浮動点から世界を見つめる

「井蛙」には以って海を語るべからず、「夏虫」には以て冰を語るべからず、「曲士」には以て道を語るべからず

情報の大海(ノーム・チョムスキー)

吉成真由美『知の逆転』(3)

今回は、ノーム・チョムスキーへのインタビューの2回目。

吉成…(オバマ大統領は)予備選挙の最中に、あるインタビューで、「もし自分がアタックされた場合は、素早く、強く、正直に、真実のみを語ることによって反撃するなぜなら真実というものには人びとが考える以上の強い力があるからだ」と答えていました。おそらく真実を言うということにわずかでも興味を示した最初の大統領ではないかとそのとき思ったのですが。

しかし、チョムスキーは吉成のような甘い考えをしていない。

もしあなたがジョージ・ブッシュをインタビューして、真実についてどう考えるか聞いたなら、おそらく真実は素晴らしいもので、何よりも強く、自分は真実というものに挺身するつもりだというでしょう。ひょっとするとヒットラーも同じように言うかもしれません。政治的な指導者というのはそういうふうに言うものです。だから良識ある人々は、自己防衛のためにそういう発言にあまり注意を払わないのです。

政治家は話の仕方がうまい。それは一種の能力である。なお、誤解なきよう付言しておけば、チョムスキーオバマがブッシュと同じような人間だと言っているわけではない。オバマは、普通の民主党中道派だと言っている。

日本が満州を征服した際も、気高い志に燃えていました。われわれは中国を地上の楽園にする日本はすべてを犠牲にして中国人民と満州人民を中国の蛮賊から守るのだ、と。彼らは真摯であったと思いますよ。

ヒットラーチェコスロバキアのズデーデン地方を占領したときも、これはドイツ人による立派な行為である。これによって民族間の闘争を終結させ、史上初めて人々が一緒に暮らすことができるようになる。ドイツ人が持っている、より進んだ資材と技術を広めることによって彼らを援助できるのだ、これは高貴な行いである、と。

アメリカ南部の奴隷所有者たちも実際かなりの的を射た論理展開をしていたのです。われわれは北部の製造業者たちよりはるかに慈悲深い、なぜならわれわれは労働者を所有しているからだ。もし車を所有していたら、それを大事にするだろう。それと同じだ。単に彼らを雇っているだけなら、特別に世話しようとは思わないだろう。いらなくなったらポイ捨てすればいいからだ、と。確かにある種の真理をついています。

正規労働者は「奴隷」であり大事にするが、派遣・臨時労働者は「ポイ捨て」であると考える人も多いだろう。

 

チョムスキーは、民主主義についてこう話す。

問題は民主主義の限界ということです。人類にとって、核の脅威や環境崩壊よりも大きな問題かもしれません。アメリカは世界中で最も自由な国のはずですが、国内で力の不均衡がある。情報システム、メディア、広告などが、ほんの一部の手に集中しているのです。ちょうどラテンアメリカで、貧しい人びとが飢えている時に、大金持ちが高級品を輸入していた構図と似ています。アメリカは自由ですが、情報へのアクセスと言う点では、局在している。

世論形成に大きな力のある「情報システム、メディア、広告」が、一部の手に集中しているということは、よく考えなければならない現実であろう。

巨大な力を持つアメリカの企業は、地球温暖化というのは根拠のない仮説にすぎないと、躍起になって大衆の説得を試みていて、しかも成功しつうある。人為的な理由による地球温暖化を信じているのは、人口の3分の1にすぎないわけですから。先の(2010年の)中間選挙を見てください。当選した共和党議員の大部分が、地球温暖化を否定しています。主要委員会の若い共和党リーダーは、「そんなことが起こるわけがない。神が許すわけがないから」と言ったのです。

地球温暖化」というのは興味深い話題である。「神」に挑戦しなければならないかもしれない。いずれこのブログで取り上げたい。

 

インターネットについて

中国のような政府による介入の形だけでなく、アメリカでもある種の規制がおこりつつありますが、どんな形であるにしろ、規制の動きに対しては反対していくべきです。

ほんの半ダース位の会社がインターネットに対するアクセスをコントロールしている現在、問題の核心は、これらの会社が、ユーザーがやることに介入できるようにするのか、という点です。例えば、ユーザーのやることがこれらの会社にとって好ましければより速くアクセスできるようにし、そうでない場合はアクセスするのは難しいようにする、とか。最近も裁判所が実際これを可能にしたのです。これが進めば、中国式ではないにしろ、インターネットを規制することになります。インターネットはあくまで自由にしておくことが望ましい。

1960年代にMITでインターネットの開発が始まり、公共部門のプロジェクトだった。…1995年に民間企業に手渡されたのですが、完全に自由にしておくために、公共部門下に置いておくべきだったかもしれない。

チョムスキーはなかなか興味深いことを言っている。民間企業に任せてしまえば、ユーザーの自由が保証されない(介入される)リスクがあるので、自由を確保するためには、公共部門の管理下に置いておく。…公共部門というとすぐに「権力」を思い浮かべ、「反権力」がリベラルなのだというようなステレオタイプ(固定的)な考えをもっていない。

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吉成…インターネットは、ウィキペディアの例に見られるように集合知能と呼べるようなものを生み出して、たやすくプロパガンダ[政治的宣伝]に騙されたりしない、より平等な調和した方向に世界を動かしていくでしょうか。

チョムスキーはこう答えている。

ウィキペディアは、事実情報を得るためにはたいへん役に立ちます。論争の的になっているような事柄については信用できませんが、国連安保理の決議書などということに関しては、調べるのにとても便利です。またインターネットは素晴らしい調査研究の道具になりますし、広く様々な種類の道具へのアクセスを可能にしてくれます。

しかし、情報にアクセスするということ自体は、あまり役に立ちません。…生物学でノーベル賞を取るような人は、論文を片端から読むような人ではなく、何を探すべきか、何が大事か、ということが分かっている人です。だからこちらで大事なことを拾い、またあちらで大事なことを拾うというふうに働く。

論文(本)を片端から読んだところで何にもならない。一生を費やしても、無数にある論文(本)のごく一部を読めるに過ぎない。別にノーベル賞を取ろうと思わなくても、学者になろうと思わなくても、本を読もうとするとき、情報にアクセスしようというとき、何を探すべきか、何が大事か、ということが分かっていることが望ましい。書物の大海、情報の大海に飲まれて、自分を見失う。「何を探すべきか、何が大事か」がわからない。「何を探すべきか、何が大事か」を見失ってしまう。

世界事情も同じで、垂れ流しの情報があってもそれは情報がないのと変りません。何を探すべきか知っている必要がある。そのためには、理解あるいは解釈の枠組みというものをしっかり持っていなければならない。これを個人で獲得するのはたいへんです。機能している教育制度や組織が必要だし、他の人たちとの交流が必要になる。視点というものが形づくられ発展していくためには、構造をもった社会が必要になります。

理解あるいは解釈の枠組みを持つためには、教育が必要だというとき、その枠組みは相対的なものであるということを含んだ教育でなければならないだろう。

ちょうど科学分野における大学院のようなものです。MITの私たちの学部では、学生は個人で研究するということはありません。みなグループで研究する。何かアイデアがあれば、他の学生や教授たちと話をすることで、彼らからアイデアをもらい自分からもアイデアを提供するという、双方向の交流がある仕事は共同作業であり、相互作用です。物事を理解するうえでも同じことが言えます。

学問だけでなく、およそどんな「仕事」であれ(おそらく芸術活動でさえ)、共同作業であり、相互作用であるように思われる。

 

現代はたいへん細分化された社会で、組合も政党も影が薄くなり、まだ何らかの活動をしている集団と言えば教会くらいのものです。そういう社会では、インターネットはカルトを生む土壌になる。全く意味をなさない事柄でも、そこにあるので人びとが寄ってきて、意味をなさないまま、ぞろぞろとサイバー上に人が集まってくるという現象が起こります。

カルトとは、

カルトはラテン語で「崇拝」や「儀礼」を意味するcultusを語源とし、学術用語としては、カリスマ的指導者を中心とする小規模で熱狂的な信者の集まりを指す。しかしマスコミでは、時として犯罪行為を犯すような、反社会的な宗教集団を指す用語として使われ始めた。さらに、指導者に絶対服従させ、信者の自主性を著しく阻害し、犯罪行為を繰り返すような宗教集団のことを破壊的カルトと呼ぶようにもなった。(岩井洋、知恵蔵2015)

とくにアメリカ社会において顕著で,無視できない意味を有している。アメリカはキリスト教の聖地のようなイメージを国の内外に誇示してきたが,広大な空間にさまざまな種類の人間が住み,生活や社会に安定が乏しいため,多くの人が孤独と不安をかかえ,オーソドックスな信仰には必ずしも心を満たされないでいる。(世界大百科事典)

別にアメリカに限ったことではない。日本でも「オウム真理教」がカルト集団とされている。オウム真理教には高学歴者がいて話題になったものだが、そういう人でも狂信者になるということである。(興味ある人は、検索してみてください)

チョムスキーは、「インターネットはカルトを生む土壌になる」と言っているが、確かにそういう側面もあるかもしれない。イスラム過激派(テロリスト)もインターネットを活用していると話題になっているが、しかしこんなことを強調してもあまり意味がないように思う。単なる便利なツールに過ぎないだろう。問題はそんなところにはない。