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気の向くままに

形而上学・倫理学・法哲学・社会学・自然学・美学・その他諸々について書いてみたい幼稚園児のブログです。まあ、しかし焦らずにゆっくりと、気の向くままにいきましょう。

親密圏/公共圏(1) 愛の共同体

齋藤純一『公共性』(15)

今回から、第4章 親密圏/公共圏であるが、まず「愛の共同体」としての「家族」が話題になっている。齊藤の論述を見ていく前に、一般的な「家族」概念を確認しておこう。

婚姻によって成立した夫婦を中核にしてその近親の血縁者が住居と家計をともにし,人格的結合と感情的融合のもとに生活している小集団。家族は原始的群居の状態から次第に血縁的秩序の分化を経て今日の小家族へと段階的変化をとげてきた。(ブリタニカ国際大百科事典)

夫婦・親子を中心とする近親者によって構成され、成員相互の感情的絆(きずな)に基づいて日常生活を共同に営む小集団。一般に人々はその生涯に2種類の家族とかかわる。一つは自分が子供として生まれ育った家族、すなわち定位家族family of orientationであり、他の一つは自分が結婚して新しくつくる家族、すなわち生殖家族family of procreationである。(日本大百科全書)

厚労省は、「世帯構造」を、次のように分類している。

  1. 単独世帯 (世帯員が一人だけの世帯)
  2. 核家族世帯
    • 夫婦のみの世帯
    • 夫婦と未婚の子のみの世帯
    • ひとり親と未婚の子のみの世帯
  3. 三世代世帯
  4. 上記­1~­3以外の世帯

上記世帯数の構成割合の年次推移は、次の通りである。

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http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/dl/20-21-h25.pdf

 

このグラフを見れば、明らかな傾向が見てとれる。単独世帯と夫婦のみの世帯が増加している。三世代世帯が減少している。

単独世帯(一人暮らし)は、いろんな問題を孕んでいる。若年期はまだ良いとしても、30代半ばを過ぎれば、次第に(肉体的な)病気のことも考えなければならないようになるだけでなく、現代日本のこの社会で、こころの病いを発症する可能性も考慮しなければならない。老夫婦のみの世帯もいずれか一方が死ねば、単独世帯になる(独居老人)。私は、単独世帯の増加は、基礎的なコミュニティの欠落の意味において、かなり深刻な事態であると考えている。

核家族世代は、約6割で推移しているが、その内容構成に大きな傾向的変化がある。これは「三世代世帯の減少」とともに、基礎的なコミュニティの弱体化を意味するのではないかと思う。詳細は、別の機会に。

これらのことを頭において、斉藤の話を聞こう。

 

小家族は、貴族の親族関係や一般民衆の大家族と区別される仕方で、18世紀中葉市民層にとっての主要な家族形態として登場する。ハーバーマスがその特徴として挙げるのは、自由と愛と教養(bildung)である。それは、両性の自由な意思によって結ばれる関係性であり、気まぐれではない愛情をメディアとする「愛の共同体」であり、書簡の交換などを通じて「人間性」(humanitat)の形成が行われる教養の空間である。それは、客間を通して親密な社交の空間にも開かれており文芸的公共圏を育む母胎ともなる

18世紀市民層(ブルジョワジー)の小家族の特徴は、「自由と愛と教養」であると言われると、ずいぶんと魅力的なもののように聞こえる。それは「気まぐれではない愛情をメディアとする愛の共同体である」。さらには「「人間性」の形成が行われる教養の空間である」、「客間を通して親密な社交の空間にも開かれている」、「文芸的公共圏を育む母胎となる」。実際にこのような共同体・空間が存在したかどうかはともかく、私にはこのような「愛の共同体」は、非常に魅力的なものに映る。私の願望は、これを「小家族」にとどめるのではなく、さまざまなレベルのコミュニティにおいて実現できないか、というものである。

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https://hannacrowley.files.wordpress.com/2013/02/old-couple-on-park-bench.jpg

 

アーレントは、近代における親密圏の発現を「愛の共同体」というコンテクストとは別のところに見ている。それはハーバーマスのように私的領域のなかに位置づけられるのではない。親密圏は、「社会的なもの」の威力、そのコンフォーミズムの力に抗するための空間として現れる。ルソーが抵抗したのは、政治的な抑圧に対してではなく、「人間の心をねじ曲げる社会の堪えがたい力、人間の内奥の領域に侵入してくる社会」に対してであった。

ルソーが「人への依存」と呼んで唾棄した世評の権力、偽りの仮面をかぶることを要求し、人間を分裂させる「社会的なもの」の膨張こそが、親密圏――自己が自己であり得、存在と外観とが分裂しない透明な空間――が発明された理由である、とみるのである。親密性をめぐるアーレントの議論に特徴的なのは、親密圏を失われた公共的空間のいわば代償的な空間として捉える見方である。

アーレントの著作を読まないで、斉藤のアーレント解釈でもってアーレントを理解するのはなかなか難しい。アーレントはルソーを引いて自身の考えを述べているのだろうか。しかし私は学者になろうとしているのではないから、誰が何を言ったか正確に把握しようとは思わない。齊藤がここに書いていることから、いささか考えをめぐらすことができればそれでよい。…親密圏(「家族」と言う名の愛の共同体)が、邪悪な「画一化(コンフォーミズム)」を迫る「社会」からの防空壕として要請される。そんな親密圏は必要ではあっても、本来的に望ましいものではない。

 

アーレントの見る限り、親密圏は、あくまでも公共性の光が翳る「暗い時代」の代償的な対話の空間であって、「あらゆる多様性をもった人びとの〈間の空間〉(interspaces)にのみ形成されうる世界」としての公共的空間そのものではない。

しかし、アーレントのいう「あらゆる多様性をもった人びとの〈間の空間〉(interspaces)にのみ形成されうる世界」としての公共的空間など、私には実現不可能なものに思える。(実は、アーレントの言う公共的空間をよく理解しないで言っているので、後で撤回するかもしれないが)

 

「真理の保証としてのコミュニケーションの重要性を主張した近代の哲学者がしばしば陥る誤りは、対話の親密性、すなわち私が私自身や「もう一人の自己」に訴えるという「内的行為」の親密性は、拡張されて政治的領域にとっての範型となりうる、と思い込んでいることである。」

「内的行為の親密性が、拡張されて政治的領域にとっての範型となりうる」とはとても思えないが、「コミュニケーションの重要性を主張した近代の哲学者」は、本当にそういうことを主張しているのだろうか。

親密圏における人-間の複数性は、公共的=政治的領域の「無限の複数性」には達しえないという見方は確かに間違いではない。親密圏に成立する対話は、抗争を欠き、したがって政治性を欠くかもしれない。それは距離を失って「あらゆる差異を払拭するような同胞愛の過度の近しさ」に陥るかもしれない。親密圏の対話は、外から眺めれば、内閉した等質なコミュニケーションとしてしか映らないかもしれない。親密圏の複数性はたしかに脆弱である。しかしながら、こうした捉え方に対しては、人びとは果たして「無限の複数性」によって特徴づけられる公共的空間に何の媒介もなく加わり得るだろうか。あるいは、親密圏の対話は本当に政治と無縁だろうか。それが政治的な権力(アーレントの言う意味での、「共同の協議」から派生する力)を生み出すことはないだろうか、と反問することもできる。親密圏は公共的空間そのものではありえないというアーレントの認識を踏まえ――そして美しい(うるわしい)間柄に対する彼女の警戒の念を共有し――ながらも、親密圏をもっと両義的な位置において見る必要があるだろう。

斎藤は、このように述べており、これに対して全面的に賛成できるような、ちょっと違うような…。

次節の「親密圏と公共圏・家族」を検討する際に、再度考えてみよう。