「ある道徳基準が、現行の他の道徳基準と少なくとも同じだけの1人当たりの善を生み出すならば、<合格>だとしよう」と言っても同じことである。「理想的」とは「最善」という意味ではなくて、水準に達しているという程度の意味である。

第2段階…「一つの行為は、もしそれが社会にとって理想的な道徳基準によって禁止されていないなら、またその場合に限り正当である。行為者が、その行為のために道徳的に非難(賞賛)に値するのは、その社会で理想的な道徳基準が彼をその行為のために非難(賞賛)する場合であり、またその度合に従ってである」。道徳の相場にしたがって「禁止されていない」、すなわち「してもよい」ということを「正当」(right)と言う。これは最低限度の基準である。例えば「人前で鼻くそをほじる」のも「正当」であるかもしれない。普通の感覚では、これは「してはいけないこと」になるだろう。

これがマッキーの説明なのか、加藤の説明なのかよく分からないが、なかなかに難しい。(というか、これが規則功利主義の正しい説明なのであろうか?)

第1に、規則を「道徳基準」と言い換えている。いままで「規則」について話してきたのではなかったか。何故「道徳基準」になるのか。規則=道徳基準だというなら、その説明が必要なはずだ。加藤は、第4章(エゴイズムに基づく行為はすべて道徳に反するか)の「倫理学は何を決めなければならないか」の中で、次のように述べていた。

功利主義のすぐれた点は、…倫理学の第一の課題を立法の方法にあると決めた点である。

この「立法の方法」というところに力点を置くならば、「道徳基準」などと言い換えずに、そのまま「規則」と言っておけばよい。あるいは、「法規範」と言い換えても良いかもしれない。(日本語の語感としては、「道徳」というのは「個人道徳」であり、その内容は曖昧模糊としている。)

第2に「1人当たりの善」という話は初めてではないか。これまでの功利主義の説明で、「1人当たりの善」というのは出てこなかったと思う。規則功利主義が言わんとしているのは、「1人当たりの善」ではないだろう。

そこで、加藤の言う第1段階を言い換えてみると、「ある規則が、現行の他の規則と同じだけの幸福を生み出すならば、その規則は可能な選択肢の一つである」となる。

第2段階の説明もよく分からない説明である。理想的な道徳基準? では理想的でない道徳基準とは? 何が理想的か否かを決めるのか? 「正当」という言葉の使い方について…「道徳の相場」にしたがってとはどういう意味? 禁止されていない(してもよい)を「正当」というのは、適切な言葉の使い方とは思われない。これを「最低限度の基準」というのもおかしい。喫煙は禁止されていない。これは「最低限度の基準」なのか。「人前で鼻くそをほじる」のは禁止されていない。これを「正当」というのは随分と奇妙な言葉づかいではないか。

では、加藤の言う第2段階を言い換えてみよう。「ある行為が、規則によって禁止されていなければ、その行為はしてもよい。禁止されていれば、その行為をしてはならない」となる。

したがって、第1段階の説明も、第2段階の説明も、何ら有意味な主張をしているとは思われず、加藤のこの規則功利主義の定式化は、何をいっているのか理解できない。

 

加藤は次のように言っている。

この2段階の規定は、「善」を量で測っているという点では、非常識だが、それ以外の点ではとても常識的な枠組みである。

この2段階の規定が、「とても常識的な枠組みである」と言うが、上述の通り、何故このような規定をしなければならないのか理解できない。

ブラント(1910-)によると、この枠組みが、実際に使えるためには、さらに次のような背景がなければならない。

道徳基準がある社会で通用するためには、次の2項目が真実でなければならない。

  1. その社会の大多数の成人がその道徳原理に賛同しているか、もしくはその基準を構成するような道徳的意見を持っていること。その[賛同者の]割合が正確にどの位の高さになるかは、道徳基準という言葉の普通の意味を基礎にしたのでは、ほとんど決まってこないが、少なくとも90%の賛同を要求しても悪くないだろう。
  2. AとかBとかの特定の原則がある社会の道徳基準に属するのは、それらがそういうものとして認知される場合に限られると言いたい。それは、すなわち、その社会の成人の大多数が、AとBに関して、社会のほとんどの成員がそれらに賛同するかどうかが質問されれば正しく応答するだろうということであるはずである。

道徳基準を、規則(ルール、法)に置き換えて読んでみよう。民主主義(多数決)の話かと思いきや、「90%の賛同」などと言う。

 

私は、加藤の定式化の説明がよく分からないといっているだけであり、規則功利主義wikipediaの記述やマーキーの【行為-規則-効用】の説明を読めば、規則(ルール、法)について、より詳細を検討する必要があると思う。規則功利主義の検討とは、法哲学の検討と同義ではないかと思う。